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第1話 俺にだけ冷たい後輩

「高瀬さん。俺、川上を諦めようと思います」


 金曜日の昼休み。

 社内の休憩スペースで俺がそう告げた瞬間、高瀬さんは飲みかけのコーヒーを噴きそうになった。


「ぶっ……! ちょ、ちょっと待て、北条! お前、今なんて言った!?」

「ですから、川上のことはもう諦めようかと」

「はあっ!? お前、よりによって今日、それを言うのか!?」


 高瀬さんは慌てて紙コップをテーブルに置くと、俺の顔をまじまじと見つめてきた。

 その反応があまりに大きく、隣のテーブルで昼食を取っていた佐伯さんまで振り向いた。


「おい、高瀬。昼休みくらい静かにできないのか?」

「佐伯! 北条が川上を諦めるって言い出した!」

「…………は?」


 佐伯さんは箸を止め、俺と高瀬さんの顔を交互に見た。

 そして、なぜか深いため息をついた。


「……お前ら、ちょっと待ってろ。いや、待てる話じゃねえな、これ」


 ……何だ、その反応。

 俺が片思いを諦めるだけなのに、どうしてそんなに大ごとになるんだ?


     ◇ ◇ ◇


 俺、北条葵(ほうじょう・はるき)は、都内の会社に勤める入社三年目の会社員だ。

 仕事はそれなりに順調で、職場の人間関係にも特に不満はない。


 ただ、一つだけ悩みがあった。


 それは、同じ部署で働く後輩の川上凛のことだ。


「三枝さん、おはようございます!」

「おはよう、凛ちゃん。今日は早いね」

「はい! 昨日の資料、もう一度確認しておきたくて」


 金曜日の朝。

 出勤した俺が部署の入口を通ると、川上が三枝さんと楽しそうに話していた。


 川上凛は、入社一年目の後輩社員だ。

 仕事は真面目で覚えも早く、先輩たちからの評判もいい。


 肩より少し長い黒髪に、整った顔立ち。

 普段はよく笑うし、誰に対しても礼儀正しい。


 ……そう、俺以外には。


「おはよう、川上」

「……おはようございます」


 俺が声を掛けた途端、川上の笑顔が消えた。

 こちらを一瞬だけ見たあと、すぐに視線を手元の資料へ戻してしまう。


「昨日の資料、何か問題あった?」

「いえ。特にありません」

「そっか。何かあったら言ってくれよ」

「……はい」


 それだけ答えると、川上は資料を揃え始めた。

 俺はそれ以上話しかけることもできず、自分の席へ向かう。


 ……今日も駄目だったか。


 別に、川上が俺にだけ冷たいのは今日に始まったことじゃない。

 むしろ、知り合った頃からずっとこんな調子だ。


 俺が何かを尋ねれば必要最低限の返事しか返ってこないし、仕事を手伝おうとしても断られる。

 それなのに、他の先輩とは普通に笑って話しているのだから、嫌われていると思うのも仕方ないだろう。


「北条先輩、少しいいですか?」


 声を掛けてきたのは、別の後輩社員だった。

 手に持っている資料を見せながら、確認してほしい箇所があると言う。


「ああ、いいよ。どこ?」

「この集計なんですけど、数字が合わなくて……」


 俺は資料を受け取り、画面と照らし合わせながら確認した。

 原因は参照範囲の設定ミスで、数分ほどで修正できた。


「ありがとうございます! 助かりました!」

「気にしなくていいよ。また分からないことがあったら聞いて」


 後輩が笑顔で席へ戻っていくと、川上が自分の席から立ち上がった。

 そして、その後輩のところへ歩いていく。


「さっきの集計、もう大丈夫?」

「うん。北条先輩に直してもらったから」

「そっか。よかったね! あ、でも、提出前に元データも確認した方がいいよ。昨日、別の表で参照範囲がずれてたから」

「えっ、そうなの?」

「うん。一緒に確認しようか?」

「ありがとう、川上さん!」


 川上は後輩の隣に椅子を寄せ、画面を指差しながら確認を始めた。

 相手が理解できるまで丁寧に説明している姿を見て、俺は少しだけ笑ってしまった。


 ……ああいうところが、好きなんだよな。


 自分の仕事だけでも忙しいはずなのに、誰かが困っていると放っておけない。

 しかも、手伝ったことをわざわざ周囲に言いふらしたりもしない。


 以前、一緒に仕事をした時もそうだった。


 新人だった川上は、初めて任された資料作成で何度も数字を確認し、提出直前まで誤りがないか調べていた。

