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第5話 森の呼び声(後編)

# 森の呼び声 後編


ジルは、森と村の間にもう存在しない線を見つめた。


石組みだけでは無い。獲物の骨も、境目だった。

先代村長が壊すなと言い、猟師が理由も告げずに並べ続けていた物。

古びた石と、腐りかけた杭と、色の分からない布。そこに獲物の骨が加わり、

森と村の間に、ここから先は違う場所だと示していた。


正式な祭祀では無い。供物でも無い。

誰かが、森にいる何かと明確な言葉を交わした形跡も無い。

ただ、長い間そうしておくと被害が減る。そういう生活の知恵だったのだろう。


だが、その知恵を知っていた先代村長はもういない。猟師も今日、森の中で死体になっていた。

村人達に継いだ者はいない。何故そうするのかを知る者はいない。

そして、境目が取り払われた後、森から故人の声が届き始め、とうとう人が食われた。


契約が結ばれている線は薄い。

村と森の何かに契約が交わされていれば、襲った側にも何かしら代償がある。

自由に村を襲って良いなどという馬鹿げた言葉を交わす訳も無い。


この村にあるのは、忘れられた手順と、説明されなかった理由と、

片付けられてしまった骨だけだった。


ジルは女から視線を外し、村長の家へ歩き出した。

セイは無言で後ろに続く。夕方の光が、村の新しい家々の壁を薄く照らしていた。


村長は、家の前で村人達に何かを説明していた。猟師の遺体は、既に近親者と古くからの

住人達の手で運ばれている。簡単ではあるが、夜になる前に埋葬だけは済ませるという話だった。

まだ血の匂いは消えていない。


土に染みた血の跡と、藁を外した場所に残る濃い臭いが、そこにあったものを思い出させる。

蠅が低く飛び、誰かがそれを追い払う音がした。ジルが近付くと、村長はすぐに振り向いた。


「何か分かりましたか」


声には疲れが滲んでいた。だが、逃げ腰では無かった。

この若い村長は、恐怖に慣れていない。だが、責任から逃げる人物でも無いようだった。


「声が聞こえる理由が、恐らくですが分かりました」


ジルは短く言った。村長の目が僅かに動いた。


「理由、ですか」

「はい。石組みだけではありません。獲物の骨も、森と村の境目だったようです」

「骨・・・」


村長は呟いた。それが何を指しているのか、すぐには結び付かない顔だった。

ジルは順を追って説明した。


村の女達が骨を片付けた時期。森から故人の声が聞こえ始めた時期。それがほぼ一致する事。

新しい家の者達に声が多く聞こえるのは、石組みがあった場所より森側に家を建てたからかもしれない事。

そして、古い家にまで声が届き始めたのは、材木置場に隠れ、物置小屋に収められ、二つの石組みがどちらも

境目として見えなくなったからかもしれない事。


村長は黙って聞いていた。

最初は戸惑い、次に理解し、最後に顔色を失った。


「では、祖父が壊すなと言っていたのは」

「恐らく、森との境目だったんだと思います」

「猟師が骨を並べていたのも」

「はい。理由を知っていたか、あるいは、そうしておくと被害が減ると知っていたのでしょう」


村長は、血の跡が残る地面を見た。

遺体そのものはもう無い。だが、その場所に目を向けるだけで、何が起きたかは思い出せる。


「それが無くなったから、あの人は」

「断定はしません」


ジルは遮った。ここで断定してはいけない。

村長が自分を責める材料を、余計に増やしても仕方が無い。


「ただ、繋がっている可能性は高い。猟師を食ったのは、恐らく何らかの魔物です」


魔物、という言葉は重かった。

ただの獣ではない。森の怪異でもない。金を集め、ギルドへ依頼し、専門の冒険者を呼ぶべき相手。

