第41話 戦士の休息-2-
結局、レヒト一行はその日、休んでいけという言葉に甘え、セルトラートの屋敷で世話になることにした。レイヴンは眠ってしまっているし、身体にもだいぶ疲労が溜っている。この申し出はありがたかった。
報告に出ていた子供たちが戻ったところで軽い食事をとり、湯浴みを済ませると、重だるかった身体も、幾分軽くなったように感じる。
用意されていた上質な夜着に着替えて浴室から戻ると、豪勢な長椅子にゆったりと腰かけ、シャサラザードが本を読んでいた。
「……お。あがったのか」
「ああ。なんか悪いな、すっかり世話になって」
「気にしない、気にしない。滅多に客なんか来ないから、こっちも楽しいんだ。セトも喜ぶしね」
シャサラザードはにへらっと笑った。言っては悪いが締まりのない顔だ。彼の正体がわかった今でも、とても皇族には見えない。
「なに読んでるんだ?」
ふと気になり、彼が手にした本に視線をやりつつレヒトは尋ねた。
「これは天魔大戦について綴った本さ。ま、俗に英雄って呼ばれてるような連中の活躍する物語」
「天魔大戦……」
レヒトの主であるラグネスも、天魔大戦を戦った英雄の一人である。レヒトは強く興味を持った。
そんなレヒトに気付いたのか、シャサラザードは本をレヒトに差し出した。
「持ってくかい?」
レヒトは慌てて首を振った。
「こんな高そうなもの、貰えない」
見た目にも高級とわかる革張の表紙に、描くように綴られた流麗な題を彩るのは金の輝き。
「なんだ、らしくないぞ。持っていけって」
シャサラザードはしきりに遠慮するレヒトに、半ば強引に本を持たせた。
「なんか……申し訳ないな」
「いいってことよ。……俺が持っていって欲しいってのもあるんだし」
レヒトは首を傾げた。
「それはどういう?」
「んー? なんつーか、ほら。あの戦いが、風化してしまわないように、さ。若い世代に語り継ぐのも、あの戦いの経験者の役目だろ?」
そう言って、シャサラザードは笑った。あのふざけた締まりのない笑みではなく、穏やかな微笑。
「人々が、凄惨な天魔大戦を忘れてしまわないように。あんな戦い、二度と起こってはならないんだ。だから……」
シャサラザードは目を閉じた。
「だから、戦いを経験してない若い世代に語り継ぐのさ。戦乱はなにももたらさない。消えることのない悲しみと、やり場のない憤り、そして――決して癒えることのない、深い傷を残すだけだってな」
「シャサラザード……」
「ってなわけで、受け取って欲しいんだけど?」
「そんなこと言われて、嫌だなんて言えるか。ありがたく、頂いていくさ」
受け取った分厚い本をぱらぱらと捲りながら、ありがとう、と言ったレヒトに、シャサラザードは少年のような笑顔を見せた。
「霧が降りてきたな」
窓のほうへと目をやって、シャサラザードが呟く。
「このあたりの森は白霧の森って言ってな、常に深い霧がかかってるんだ。夜になると、その霧が街のほうにも降りてくるのさ」
「へぇ……」
つられてレヒトも視線を移す。
「……硝子、か?」
木製の窓枠には硝子のようなものがはめ込まれている。教会などのステンドグラスとは異なり、透明度の高い綺麗なものだ。そのままでも、うっすらと窓の向こうの風景が見える。
レヒトは窓の傍まで行き、霧に覆われてゆく街並みに目を向けた。まだ灯りのついている家も多く、霧の向こうで微かな淡い光が輝いている。
「神秘的だ」
「遠目に見れば、だけどな」
シャサラザードは小さく笑った。
「霧が出たら外には行かないほうがいい。方向感覚をなくして、道に迷うのがおちだ。ランプの灯りも、この霧の中じゃ役に立たない」
「知らなかった。こんなに綺麗なのにな」
レヒトは飽きることなく街を覆う霧を見つめている。こんな光景、魔界ではまず見ることができない。
「常に霧に覆われた白霧の森の奥に――なにがあるか、知ってるかい?」
「なにかあるのか?」
鸚鵡返しに聞き返して、シャサラザードのほうへ視線を移せば、彼は悪戯っぽくウィンクして見せた。
「あるさ。この霧はそれを隠すためのものなんだ」
シャサラザードは立ち上がり、レヒトの側まで移動し、両手で大きな窓を押し開いた。
冷たい風とともに、霧が部屋に流れ込んでくる。なるほど、窓枠にはめられた硝子のようなものは、どうやらこの深い霧を遮断する役割を果たすものだったらしい。
「――白霧の森の奥には、三闘神ヴェゼンディの住まう館がある」
「三闘神……」
レヒトは驚いた。まさかこんな場所で、その名を聞くとは思っていなかったからだ。
「まあ、あくまでも、あるらしいって噂の域で、森を抜けて実際に会った人間はいないって話だけどさ」
「……あんたは、会ったことがあるんだろう?」
先程シャサラザードの語った天魔大戦で、三闘神は人々の前に姿を現し、その力の片鱗を見せ付けたと言われているのだ。となれば、天魔大戦を戦い抜いたというシャサラザードも会っているはずである。
「もちろん。今でもはっきり……昨日のことのように思い出せるよ」
「ヴェゼンディ様は、どんな方なんだ?」
