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第1話 借りただけじゃん

 四時間目の英語は、本文和訳だった。


 黒板の右端には、昨日の小テストの平均点がまだ残っていた。その下に、文化祭実行委員会の集合時間が書き足されている。筆圧が違うので、たぶん朝のホームルームのあと、誰かが勝手に書いたのだと思う。


 俺の机の上には、英語の教科書とノートと、半分だけ鞄から出した文芸コンテストの募集要項があった。募集要項には赤ペンで締切日を囲ってある。来月の頭。受賞すれば、外部評価として推薦資料に添付できると創作担当の教師に言われていた。


 スマホは机の中に入れてある。授業中は本当は出してはいけない。


 けれど、すぐ取り出せる位置に置いていた。


「じゃあ、三段落目。窓側、前から」


 教師がチョークで教科書の本文を叩いた。


 前の席の堀田が立ち上がる。ネクタイは緩い。後頭部に寝癖が一房だけ残っている。堀田は教科書を片手で持って、もう片方の手で机の下のスマホを膝の上に伏せた。


「I only borrowed your words for a little while.」


 その声を聞いて、俺は顔を上げた。


 堀田の声だった。


 昨日の放課後、昇降口で聞いた声と同じだった。


 雨上がりで、傘立ての下に水が溜まっていた。二年の靴箱の前で、女子が堀田にスマホ画面を見せていた。


「これ、うちのクラスのポスターの文句じゃん」


 女子がそう言った。


 画面には、文化祭のポスター案が映っていた。俺は通りすがりで、ちゃんとは見ていない。ただ、赤い丸で囲まれたコピーだけは見えた。


 ――まだ帰りたくない夜に。


 たぶん、その女子のクラスが先に出していた文句だったのだろう。堀田は悪びれずに笑っていた。


「借りただけじゃん。言葉なんて減るもんじゃないし」


 女子は何も言わなかった。スマホを胸元に戻して、靴箱の扉を閉めた。金属の薄い音がした。


 俺はその場で何もしなかった。堀田に何か言ったわけでも、女子に声をかけたわけでもない。靴紐を結び直すふりをして、その一文だけを覚えた。


 そして帰りの電車で、スマホのメモアプリを開いた。


 俺のメモアプリには、フォルダがいくつかある。


 応募作。

 第二稿。

 人物メモ。

 没台詞。

 非公開。


 昨日の言葉は、「没台詞」に入れた。


 ――借りただけじゃん。言葉なんて減るもんじゃないし。


 その下に、少し考えてから補足を書いた。


 ――本人は悪いことをしていると思っていない。

 ――言葉は減らない。でも、言われた側は減る。

 ――こういう台詞は、誰かを傷つける側に言わせると使える。


 そこまで書いて、気持ち悪いと思った。


 堀田の言葉を、堀田に断らずに保存している。昨日黙っていた女子の沈黙まで、自分の小説の材料にしようとしている。


 でも、消さなかった。


「訳して」


 教師が堀田に言った。


 堀田は本文に目を落とし、少し間を空けてから答えた。


「私は、あなたの言葉を、少しのあいだ借りただけです」


「はい。次」


 教師の指が俺に向いた。


 俺は立ち上がった。椅子の脚が床をこすった。思ったより大きい音がして、隣の席の篠原がこちらを見た。


 教科書の次の文は短かった。


 I did not mean to hurt you.


 俺は一度、文字を目で追った。


「早く」


 教師が言った。


「私は、あなたを傷つけるつもりはありませんでした」


「よし」


 教師はそう言って、次の生徒を指した。


 俺は座った。


 周りはもう次の文を見ている。堀田は席について、また机の下でスマホを触っていた。昨日の昇降口のことを覚えている様子はない。あの女子が黙ったことも、たぶんもう忘れている。


 俺はシャーペンを持った。


 教科書の余白に、小さく書く。


 ――傷つけるつもりはなかった、は、傷つけた側だけが使える便利な言葉。


 書いたあと、消しゴムを持った。


 消した方がいいと思った。


 教科書の余白に書くようなことではない。篠原に見られたら、何を書いているのかと聞かれるかもしれない。堀田に見られたら、自分のことだと分かるかもしれない。


 消しゴムの角を余白に当てた。


 けれど、こすれなかった。


 小説の台詞としてなら使えると思った。たとえば、悪いことをした自覚がない人物。相手を傷つけたあとで、謝っているように見せながら自分を守る人物。そういう人間に言わせるなら、かなり使える。


 俺は消しゴムを置いて、もう一行足した。


 ――小説では使える。でも、使うとたぶん最低。


 隣の篠原が、俺の教科書の余白を見た。


 たぶん一瞬だった。


 でも俺は反射的に左手でその文字を隠した。


 篠原は何も言わなかった。視線を黒板へ戻した。俺も何も言わなかった。左手で余白を隠したまま、右手でスマホを机の中から少しだけ引き出した。


 ロックを外す。


 メモアプリを開く。


 昨日の言葉を入れた「没台詞」フォルダを開いた。さっきの余白の文を、スマホにも打ち込む。


 ――傷つけるつもりはなかった、は、傷つけた側だけが使える便利な言葉。

 ――小説では使える。でも、使うとたぶん最低。


 保存先を迷った。


 没台詞。

 人物メモ。

 非公開。


 少し考えて、「非公開」に移した。


 そのフォルダには、他にも見られたくないメモが入っている。クラスメイトの癖。誰かの家庭の事情を想像したメモ。使わなかった比喩。人物4をモデルにしたような書きかけの断片。自分でも読み返したくないものばかりだった。


 非公開なら、自分だけのものだ。


 チャイムが鳴った。


 教室が一斉に昼休みへ変わる。椅子が鳴る。弁当の袋が開く。廊下から別のクラスの笑い声が入ってくる。


 堀田は教科書を閉じ、もうスマホの画面を横にしてゲームを始めていた。


 篠原は友達に呼ばれて席を立った。


 俺はスマホの画面を伏せた。


 書いたものは、見せないうちは自分のものだ。


 そのときは、まだそう思っていた。


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