そういうものとして、村人達はその言葉を知っている。


周囲にいた村人達の息が止まった。セイが森の方を見た。

視線は揺れない。まだ動いていない。そういう顔だった。


「村中の人手を集めて下さい」


ジルは言った。


「動ける人間全員です。暗くなる前にやります」

「何を、ですか」


「石組みを、森側の村の端へ移します。古い杭も、布も、そのまま。

獲物の骨で再び石組み同士を繋ぎます」


村長は、すぐには答えなかった。遠くで子供が泣いていた。誰かが抱き上げ、家の中へ連れて行く。

戸が閉まる音がして、また村が静かになる。


「先程の話が事実だとして、今更そんな事に意味があるんですか・・・?」


責める声では無かった。ただ、問う声だった。

この村を広げたのは自分だ。知らなかったとはいえ、境目を踏み越えたのも自分だ。そんな顔をしている。

ジルはごまかす事無く伝えた。


「はっきり言いますと、分かりません」


村長の目が揺れた。


「新たな縄張りと認識されるかもしれない。されないかもしれない。

境目を見て、森へ戻るかもしれない。様子を見に下りて来るかもしれない。全て私の憶測です」


言葉にするほど、頼りない。だが、頼りないからこそ黙る訳にはいかない。


「ただ、この状況で出来る事は限られています。魔物の正体も、大きさも、強さも何も分からない。

このままギルドへ知らせても、討伐班はすぐには来ません。領主へ伝えても同じです。

今晩に間に合う者は、ここにはいません」


村長の手が強く握られた。


「だから、今晩を乗り切る為に、協力して下さい」


沈黙が落ちた。村長は、血の跡が残る地面を見た。

惨劇の跡が、彼の返事を決めた。


「分かりました」


声は掠れていた。それでも、村長は周囲へ向き直った。


「動ける者を集めろ。ジルさんの指示に従う。老人と子供は家へ。女達も、出来る者は残ってくれ」


村人達がざわめいた。

何をするのか分からないまま、足音が散っていく。若い男達が走る。

古い家の戸口から年寄りが顔を出す。新しい家の方から、女達が不安そうに集まる。



村が動き始めた。


最初に向かったのは、材木置場の石組みだった。

積まれた丸太の陰で、古い石は半ば土に沈んでいる。日が傾き、材木の長い影が石を覆っていた。

腐りかけた杭には、色の分からない布切れがしがみ付いている。


ジルは膝を着いた。石の積み方を目で追う。どの石が上で、どの石が下か。

杭がどの角度で刺さっているか。布はどちらから巻かれているか。風化した物ほど、

動かした時に意味を失う可能性がある。


「壊さないで運びます」


近くにいた男が顔をしかめた。


「こんな古い杭までですか。新しく打ち直した方が」

「そのままです」


ジルは即座に言った。


「何が意味を持っていたのか分かりません。なら、変えないで下さい」


男は黙った。


ジルは石組みに向かい、片膝を着く。そして言葉にした。


「動かします。壊しません。奪いません。村の端へ移します」


誰に向けた物かは分からない。ただ、言わずに進める気にはなれなかった。

セイが隣で、じっと石組みを見ていた。


「伝わってるかな?」

「多分?」

「多分か」


ジルは苦く笑った。


「分からない物ばかりだ」

「うん」


セイの返事は、いつも通り短かった。


石組みを崩さないよう、男達が一つずつ石を持ち上げる。ジルは帳面に簡単な位置を記し、

口で順番を指示した。杭は土ごと掘り起こす。腐りかけているので、強く掴めば折れる。

布は触るだけで崩れそうだった。


物置小屋の石組みも同じだった。

小屋の中は、干し草と古い木材の匂いが籠もっていた。壊れた農具、使われない桶、折れた戸板。

