第2話 諦めるなんて、聞いてません!
午後の進捗会議が始まる少し前。
俺、北条葵は、昼休みに高瀬さんたちから言われたことを思い出しながら、パソコンの画面を見つめていた。
『北条。頼むから、今日だけは絶対に諦めるな!』
……そう言われてもな。
川上に好きな人がいると分かった以上、俺がいつまでも片思いを続けていても仕方がない。
だからといって、急によそよそしくするなと言われれば、それも分かる。
同じ部署で働いているのだから、仕事に支障を出すわけにはいかない。
ただ、これまでのように何かと川上を気に掛けるのは、少し控えた方がいいだろう。
そう考えていたところで、午後の進捗会議の開始時刻が近づいていることに気づいた。
俺は資料を持って立ち上がり、会議室へ向かうことにした。
◇ ◇ ◇
会議室に入ると、川上が既に席についていた。
ノートパソコンを開き、今日報告する資料の最終確認をしている。
俺が入ってきたことに気づいたらしく、川上が顔を上げた。
「……北条先輩」
「お疲れ。資料の準備、できてる?」
「……はい」
「分かった。じゃあ、会議が始まったらよろしくな」
「…………」
川上は何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わずに俯いてしまった。
……また、話しかけすぎたかな。
俺はいつもなら川上の隣に座るところを、今日は一つ席を空けて腰を下ろした。
すると、川上がこちらを見たような気がした。
「……あの」
「ん?」
「……いえ。何でもありません」
川上は再びパソコンの画面へ視線を戻した。
俺も資料を開き、会議の開始を待つ。
少しすると、佐伯さんが会議室へ入ってきた。
「お疲れ。……おい、北条」
「はい?」
「お前、何でそこに座ってるんだ?」
「え? 空いてたので」
「いつも川上の隣だろ」
「まあ、そうですけど。今日はこっちでいいかなって」
「…………」
佐伯さんは俺を見たあと、川上の方へ視線を向けた。
そして、なぜか大きくため息をつく。
「……お前、本当に分かってねえな」
「何がですか?」
「それが分かってりゃ、こんなことになってねえよ」
……何なんだよ、もう。
佐伯さんはそれ以上説明せず、俺の向かい側の席へ座った。
その直後、川上が小さく椅子を動かした。
俺が顔を上げると、彼女は自分のノートパソコンを抱え、俺との間に空いていた席へ移ろうとしていた。
「川上?」
「……っ!」
名前を呼ぶと、川上の肩が跳ねた。
「どうした? そっちの席、何か問題あった?」
「い、いえ……その……」
「画面が見づらいとか?」
「……違います」
「そっか」
川上はしばらく立ったままだったが、結局元の席へ戻ってしまった。
……席を移りたかったのか、そうじゃなかったのか。
俺が首を傾げていると、向かい側から佐伯さんの声がした。
「北条」
「はい」
「お前、後でちょっと来い」
「……俺、何かしました?」
「いいから来い」
どうやら、午後も説教されるらしい。
◇ ◇ ◇
会議自体は、特に問題なく進んだ。
川上の資料もよくまとまっていて、数字の確認や報告内容に大きな修正はなかった。
質問にも落ち着いて答えており、仕事中の川上はやはり優秀だと思う。
ただ、一度だけ、俺が確認事項を尋ねた時に様子が変わった。
「川上、この数字は先月分も含めた集計で合ってる?」
「……は、はい!」
「了解。ありがとう」
「…………」
川上は慌てて資料へ視線を落とした。
……俺が質問すると、そんなに緊張するのか。
他の社員からの質問には普通に答えていたのだから、やはり俺との相性が悪いのだろう。
会議が終わると、俺は資料を片付けて席を立った。
川上もパソコンを閉じ、こちらをちらちらと見ている。
いつもなら、資料について何か困ったことがなかったか確認するところだ。
けれど、今日はやめておいた。
「じゃあ、お疲れさま」
それだけ告げて会議室を出ようとした時だった。
「……あっ、北条先輩!」
川上の声がした。
振り返ると、彼女は立ち上がったまま、こちらを見つめていた。
「どうした?」
「……その、資料……」
「うん?」
「……いえ。大丈夫です」
「そっか。お疲れ」
俺が会議室を出ると、背後から小さな物音が聞こえた。
振り返りかけたが、誰かが資料を落としただけかもしれないと思い、そのまま廊下を歩き始めた。
すると、後ろから足音が近づいてきた。
「北条!」
佐伯さんだった。
「……お前、ちょっとこっち来い」
◇ ◇ ◇
連れていかれたのは、部署の隅にある小さな打ち合わせスペースだった。
佐伯さんは周囲に人がいないことを確認すると、俺の方へ向き直った。
「お前、昼休みに何言われた?」
「……川上を諦めるな、ですか?」
「そうだ。それで、何であんな態度になるんだよ」