 俺が手伝おうとすると遠慮していたが、作業が終わったあと、資料を確認してくれた他部署の社員一人ひとりに礼を伝えて回っていた。


 その日の夕方、俺が別件の対応で遅くまで残っていると、川上が会議室の片付けを済ませてくれていたこともあった。

 本人に礼を言おうとしたら、いつものように素っ気なく「別に、ついでですから」と返されたけれど。


 ……まあ、俺にだけはあまり笑ってくれないんだけどな。


 そんなことを考えていると、川上がこちらを振り向いた。

 俺と目が合った途端、さっきまでの笑顔が消え、慌てたように画面へ視線を戻してしまう。


 ……やっぱり、俺のことは苦手らしい。


     ◇ ◇ ◇


 午前十時を過ぎた頃、俺は川上の席へ向かった。

 今日中に提出する資料について、進捗を確認する必要があったからだ。


「川上、例の資料はどこまで進んでる?」

「……あと少しです」

「そうか。結構量が多かっただろ? 必要なら手伝うけど」

「結構です。一人でできますので」

「……分かった。無理はするなよ」

「はい」


 川上は俺の方を見ないまま、キーボードを打ち始めた。

 その様子を見て、これ以上話しかけるのは迷惑だろうと判断する。


 俺が自分の席へ戻ろうとすると、後ろから三枝さんの声が聞こえた。


「凛ちゃん、今の言い方はちょっと……」

「……分かってます」

「だったら、もう少し普通に話してみたら?」


 川上も何か答えていたが、声が小さくなったため、そこから先は聞き取れなかった。

 ただ、三枝さんが川上に何か注意しているらしいことだけは分かった。


 ……俺のせいで、川上が怒られているなら申し訳ないな。


 席へ戻ってパソコンを開くと、画面の隅に今日の予定が表示されていた。

 午後には部署内の進捗会議があり、川上が担当している資料もそこで確認することになっている。


 仕事上の接点が多い以上、今の関係が続くのはお互いにとってよくない。

 そう思いながらも、どう接すれば川上に嫌な思いをさせずに済むのか、俺には分からなかった。


 何より、俺は川上のことが好きだった。


 真面目で、困っている人を放っておけなくて、仕事に対しても手を抜かない。

 そんな姿を見ているうちに、いつの間にか目で追うようになっていた。


 ……だからこそ、嫌われているらしい現状が、少しばかりつらかった。


     ◇ ◇ ◇


 実は、一度だけ川上を食事に誘ったことがある。


 あれは一か月ほど前の金曜日だった。

 残業を終えたあと、偶然二人でエレベーターを待つことになったのだ。


 普段なら仕事の話だけで終わらせるところだったが、その日は思い切って声を掛けた。


「川上、今度よかったら、二人で飯でも行かないか?」

「む、無理です!」


 ……即答だった。


 しかも、思っていたよりずっと大きな声だったので、少し離れた場所にいた社員までこちらを振り向いた。


「……そっか。ごめん、急に誘って」

「い、いえ……その……」

「気にしなくていいから。じゃあ、お疲れさま」


 ちょうどエレベーターが到着したため、俺はそれ以上何も言わなかった。

 川上も黙ったままで、結局その日は駅までほとんど会話をしなかった。


 あれ以来、俺は川上を個人的に誘っていない。


 ……好きでもない先輩から食事に誘われたら、迷惑だろうしな。


 ただ、その翌週の月曜日、少し不思議なことがあった。


 出勤すると、俺の机の上に小さなメッセージカードが置かれていたのだ。

 差出人の名前はなく、誰が置いたのかも分からなかった。


 カードには、こう書かれていた。


『いつも周りのことを気に掛けてくれて、ありがとうございます。北条さんの頑張っている姿を、ちゃんと見ている人もいますから』


 最初は誰かの悪戯かと思った。

 けれど、丁寧な文字で書かれたその言葉が妙に嬉しくて、捨てることができなかった。


 今でもカードは、手帳の内側に挟んである。


 誰が書いたのかは分からない。

 ただ、あの日の俺には、ずいぶんありがたい言葉だった。


     ◇ ◇ ◇


 午前の仕事が一段落したところで、俺はスマートフォンを取り出した。

 休憩時間に通知を確認すると、昨夜一緒に遊んでいたオンラインゲームの仲間から、メッセージが届いていた。


『昨日はありがとうございました! 最後のボス、危なかったですね(笑)』