レヒトが問えば、シャサラザードは当時を思い返すように目を細めた。
「そうだなぁ。ヴェゼンディ様は紫色の髪と、金色の瞳――それに、真っ白な肌が印象的な美人だった。病的っていうか、魔性っていうか……人間には、ありえない雰囲気ってやつ?」
「……意外だ」
「意外? なにが?」
シャサラザードが首を傾げる。
「いや……ヴェゼンディ様は、三闘神の中でも最も強い力を持つ、とか聞いてたから。もっと強そうな人を想像していたんだ」
ヘヴンに数多く存在する神を模った美術品でも、ヴェゼンディはとりわけ力強さを感じさせる、雄々しくも勇壮な男性の姿で表されていることが多い。
レヒトがそう説明すれば、シャサラザードはなるほどね、と苦笑した。
「あの人は……まあ、強そうっていう風貌じゃなかったよ。どっちかって言えば、今にも倒れそうな感じ。ただ、目だけは……もの凄く強い光を宿してた。あの目を向けられると、身が凍るっていうか足が竦むっていうか。とにかく、強い眼差しなんだよ」
視線だけで人が殺せるなら、あの人のはそういう眼差しだ、とシャサラザードが続ける。
「……この霧の向こうに、ヴェゼンディ様が……」
レヒトは再び街並みに目をやった。月明かりに照らされ、霧に覆われた街並みは、幻想的であると同時に……どこか、恐ろしくも感じられる。
「父上!」
響いた声に下を見れば、リーンハルトとシンシアが、中庭に立ってこちらを見上げていた。
「お。そういえば稽古の時間だな」
「はい!」
「よーし、それじゃ稽古といくかぁ。レヒト、一緒にどうだい?」
貴金属で派手に装飾された――高級そうだが趣味は悪い――上着を脱ぎ、腕捲りまでして準備万全のシャサラザードが、レヒトにそう声をかける。
稽古とは言え、天魔大戦の英雄たるシャサラザードの戦いぶりを、間近で見られるいい機会だ。
「そうだな。ご一緒させてもらおうか」
「そうこなくっちゃな」
シャサラザードはにへらっと笑い、ひょいと窓から飛び降りて、軽やかに中庭に降り立った。
慌てて見下ろせば、シャサラザードは窓から身を乗り出すレヒトに向かって手を振っている。降りてこい、という意味だろうか。
「……ここは四階だぞ」
思わず呟く。とはいえ、シャサラザードは鍵のかかった大扉を蹴り開けるような人物である。レヒトは深く突っ込まないことにした。
「遅いぞ、レヒト」
中庭に辿り着いたレヒトは、霧の中から突然現れた小石に頭を襲撃された。どうやらシャサラザードが軽く放った礫が命中したようである。
「そこから飛び下りればすぐなのに」
先程の部屋の窓を、シャサラザードは指差して見せる。
「あんたと一緒にしないでくれ」
あの後、レヒトは窓をしっかりと閉め、召使いに案内を頼んで歩いて中庭までやって来たのである。窓から見えたのですぐだろうと思っていたが、とんでもない。無駄に広いこの屋敷、だいぶ時間を食ってしまった。一人では確実に迷子になっていただろう。
「レヒト殿も、稽古を付けてくださるのですか?」
喜々として聞いてくるリーンハルトに、レヒトは苦笑を返した。
「俺は教えられるような腕前じゃないさ」
「そんなことないって。あの時……あのお兄ちゃんの最初の一撃に気付いたのは君だけだったろ?」
シャサラザードの言葉に、リーンハルトも大きく頷く。
「はい。レヒト殿は素晴らしいです。私など、気付きもせずに討たれていたでしょう。精進あるのみです」
生真面目なその言葉。レヒトは笑みを溢した。
「んじゃ、早速始めるか」
「はい! 宜しくお願いします、父上!」
二人は少し距離をとり、構える。どちらも素手のままである。
「素手か……」
「まぁね。人間の作った武器を使うこともあるけど、魔精霊にとっては、己の肉体こそが最大の武器さ」
シャサラザードが笑って言った。魔精霊は精霊人のように、精霊を操ることによる干渉系の魔法を扱うことはできない。その代わりに、人間とは比較にならぬほどの身体能力と、精霊を体内に取り込み、能力を解放することによって、一時的にではあるが、原型となった動物の持つ力を使うことができるのだという。これはレイヴンから仕入れた知識だ。
「ちなみに、俺とリンは蠍の一族だ」
「シンシアはね、ちょうちょ!」
にこにこと笑うシンシアの頭を、レヒトはそっと撫でた。
あまり風がないためだろうか。霧が、周囲をゆっくりと覆ってゆく。持ってきたランプで周囲を照らしてみるが、シャサラザードの言葉通り、あまり効果はないようだ。
「この霧の中で、大丈夫なのか?」
「いいのさ。神経もついでに鍛えられて、お得だろ」
霧の向こうからシャサラザードの声が聞こえた。
確かに、この霧では視覚に頼った戦闘はできまい。レヒトも幾度か経験があるが、視覚を封じられた状態で、相手の放つわずかな気配を読みながら行う戦闘は、想像以上に厳しいものだ。常人ならざる神経を誇るレヒトでも、この状況下での戦闘には一抹の不安を覚える。
「よし……それじゃ、行くぞ」
「はい、父上!」
霧に包まれたまま、短く言葉を交わす二人。長いような短いような対峙の後、二人は同時に跳んだ。