「あんな態度って?」
「会議室で、わざわざ席を離しただろ」
「いや、川上に迷惑を掛けないようにと思って……」
「それが余計なんだよ!」
佐伯さんの声が大きくなったので、俺は思わず周囲を確認した。
「……佐伯さん、声が」
「誰のせいだと思ってんだ」
そう言われても、俺にはさっぱり分からない。
「いいか、北条。お前は川上が自分にだけ冷たいって言うけどな」
「はい」
「あいつ、お前が近づくと毎回ものすごく慌ててるだろ」
「……そうですね。嫌がられてるのかと」
「だったら、何でお前が離れたら、わざわざ隣に来ようとするんだよ」
「……え?」
俺は先ほどの会議室を思い出した。
確かに、川上は席を移ろうとしていた。
けれど、俺が声を掛けた途端に元の席へ戻ってしまった。
「……たまたまじゃないですか?」
「お前なあ……!」
佐伯さんは両手で顔を覆った。
「川上がお前を嫌ってるなら、わざわざ近くに来ようとしねえだろ」
「でも、俺が話しかけると、いつも素っ気ないですよ?」
「それは俺も知ってる。けど、あいつが誰にでも同じ態度か?」
「……いえ」
「だったら、何でお前にだけ違うのか、少しは考えてみろ」
……考えているから、嫌われているという結論になったんだけどな。
俺が黙っていると、佐伯さんはさらにため息をついた。
「あと、川上が今の担当になった時のこと、覚えてるか?」
「担当って、俺と同じ案件になった時ですか?」
「そうだ」
「ええ。人員の調整で決まったんですよね」
「……あいつ、担当が決まった時、ずいぶん嬉しそうだったぞ」
「え? そうなんですか?」
「ああ。いつも真面目なやつだけど、あの時は特に張り切ってたな」
……そうだったのか。
俺は川上が担当になった日のことを思い出した。
確かに、最初の打ち合わせから熱心にメモを取っていたし、資料の確認にも積極的だった。
ただ、それが俺と同じ案件になったからなのか、単純に新しい仕事が嬉しかったからなのかは分からない。
「……でも、それって仕事にやる気があっただけじゃないですか?」
「まあ、そうかもしれねえな。俺は本人じゃないから、そこまでは知らん」
「……ですよね」
「だから、気になるなら本人に聞けって言ってるんだよ」
「本人って、川上に?」
「そうだよ。お前がちゃんと話せばいいんだろうが」
……それができれば苦労しないんだけどな。
俺が返事に困っていると、佐伯さんは最後にもう一度念を押してきた。
「とにかく、勝手に距離を置くな。仕事でも普段でも、今までどおりにしろ」
「……分かりました」
「本当に分かったんだろうな?」
「はい。川上が困らないように、普通に接します」
「……何か微妙に違う気もするが、まあいい」
佐伯さんは疲れたように肩を落とした。
……俺、そんなに変なことを言ってるんだろうか。
◇ ◇ ◇
その頃、川上の様子がおかしいことは、俺にも分かるようになっていた。
午後三時を過ぎても、何度もスマートフォンを確認している。
資料を開いては閉じ、何かを書きかけては消しているようだった。
そして、時々こちらを見る。
俺が顔を上げると、慌てて視線を逸らしてしまうのだけれど。
……告白する相手から、まだ連絡が来ていないのかもしれない。
そんなことを考えていた時、三枝さんが川上の席へやってきた。
「凛ちゃん、ちょっといい?」
「……はい」
二人は小声で何かを話し始めた。
俺の席から内容までは聞こえなかったが、三枝さんが川上の手を握り、何度か頷いているのが見えた。
川上は俯いていたものの、しばらくすると小さく頷き返した。
……三枝さんも、川上の告白を応援しているんだろうな。
そう思った直後だった。
「北条先輩!」
突然、三枝さんに呼ばれた。
「はい?」
「今日、定時で帰りますよね?」
「ええ。そのつもりですけど」
「ですよね! じゃあ、帰る前に少しだけ時間を空けておいてください!」
「……何か仕事ですか?」
「仕事じゃないです! でも、大事な用事です!」
「……はあ」
俺が返事をすると、三枝さんは安心したように笑った。
その隣で、川上が真っ赤な顔をして俯いている。
……何だろう。
もしかして、川上の告白について、俺にも何か手伝ってほしいことがあるんだろうか。
そうだとしたら、少し複雑な気分だった。
◇ ◇ ◇
午後五時半。
定時を迎え、部署内では帰り支度を始める社員が増えていた。
俺も今日の仕事を終え、パソコンをシャットダウンする。
川上はまだ自分の席にいた。
パソコンの画面は既に消えているのに、鞄を膝の上に置いたまま、じっと座っている。
その隣では、三枝さんが何かを話していた。
俺は二人の邪魔をしないように、静かに席を立つ。
……さて、帰るか。
そう思ったところで、昼休みから何度も考えていたことを思い出した。