その奥に、石組みが置き去りにされている。こちらの布は屋根の下にあった分、少しだけ形を残していた。

持ち主の老人が、入口で腕を組んだ。


「動かして良いのかね」

「今は、動かすしかありません」


「先代が聞いたら怒るだろうな」

「理由を言わなかった先代も悪いです」


老人は目を丸くし、それから小さく笑った。


「違いない」


その笑いは、すぐに消えた。


「猟師も、言わん男だった」

「はい」


「言わんで守って、死んだ」


ジルは答えなかった。言葉にすれば、その通りだった。

守っていた者が死に、守られていた者は理由を知らなかった。それだけの話だ。

それだけだからこそ、取り返しがつかない。



女達には、埋めた骨を掘り返させることになった。当然、不満が出た。

骨を捨てる事を先導した女は、赤子を近くの年寄りへ預けていた。額に汗を浮かべ、鍬を握っている。

だが、その顔にはまだ納得の色が無い。


「本当に戻すのかい」

「戻します」


「子供が怖がったから片付けたんだよ。誰も理由を言わないし、あんなもの、

家の近くに並べられたら嫌に決まってるじゃないか」


女の声は震えていた。

怒りだけではない。恐怖だけでもない。自分が何かを壊したかもしれない。

その気付きが、怒りの下で暴れていた。ジルは頷いた。


「あなたが嫌がったのは当然です」


女は手を止めた。


「理由を言わなかった方が悪い。意味を伝えなかった方が悪い。子供が怖がる形のまま置き続けた方も悪い」


周囲の男達が気まずそうに視線を逸らした。


「ですが、今は掘り返して下さい。やらなければ、ただ食われるだけです」


女は唇を噛んだ。しばらくして、彼女は鍬を土へ突き立てた。


「・・・分かったよ。文句は後で言うからね」


そう言って、作業の続きを始めた。

周りの女達も動き始めた。土を掘る音が、村の端に響いた。

乾いた土では無かった。森に近い湿った土だ。鍬を入れる度に、湿気と腐葉土の匂いが上がる。

しばらく掘ると骨が出て来た。折れた骨。黒く焼けた骨。犬か狐に噛まれたような痕のある骨。


燃やされた為か、骨が減っているように見えた。

これでは足りない。ジルの判断は速かった。



ジルは解体場へ向かった。

村の端にある簡素な小屋には、加工途中の皮が吊るされていた。脂の匂いが強い。

血を洗った水が流れた跡が、土を黒く濡らしている。刃物台には乾いた血の染みが残り、

吊るされた皮からは獣の匂いがした。


「皮を細く切って下さい」


ジルは言った。


「長く。骨と骨の間を繋ぎます。血や脂の匂いが残っている物も使います。解体用の刃物も数本、

境目の近くへ置いて下さい」

「刃物まで?」

「森に向けて、人がここで獣を殺して捌くと示したい」


言いながら、自分でも無理矢理だと思った。

だが、魔物が獣から変じたものなら、匂いは言葉より強いかもしれない。骨を縄張りと見ていたなら、

血と脂の匂いも読むかもしれない。

かもしれない、ばかりだった。それでも、手を止めるわけには行かなかった。



暗くなる前に、ようやく境目が出来た。


森側に移された二つの石組み。その間を、掘り返した骨と、細く切った皮と、

血の匂いを残した刃物が繋いでいる。古い杭に巻かれた布切れが、夕風に震えた。

境目に沿って篝火の準備がされている。魔物が下りて来た時に、正確な姿を捉える為だ。


美しい物では無かった。むしろ、不格好だった。

だが、村の端に線が出来た。森と村の間に、人が認識出来る線が戻った。


村人達は疲れ切っていた。男達は土と汗にまみれ、女達は掘り返した骨を見ないようにしながらも、

手を止めなかった。村長は顔を青くしながら、何度も村の内と外を見比べている。

