第82話 堕ちた太陽-2-
ところどころに灯された松明の明かりだけを頼りに、無言のまま歩き続ける。反乱軍の拠点であったというこの地下遺跡、天然の洞窟を利用したものだと聞いたが、かなり広く、また入り組んだ造りをしているようだ。
広かった通路も、進むにつれてだんだんと狭まり、一行が、この地下遺跡の最奥部を目指しているのだということがわかる。
どのくらい歩いたか定かではないが、黙々と歩き続けていた一行の前に、ようやく終点が現れた。
真っ直ぐな通路の先に、扉がひとつ。その扉を背にして、一人の兵士が立っていた。
「ラグネス様、面会でございますか?」
ラグネスは頷く。
「……様子はどうだい? なにか、変化は……」
扉の前に立つ兵士は、ラグネスの問いかけに、悲しげな眼差しで首を振った。
「……そうか。わかった、ありがとう。……私たちが出るまで、誰も入れないで欲しい」
「了解致しました……」
兵士は瞳を伏せたまま敬礼し、一行を通した。
「……この部屋の向こうだ。私たちが、隠さねばならなかったものは……」
ラグネスに導かれ、レヒトは部屋へと足を踏み入れ――。
「!」
その足が、止まる。部屋の中、大きな椅子に腰かけた人影を目にして。
一瞬、レヒトの顔を安堵の表情が横切った。
しかし、それは本当に一瞬だけで、覚えたその違和感に、彼の顔を、今度は不安の色が染め上げる。
「嘘でしょう……?」
呟いて、ゆっくりと一歩、前に出る。
「……嘘ですよね?」
嘘だと言って欲しかった。
なにしろ、彼は三度の飯より人を驚かせるのが好きという人物である。
きっと、悲鳴をあげて近付いたら、彼はにやりと笑って起き上がり――冗談だ、驚いただろう、と。そう、言うに決まっているのだ。
「……嘘だと、言ってください……」
誰に対する言葉だったのかは、レヒト自身にもわからない。しかし、誰にともなく発せられたレヒトの問いかけに、否定の言葉は、誰からも返ってはこなかった。
また一歩、レヒトは前に出た。
そう広くもない部屋の中。もう、手を伸ばせば届く距離。
三対六枚の純白の翼、身長より長い金色の髪、そして蒼穹色の瞳。レヒトが最後に見たあの時と、同じ。
――唯一、違うことと言えば。
力なく、椅子に身を委ねた体。薄く開かれた瞳に、光はなく。
もともと白い肌は、今や死人のように蒼白で、壁にかけられた古びたランプの仄暗い光が、端正なその顔に、色濃く影を落としていた。
「……どう、して……」
レヒトは、そう口にするので精一杯だった。
「私が見付けた時には……すでに、この状態だったんだ。身体中、酷い怪我を負って……翼も、飛ぶこともできないほどに傷付いていて……」
ため息とともに、ラグネスがそう言葉を吐き出した。
身体から力が抜け、レヒトはレイが座る椅子の前に膝を付いた。
「けど……綺麗だろう?」
しばしの時を置いて、ラグネスは静かに言葉を紡ぐ。
「……傷跡のひとつだって残ってはいない。怪我は、もう完全に癒えているんだよ。呼吸もする、瞬きもするんだ。それなのに……」
その声が、震える。
「なぜだろうね。私が、こんなに呼んでいるのに……」
見えなくとも、彼が目元を覆ったのがわかった。
「……なにも、答えてくれないんだ……」
レヒトは手を伸ばし、血の気を失ったレイの頬にそっと触れてみた。まるで精巧に造られた人形のように、美しいがどこか人を拒絶するレイの肌は、彼があの時、大扉が閉まる前にほんの一瞬だけ見せた笑顔と同じように、温かくて、優しくて。
その当たり前の温かさに、胸が締め付けられた。
レヒトがレイに出会ったのは、ラグネスに連れられ、初めて天界を訪れた日のこと。
あの日、レヒトはレイに、変わり者と有名なカトレーヌ教授を説得するという面倒極まりない役目を押し付けられ、なぜかそのまま旅をすることになった。短い間にいろいろなことが起こり過ぎたせいで、時間の感覚が少々おかしくなっているが、実際には、まだ、あれからたいして経ってはいない。レイと実際に顔をあわせたことなど、両手の指で足りてしまう程度なのだ。