川上に、一言だけ伝えようと思っていたのだ。
好きな人への告白を、頑張ってほしいと。
自分の気持ちはもう伝えない。
けれど、後輩として頑張っている川上を応援するくらいは、許されるだろう。
俺は鞄を肩に掛け、川上の席へ向かった。
「川上、ちょっといいか?」
「……っ! は、はい!」
川上は勢いよく立ち上がった。
その拍子に膝の上の鞄が落ちそうになり、慌てて両手で抱え直す。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!」
……そんなに慌てなくてもいいのに。
隣にいた三枝さんが、なぜか俺と川上を交互に見ている。
「北条先輩、もしかして……」
「はい?」
「……いえ。何でもありません」
三枝さんは何かを言いかけたが、すぐに口を閉じた。
そして、川上の肩を軽く叩く。
「凛ちゃん、頑張ってね」
「……はい」
川上は小さく頷いた。
……やっぱり、今日告白するつもりなんだな。
俺は少しだけ胸が痛くなったが、できるだけ普段どおりの声を出すことにした。
「川上、今日、何か大事な予定があるんだろ?」
「……えっ?」
川上が目を見開いた。
「えっと……どうして、それを……」
「いや、たまたま聞こえたんだ。三枝さんと話してるところ」
「…………!」
川上の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「き、聞いてたんですか!?」
「ああ、ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「……ど、どこまで……?」
「今日、好きな人に告白するつもりだってところまで」
「…………」
川上が固まった。
隣の三枝さんも、なぜか同じように固まっている。
……あれ?
俺、何かまずいことを言ったか?
「……北条先輩」
「ん?」
「……それ、知ってたんですか?」
「うん。午前中に、偶然な」
「…………」
川上は両手で鞄を抱えたまま、俺を見つめていた。
その目が少し潤んでいるように見えて、俺は慌てて言葉を続けた。
「いや、別に誰かに話したりはしてないから。安心してくれ」
「……そういうことじゃ……」
「え?」
「……いえ」
川上は俯いてしまった。
……やっぱり、告白前で緊張してるんだろうな。
俺は少し迷ったが、ここまで話した以上、最後まで伝えることにした。
「川上」
「……はい」
「好きな人への告白、頑張れよ」
その瞬間だった。
「…………え?」
川上の顔から、すっと表情が消えた。
隣の三枝さんが、ものすごい勢いでこちらを振り向く。
「……北条先輩!?」
「えっ、何ですか?」
「今、何て言いました!?」
「いや、だから……告白、頑張れって……」
俺が答えると、三枝さんは両手で顔を覆った。
「……ああああっ! もうっ! 何でそうなるんですかぁ!」
……えっ!?
何だ、その反応!?
すると、川上が震える声で尋ねてきた。
「……北条先輩」
「……うん?」
「……私が、誰に告白するつもりなのか……知ってるんですか?」
「いや、そこまでは知らないけど」
「…………」
「でも、川上が好きになった相手なら、きっといい人なんだろうなって思うし……」
そこまで言ったところで、川上が顔を上げた。
「……違います」
「え?」
「……そうじゃ、ないんです……!」
川上の声が、少しずつ大きくなっていく。
俺は驚いて言葉を止めた。
川上は鞄をぎゅっと抱き締めたまま、俺を見つめている。
頬は真っ赤で、目には涙が浮かんでいた。
「……先輩は、何も分かってません……!」
「……川上?」
俺が名前を呼ぶと、川上は一度だけ唇を噛んだ。
そして、意を決したように大きく息を吸う。
「私、先輩に告白するつもりだったんです!」
…………。
…………え?
俺は、川上の言葉を理解するまでに、しばらく時間がかかった。
先輩に、告白するつもりだった。
……先輩?
……俺?
……えっ!?
「…………俺!?」
思わず自分を指差すと、川上は真っ赤な顔のまま、こくんと頷いた。
隣では三枝さんが、とうとう机に突っ伏していた。
「……やっと言えたぁ……」
……いや、ちょっと待ってくれ。
川上が、俺に?
俺のことを、好き?
……じゃあ、今までの冷たい態度は、一体何だったんだ!?
俺が何も言えずに立ち尽くしていると、川上が涙目のまま、もう一度口を開いた。
「……だから、先輩」
川上は鞄を抱き締める手に力を込め、俺をまっすぐに見つめた。
「……私のこと、勝手に諦めないでください……!」
……どうやら俺は、とんでもない勘違いをしていたらしい。
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