 思い出した途端、俺は小さく笑ってしまった。


 送り主は、数か月前から一緒に遊んでいるゲーム仲間だ。

 協力型のオンラインRPGで知り合い、最近ではゲーム以外の話もするようになった。


 お互いに本名も顔も知らないし、音声通話をしたこともない。

 やり取りはゲーム内のチャットと個別メッセージだけだが、気兼ねなく話せる相手だった。


 このゲームには、話した言葉を文字に変換して送信する音声認識チャットがある。

 相手に声そのものは届かず、変換された文章だけが表示されるため、戦闘中でも操作を続けながら会話ができた。

 もちろん、普通に文字を入力することもできるので、状況に応じて使い分けている。


 昨夜も、二人で期間限定のダンジョンに挑戦していた。


     ◇ ◇ ◇


『右の通路、敵が三体います!』

『了解。先に一体ずつ倒そう』

『分かりました! じゃあ、私が引きつけますね!』

『待って、まだ準備が――』


 俺が言い終えるより早く、相手のキャラクターが通路へ飛び出した。

 次の瞬間、三体の敵が一斉にこちらへ向かってくる。


『ちょっ!? 思ったより速いです!』

『だから待ってって言っただろ!』

『助けてくださーい!』


 俺は回復魔法を発動しながら、敵の進路を塞ぐ位置へ移動した。

 相手がこちらへ戻ってくるまで攻撃を引き受け、体力が減るたびに回復を挟む。


『後ろに下がって! こっちで受ける!』

『はいっ! ……あ、後ろからも来ました!』

『えっ、嘘だろ!?』


 振り返ると、別の敵が二体増えていた。

 俺たちは慌てて狭い通路へ逃げ込み、入口で一体ずつ相手をすることになった。


『……何とかなりましたね!』

『五体まとめて来た時は終わったと思ったよ』

『でも、勝てました!』

『そもそも誰が突っ込んだんだっけ?』

『…………』

『おーい?』

『……次はちゃんと待ちます』


 画面の向こうでどんな顔をしているのかは分からない。

 それでも、相手が慌てている様子だけは、文字から十分に伝わってきた。


 そのあとも何度か危ない場面はあったが、最後のボスを倒したところで無事に攻略が終わった。


『やったー! クリアです!』

『お疲れ。今度は突っ込む前に一言頼むな』

『もう! さっきからそればっかりじゃないですか!』

『だって、本当に危なかったから』

『……助けてくれて、ありがとうございました』

『どういたしまして』


 いつものように軽口を交わし、報酬を確認したあと、二人とも街へ戻った。

 普段ならここで次のダンジョンへ行くところだったが、その日は少し遅い時間になっていた。


『今日はここまでにします?』

『そうだな。明日も仕事だし』

『ですね。……あ、そういえば』

『ん?』

『この前相談してた後輩さんとは、その後どうなりました?』


 ……覚えてたのか。


 数日前、俺はこの相手に川上のことを相談していた。

 仕事では話せないことでも、顔を知らないゲーム仲間になら話せる気がしたからだ。


『特に進展なし。今日も冷たかった』

『そうなんですか……』

『やっぱり嫌われてるのかな』

『それは、まだ分からないと思いますよ』

『でも、俺にだけ態度が違うんだよ。他の先輩とは普通に話してるのに』

『……それだけで嫌われてるって決めるのは、早いと思います』

『そうかな』

『はい。好きな人の前だと、緊張して変な態度を取っちゃう人もいますから』

『経験談?』

『…………ノーコメントです』


 俺は思わず笑ってしまった。


『もしかして、そっちも好きな人がいる?』

『……います』

『おお。初耳だ』

『前にも少し話したじゃないですか!』

『そうだっけ?』

『ひどいです! ちゃんと聞いてください!』


 慌てたようにメッセージが続き、俺は笑いながら謝った。

 相手にも好きな人がいるらしいが、その人の前ではうまく話せず、なかなか気持ちを伝えられないそうだ。


『実は私も、好きな人に誤解されるようなことをしてしまって……』

『誤解?』

『本当は嬉しかったのに、全然違う反応をしちゃったんです』

『それなら、ちゃんと話してみた方がいいと思うよ』

『……やっぱり、そうですよね』

『嫌いでそうしたわけじゃないんだろ?』

『はい! むしろ、その逆です!』

『だったら、なおさら伝えた方がいいよ。相手も理由が分からなくて困ってるかもしれないし』