ジルは声を張った。


「篝火に火を点けて下さい、境目がよく見えるように。松明も。影が出来ないように」


村人達が動く。


「夜は、閂をかけて家を閉めて下さい。絶対に外へ出ないこと。声が聞こえても出ない。

出ようとする人間がいたら、殴ってでも止めて下さい」


ざわめきが起きた。


「家族でもです」


ジルは続けた。


「親でも、子でも、夫でも、妻でも。森から聞こえた声に返事をしようとする人間は、

自分の意思で動いていない可能性があります。必ず止めて下さい」


村人の一人が震える声で尋ねた。


「死んだ母の声でも?」

「はい」

「子供の声でも?」


「はい」


村人は唇を噛み、頷いた。村長が同じ内容を繰り返す。

声は疲れていたが、やるしかない。そう決意した顔をしていた。


ジルは、森側を見渡せる新しい家の一軒を借りることにした。

セイに気配を探らせ、気配から離れた位置にある新しい家。そこからなら

魔物の様子がよく窺える。住人は、村長の家へ避難してもらう事にした。


家へ向かう途中、ジルは小声で言った。


「今夜は見るだけ」

「戦わない?」

「何も分からない相手に、仕掛ける事は出来ない」

「村人が、襲われたら?」

「・・・境目が機能する事を祈ろう」


セイはすぐには返事をしなかった。

森を見ている。夕暮れの森は、枝と枝の間を黒く詰まらせ、奥の奥まで沈黙していた。


「うん」

「ありがとう」


少し不満そうな顔で、しかしセイは頷いた。

だからこそ、ジルは少し苦しかった。



借りた家は、全体から木の匂いが強くした。

土の床に机と椅子、湿気を避ける為か平らな石の上に家具は置かれている。

明かり取り用の窓が各部屋にあり、寝室だけが木の床になっていた。

室内の光源は小皿に獣脂、そこに灯された灯芯のみ。家は新しいが生活は質素なようだ。


ジルは壁の節穴を少し広げ、境目と森が見えるようにした。

そこから覗くと、骨の線が篝火に照らされて白く浮かんでいる。皮の帯は暗く地面に伏し、

刃物は光を受けて時折鈍く瞬いた。


セイは準備を始めていた。左腕に盾を装着し、右側には布を解いた剣を立て掛けている。

厚い刃は、明かりの少ない部屋の中でも重く光った。


ジルは手首の組紐を確かめた。

ギルド所属の魔法使い、ラドが作る組紐。短い間だけ、魔物の支配から意識を引き剥がす。

万能では無い。だが、無いより遥かに良い。


ジルはもう一本を取り出し、セイへ差し出した。

セイは目に見えて嫌そうな顔をした。

ジルは真剣な顔でセイに言う。


「魔物を見るのは、初めてだ」

「・・・うん」

「心配なんだ、セイ」

「うぅ・・・」


セイは黙った。

かなり長く黙った。

それから、諦めたように左手を出した。


「今夜だけ」

「うん。今夜だけ」


ジルはセイの手首に組紐を巻いた。

セイは巻かれた手首をしばらく見ていた。ジルと自分の手首を交互に見て、

すねたようにジルに頭突きをした。ジルは苦笑し、セイの前髪を整えた。




夜が来た。


日が落ちると、村の輪郭は急に薄くなった。篝火の炎だけが赤く揺れている。

その外側にある森は、濡れた獣の毛皮のように闇を吸っていた。

家の中は静かだった。外では、戸が閉まる音が続いている。閂をかける音。子供を叱る声。

誰かが泣く声。それらが一つずつ減っていき、やがて、篝火の爆ぜる音だけが残った。


ジルは壁の穴から外を見た。

骨はある。皮もある。石組みも見える。線は、見えている。


その時、声がした。

耳からでは無かった。頭の内側へ、柔らかい指を差し込まれたような感覚だった。

記憶の底を撫でられる。忘れていた物を、勝手に引き上げられる。


『ジル』


懐かしい声だった。

