第90話 君に踊る紅-1-
顔を赤くしたレヒトと、笑いを堪えるような様子の快が救護室から出ると、外ではシャウトとミオが待っていた。
「よぉ、どうだった?」
「レヒトさん、大丈夫ですか?」
頷くレヒトの頭には、真新しい包帯が巻かれている。
あの後、レヒトは頭の怪我を診てもらうために快とラグネスに伴われて救護室を訪れていた。恥ずかしさもあり、レヒトは大丈夫だと固辞したのだが、もしものことがあったら、とラグネスに強く言われ、仕方なしに承諾したのだ。
救護室には、あの騒ぎで怪我をした兵士たちも運ばれてきていたのだが――。
事情を知らない兵士たちはレヒトの頭の怪我を見て、襲撃者からレイを守った際に負ったものだと思ったらしく、騎士の鑑ですね、などと言っていたりもしたが。当然、これはそんなに格好のよいものではない。
レヒトは恥ずかしさで顔から火が出る思いだった。
どうしたのかと尋ねるガルヴァに、ラグネスが馬鹿正直に、実は壁に思いきり、などと言い出した時、思わず大声をあげてしまったのも無理はないことだと思う。
結局、レヒトの怪我は、戦闘中に強打した、という風に説明した。とりあえず、嘘は言っていないのでよしとしよう。
ちなみに、ラグネスも中で治療を受けている。ミヤに攻撃を仕掛けた際、腰を痛めたらしい。
例の『関係者以外立ち入り禁止! 入ったら殺す!』という紙の張られた扉を閉め、レヒトはふぅ、と息を吐いた。まだ顔が赤い。
「……恥ずかしかった」
レヒトがそう呟くと、シャウトが豪快に笑った。
「鍛え方が足りねぇな!」
そもそも、こうなったのはシャウトの馬鹿力が原因なのだが。レヒトはなにも言わないことにした。
第一、シャウトと比べれば、レヒトだけではなく、ほとんどの人間がひ弱に分類されるに違いない。
「さぁて、レヒトも戻ったことだし、俺様は行くぜ」
一頻り笑った後、シャウトが唐突に声をあげた。
どこへ行くんだ、と問えば、シャウトはにぃっと笑みを浮かべて天井を指差した。地上、という意味だろう。
「あ、見張りか? だったら、俺も……」
そう声をかけると、シャウトは、あんたは生真面目だな、と苦笑した。
「そんなんじゃねぇさ。星を見ながら寝るだけだ。……どうだい、そこの嬢ちゃんも一緒に」
シャウトに視線を向けられたミオはきょろきょろと周囲を見渡し、嬢ちゃんという言葉が、自分をさすものだと気付いたらしい。
「え? ……あ。はい、私も一緒に行きます。外を探検してみたい」
「お、ロマンがあるなぁ」
こんな真夜中に、廃墟と化した街を探検することに、ロマンがあるのかどうかは、この際、深く考えないことにしよう。
「怪我人はゆっくり休んでな。姫、そいつが無茶しないように、しっかり見張っててくれよ」
レヒトは快と思わず顔を見あわせた。
すると、シャウトが振り返り、レヒトへと視線を向けて唇を動かす。
うまくやれよ――その言葉の意味を掴んで、レヒトは顔がまた赤くなるのを感じた。
「私は嬢ちゃんじゃありません、ミオです」
「そうかい。わかったよ、嬢ちゃん」
「……もう!」
そんな言い合いをしつつ、二人は通路の奥へと消えて行く。
「……ねぇ、レヒト。少し付き合わない?」
二人の姿が見えなくなったのを確認してから、やおら快がそう切り出した。
「うん?」
快はウィンクすると、グラスを呷るような仕草をして見せる。
「いいのが残ってるんだ。……どう?」
「もちろん、喜んで」
少しばかり芝居がかった動作で頷くと、快は似合わないよ、と笑った。
二人分のグラスを、レヒトの髪と瞳を思わせる、深いワインレッドの液体が満たしてゆく。
「……いい香りだな」