『……そうですよね。ありがとうございます』


 少し間が空いてから、またメッセージが届いた。


『私、もう少し頑張ってみます』

『そっか。応援してる』

『ありがとうございます! そちらも頑張ってくださいね!』

『俺も、もう少し頑張ってみるかな』

『はい! 応援してます!』


 最後に互いの健闘を祈って、その日はログアウトした。


     ◇ ◇ ◇


 俺はスマートフォンの画面を見つめ、昨夜のメッセージに返事を打った。


『こちらこそありがとう。次はもう少し慎重に頼む(笑)』


 送信すると、すぐに返事が来た。


『むー! 次は絶対に失敗しませんから!』


 ……本当かよ。


 思わず笑いながらスマートフォンを伏せ、仕事へ戻る準備をした。

 顔も知らない相手に励まされているのに、当の本人は何も進展していない。


 ……次に相談する時くらい、少しはいい報告ができればいいんだけどな。


     ◇ ◇ ◇


 午前十一時を少し過ぎた頃だった。


 会議室へ向かう途中、廊下の向こうから川上と三枝さんの声が聞こえてきた。

 二人は給湯スペースの近くで話しているらしい。


 別に盗み聞きをするつもりはなかった。

 ただ、川上の声がいつもより真剣だったので、思わず足を止めてしまった。


「三枝さん。私、今日こそ告白しようと思うんです」

「本当に? やっと決心したの?」

「はい。これ以上、逃げてばかりじゃ駄目だと思うので……」


 ……告白?


 俺は、その言葉を聞いて固まった。


 川上に好きな人がいる。


 それ自体は、別におかしなことじゃない。

 川上は明るくて可愛いし、社内でも評判がいい。


 むしろ、好きな人がいない方が不思議なくらいだ。


 ……ただ、その相手が俺でないことだけは、ほぼ間違いないだろう。


 だって、川上は俺にだけ冷たい。

 二人きりの食事に誘っても、即答で断られた。


 そんな相手に告白するはずがない。


「……そっか」


 誰にも聞こえないように呟き、俺はその場を離れた。


 会議室へ向かいながら、胸の奥が少し重くなる。

 けれど、不思議と驚きはなかった。


 いつか、こういう日が来るとは思っていたからだ。


 ……だったら、俺もそろそろ諦めた方がいいんだろうな。


     ◇ ◇ ◇


 そうして迎えた昼休み、俺は高瀬さんに川上を諦めるつもりだと伝えた。


「北条、いいか? とにかく今日は余計なことをするな!」

「余計なことって、何ですか?」

「川上に距離を置くとか、もう話しかけないとか、そういうことだ!」

「……いや、でも、川上には好きな人がいるみたいですし」

「知ってる!」

「え?」

「あっ……いや、その……!」


 高瀬さんが慌てて口を押さえた。

 佐伯さんは隣で額を押さえている。


「お前、ほんっとに余計なこと言うなよ……」

「だ、だって佐伯! こいつが今日諦めるとか言い出すから!」

「それでも言い方ってもんがあるだろ!」


 ……何なんだ、この二人。


「高瀬さん。もしかして、川上が誰を好きなのか知ってるんですか?」

「…………」

「知ってるんですね?」

「……言えない」

「え?」

「それだけは、俺の口からは言えないんだ!」


 高瀬さんは、なぜかものすごく悔しそうな顔をしていた。

 佐伯さんも、何かを言いたそうにしては口を閉じている。


 そこへ、休憩スペースの入口から三枝さんが顔を出した。

 手にはスマートフォンを持っていて、誰かを探していたらしい。


「あっ、高瀬さん! やっと見つけました。さっきからメッセージ送ってたのに、全然返事がないから……」

「あ、悪い、美月! ちょっと今、それどころじゃなくて!」

「えっ? 何かあったんですか?」

「北条が川上を諦めるって!」

「…………え?」


 三枝さんの笑顔が消えた。


「……北条先輩、本気ですか?」

「え、ええ。まあ……」

「……今日?」

「はい。今日ですけど……」

「…………」


 三枝さんは、しばらく何も言わなかった。

 そして、高瀬さんの方を向く。


「……高瀬さん」

「……ああ」

「……どうします?」

「俺が聞きたい!」


 ……いや、だから何なんだよ!


 俺が川上を諦めるというだけで、高瀬さんも佐伯さんも三枝さんも、どうしてそんなに慌てているんだ?