それなのに、なぜだろう。胸に宿る、この言いようのない感情は。
「……そうだ。俺、すっかり忘れていました」
しばしの沈黙のあと、ふと思い出したように声をあげ、レヒトは懐から、二通の書状を取り出した。
「……真魔界のウィンドリヒ皇帝陛下、竜谷の長老シュリーク=フリュウ様より、預かってきた書状です。ここに……貴方の署名が必要なんです」
椅子に腰かけた彼の足に二通の書状を置き、その上に、力を失い、ぐっと重くなった手を載せて。
「いろいろあったけど……これだけは、ちゃんと頂いてきたんですよ?」
喜んでください、とレヒトは微笑んでみせる。
この書状を見たら、彼の蒼穹色の瞳はどんな色を宿すのだろう。よくやった、と喜ぶだろうか。遅い、と怒るだろうか。これだけ待たせたのだ。どちらかといえば後者のほうが、確率的にはかなり高そうだが。それでも、きっと彼は笑うはずだ。
そして、休息を求めるレヒトに対して、無慈悲にこう宣告するのだ。
次はどこに行け、なにをしろ、と。厄介極まりない面倒事を。
「ここに貴方の署名がないと、無効になってしまうんです」
俺の苦労が水の泡になってしまいますよ、とレヒトは苦笑混じりに言ってみるが。
レヒトがなにを言おうと、そんなものはどこ吹く風。
「……目を、覚ましてください」
わがままで、自分勝手で、面倒くさがりで、人使いが荒くて。
それでも、いつだって民のこと、ヘヴンのことを考えて、そのためになら己の身さえも厭わない。
――そんな、型破りな世界の象徴。
「貴方が、あんなにも求めていた同盟、あんなにも願っていた平和じゃないですか……」
四百年前、誰もが希望を失った時、彼が人々の光となり、人々は彼に見失っていた希望を見出したという。
いつの間にか、レヒトも、彼に希望の光を見るようになっていた。彼ならば、きっと、世界に真の意味での平和を与えることができる、と。
「やっと、ほんのわずかだけど前に進んだ。だから、お願いします。目を……覚まして……」
それなのに――。
「レヒト!」
肩を、強く掴まれた。
「ラグネス様……」
「大丈夫かい? ……すまない、帰ったばかりだというのに……」
自分を労わる優しい声。それを心地よいと感じながらも、レヒトの胸の奥に、鋭い棘のようなものが突き刺さる。どうせなら、大声で罵倒してくれたほうが、遥かに楽だ。
不甲斐ない部下のせいで、彼はなにより大切にしてきた弟を――。
レヒトは立ち上がり、背後に立つラグネスのほうを向き直る。
「……申し訳、ありませんでした」
辛うじて、喉の奥から絞り出し。
「すべて、俺の責任です……」
レヒトは、その場に膝を付く。
「どんな罰をも受けます。……ラグネス様……俺を……」
続くはずだった言葉は、噛み殺した単なる嗚咽にしかならなかった。
「……し、て……くだ……」
ラグネスが膝を折り、レヒトの傍に屈み込む。
跪いたレヒトに、ラグネスがどんな表情をしているのかは窺い知れない。
「……レヒト」
かけられた言葉に、肩が震えた。罵倒されたほうが楽だ、などと言っておきながら、実際、彼に拒絶され、嫌われるのは怖かった。主であり、父親代わりでもあるこの人に――。
「君が無事で戻ってきたことを、私はレイに感謝したというのに……」
相変わらず優しい、穏やかなその声に。わずかに、諌めるような響きが含まれていることをレヒトは感じた。
「殺して欲しい、などと……言うべきではない」
「……しかし……俺には、他に……償うことは……」
「生きなさい」
レヒトの声を遮って、強い口調でラグネスが告げる。
「……責任を感じているのなら、安易に死を選ばずに生きなさい」
顔をあげれば、彼の優しい蒼穹色の瞳に、映り込むの自身の姿が見えた。
「それにね、レヒト。君は、私の息子なんだよ? 父親に、そんなことを言ってはいけないよ」
「……ラグネス様……」
幼子をあやすように頭を撫でられる。その優しい瞳の向こうに、レヒトは別れる間際の、レイの微笑みを重ね見た。