レヒトは酒の匂いだけで酔えるほどだが、これはそうでもない。酔うためにあるような酒――いわゆる安酒に多い、鼻を突き刺すような強烈な匂いがないのだ。
たとえるなら、もぎたての果実のような、爽やかな香り。
「なかなかいいでしょう。遠い異国の品なんだ。滅多に手に入らない貴重なものなんだよ」
なるほど。よく見れば、確かにボトルに巻かれたラベルには、レヒトには読めない文字が描かれている。
「いいのか?」
「なにが?」
首を傾げる快に、レヒトは頬を掻いた。
「いや……貴重な品なんだろう? 俺は、酒にはあまり強くないから……一緒に飲んでも、楽しくないかもしれないぞ?」
「いいんだよ。僕はレヒトと飲みたかったの」
「快……」
その言葉に、レヒトはちょっとした優越感を覚えた。彼女が、滅多に手に入らないという上等な酒の相手に、シャウトではなくレヒトを選んだという、たったそれだけのことでだ。
「だって、シャウトなんかと一緒に飲んだら、急がないと全部飲まれちゃうじゃない。味とか香りとか楽しむ余裕がないんだもの」
「……そ、そうですか」
嬉しいやら、悲しいやら。それでも、彼女が一人で飲むのではなく、自分を招待してくれたことに違いはないと、レヒトはなかば開き直って相手を努めることにした。
「けど……よかった」
グラスのひとつに酒を注ぎ終えたところで、快がぽつりと呟き、ボトルを傾けていた手をとめた。
「レヒトが、無事に戻ってきてくれて」
微笑みを湛えていた快の瞳に、ふっと影がさす。
「あの時はね、もうだめだって思った。僕も死ぬんだ、みんなも死んじゃったんだ。また……僕は大切な人を失ってしまったんだって……」
その言葉が、レヒトの心に引っ掛かった。しかし、レヒトは問うことができなかった。彼女の悲しげな瞳の向こう、今でも彼女を縛り続けるものを、見てしまったから。
「僕は助かった。シャウトとも、伯父様とも会えたのに……レヒトはいなかった……」
ふぅ、と快が小さく息を吐く。ボトルをテーブルに置くと、ワインレッドで満たされた片方のグラスを手にとり、くるくると揺らす。グラスの中で、ワインレッドの波が踊った。
「けど、ね。シャウトも、伯父様も……レヒトが死ぬはずはないって言うんだ。絶対に生きてる、絶対に戻ってくる。だから、諦めちゃだめだって」
「……快……」
「一度は、諦めてしまったけど……もう一度、僕も信じてみようって思ったの。そしたら、本当に戻ってくるんだもの」
快は手にしたグラスを、レヒトに差し出す。ふわりと甘い香りが漂った。
酒の香りか、はたまた彼女自身の香りか――レヒトには、わからなかったが。
「……僕を許してね、レヒト。一度は、希望を捨てた僕を……」
立ち上がり、彼女からグラスを受け取って。
「……俺も、同じだ」
レヒトはそっと、歩み寄る。
「俺は一人、名もなき小島に流された。俺が気付いたときには、あれからすでに二十五日が過ぎていたんだ。そこで天界が落ち、ロイゼンハウエルが壊滅したと聞かされて……」
レヒトは、そこで言葉を切った。
あの時の悲しみを、表すことのできる言葉をレヒトは知らない。あれは――言葉などでは、到底表現できるようなものではなかった。
一人、生き残ってしまった自分を、恨むほどに。
「初めて、絶望を知った。君が……死んでしまったと思って……。生きることも、一度は放棄しようとした。けど……俺はこうして戻ってきた」
レヒトは小さく微笑むと、テーブルに置かれたボトルをとって、空のグラスに酒を注いだ。
「君に……会うためにな」
「レヒト……」
それを彼女に手渡し、自分の手にしたグラスを掲げる。
「みんなの無事と、再会を祝して……」
生きていてくれて、ありがとう――グラスをあわせる小気味よい音が、小さく部屋に響いた。