 周囲の同僚たちまで、こちらの様子を気にしている。

 中には、明らかに何かを知っていそうな顔をしている人までいた。


「……あの、皆さん」


 俺が声を掛けると、三人が一斉にこちらを向いた。


「俺、別に川上に何か言うつもりはありませんよ。ただ、これ以上迷惑を掛けないように、少し距離を置こうかなって……」

「駄目!」

「やめろ!」

「それだけは駄目です!」


 ……三人同時だった。

 しかも、三枝さんまで声を張り上げている。


「……いや、どうしてですか?」


 俺が尋ねても、誰も答えてくれない。


 高瀬さんは頭を抱え、佐伯さんは天井を仰ぎ、三枝さんは何かを考え込んでいる。


 やがて、高瀬さんが俺の肩をがっしりと掴んだ。


「北条。頼むから、今日だけは絶対に諦めるな!」

「……理由は?」

「言えない!」

「……じゃあ、納得できませんよ」

「分かってる! でも、頼む!」


 ……俺の恋愛なのに、どうして本人の俺だけが事情を知らないんだろう。


 しかも、話を聞いていた周囲の同僚たちまで、なぜか深刻な顔で頷いている。


 ……もしかして、この職場には、俺の知らない何かがあるんだろうか。


 そんな疑問を抱いたまま、俺は午後の仕事へ戻ることになった。


     ◇ ◇ ◇


 午後一時を少し過ぎた頃。


 昼休みを終えて自分の席へ戻ると、川上が資料を開いたまま、スマートフォンを確認しているのが見えた。

 何か気になる連絡でもあるのか、画面を見ては伏せる動作を繰り返している。


 俺が近くを通りかかると、川上は顔を上げた。


「……北条先輩」

「ん? どうした?」

「……いえ。何でもありません」

「そっか。午後の会議、よろしくな」

「……はい」


 川上は小さく頷いたあと、何か言いたそうに口を開きかけた。

 けれど、結局何も言わず、視線を手元の資料へ戻してしまった。


 ……やっぱり、俺とは話しづらいんだろうな。


 俺はそのまま自分の席へ戻り、午後の会議で使う資料を開いた。

 これから川上は、好きな相手に告白するつもりなのだ。


 だったら、俺が余計な期待を抱いて、これ以上彼女を困らせるわけにはいかない。


 そう考えていた時、少し離れた席から三枝さんの声が聞こえてきた。


「……凛ちゃん?」


 何気なく顔を上げると、川上が俯いたまま、手元の資料を強く握り締めていた。

 三枝さんが心配そうに覗き込んでいる。


 俺には、二人が何を話しているのか分からなかった。


 ただ、川上が顔を上げた時、その目が一瞬だけ俺の方を向いた。

 そして、俺と目が合うより早く、また俯いてしまった。


 ……何か、あったのか?


 声を掛けようとして、俺は席から立ち上がりかけた。

 けれど、昼休みに高瀬さんから言われたことを思い出す。


『今日だけは絶対に諦めるな!』


 ……そう言われてもな。


 高瀬さんたちが何を知っているのかは分からない。

 ただ、あれほど必死に止められた以上、川上を避けるような態度を取るのはやめておこうと思った。


 だからといって、今までどおり好きでい続けていいのかは別の話だ。

 川上には、今日告白しようと決めた相手がいるのだから。


 それなら、少なくとも彼女の邪魔だけはしたくなかった。


 俺は結局、立ち上がるのをやめて、パソコンの画面へ視線を戻した。


 その直後、背後から小さな声が聞こえた。


「……もう、駄目かもしれません」


 川上の声だった。


 俺は思わず振り返ったが、川上は三枝さんに顔を向けたままで、こちらには気づいていなかった。


 ……告白するのが、そんなに不安なのか。


 好きな相手に気持ちを伝えるのは、確かに勇気がいることだ。

 俺だって、たった一度食事に誘うだけで、あれほど緊張したのだから。


 それでも、川上には頑張ってほしいと思った。


 ……たとえ、その相手が俺じゃなくても。


 俺は午後の仕事が終わったら、川上に一言だけ声を掛けようと決めた。

 自分の気持ちは胸にしまって、せめて先輩として彼女を応援してやりたかった。


 そして、その時に伝える言葉も、もう決めていた。


 ――好きな人への告白、頑張れよ。


 それが、俺にできる最後の応援だと思っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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ありがとうございました!

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