子供の頃、背中越しに聞いた声。世界中の秘宝を拝んで来ると羊皮紙一枚を残し、

姿を消した男の声。父の声だった。


胸の奥が、勝手に緩む。立ち上がりそうになった。

手首の組紐が、焼けるように熱を持つ。


「っ・・・」


ジルは歯を食いしばった。

声が遠ざかる。完全には消えない。水の底から呼ばれているように、まだ響いている。

だが、熱が、痛みが、意識をこの部屋へ引き戻していた。

隣でセイが目を開けた。


「ジル」

「大丈夫」


声が少し掠れた。そしてセイは無事か目を向けた。

セイの手首を見てジルは息を止めた。そこに組紐は無かった。

いつの間に外したのか分からない。手首に巻いたはずの紐は、剣の柄に巻かれていた。

だがセイの目に揺らぎは無い。声が効いていない。セイはただ、森を見ていた。


外で誰かが叫んだ。


「母さん!?」


別の家から、戸を叩く音がした。閂が鳴る。止めろ、出るな、違う、と怒鳴る声。

泣き声。床を踏み鳴らす音。村全体が暴れ始めた。


ジルは穴の外を見た。誰も外へ出ていない。まだ、出ていない。

少しだけ息を吐いた瞬間、森の方を見ていたセイが呟いた。


「下りて来た」



森の闇が動いていた。

最初は、影が濃くなっただけに見えた。次に、木と木の間にあるはずの無い太い脚が見えた。

灰色にも、黒にも見える毛並み。夜そのものを背に貼り付けたような体。


狼だった。ただし、人が狼と呼んで良い大きさでは無かった。

頭を上げれば、小屋の屋根に届きそうだった。胴は長く、前脚は太い。

爪は地面を掴む度に湿った土を深く抉った。口元から垂れた唾液が、篝火を受けて一瞬光る。


鼻息が荒い。尾が、不満そうに左右へ揺れている。


魔物は村を見て止まった。

首を左へ、右へ、何度も動かす。匂いを読んでいるのか。目で線を追っているのか。

篝火に照らされた骨、皮、石組み、古い布を、一つずつ確かめているように見えた。


「縄張り、見てる」


セイが呟く。


魔物は近付いた。一歩。また一歩。


骨の線の手前で、鼻先を下げる。皮を嗅ぐ。土に残った血と脂の匂いを嗅ぐ。

長い爪が、線のすぐ外側で止まった。


蹴散らさない。乗り越えない。縄張りだと、認識している。


ジルの胸に、細い安堵が灯った。正しかったのかもしれない。これで今夜は越せるかもしれない。

正体も見た。大きさも見た。狼型の魔物で、呼び声で獲物を誘う。境目は超えないが人を食った。

討伐はするしかない。明朝すぐに証拠と報告を送れば、いずれ討伐班が派遣される。


そう思った時、魔物が笑った気がした。

実際に笑ったのかは分からない。ただ、口の端が裂けるように持ち上がり、赤い舌が覗いた。


次の瞬間、声が来た。先程より強い。

森の奥から漂っていた声では無い。目の前にいる魔物が、村全体へ叩き付ける声だった。


『ジル』


『帰って来たぞ』


手首の組紐が、火傷しそうに熱くなった。ジルは壁に手を突いた。

家々の中で悲鳴が上がる。泣き声が膨れ上がる。閂を外そうとする音が、あちこちで重なった。

止めている者の声までもが、途中から揺らぎ始める。


「開けろ! そこにいるんだ!」

「違う、違う、出るな!」

「お父さん!」

「駄目だ、戻れ!」


ジルは唇を噛み締めた。


境目は効いた。だが、魔物はそれを越えないまま、獲物を呼ぶ。

縄張りには入らない。だから呼ぶ。ただ、それだけだった。裏目に出たのでは無い。

一度境目が消滅し、人間の味を覚えた。魔物にとってこの村は最早、ただの狩場となったのだ。


ジルはセイを見た。セイは魔物を見ている。

組紐を外しても、故人の声も、家々の悲鳴も、彼女の目を揺らしていない。

ただ静かに、ジルの判断を待っていた。


セイがジルの視線に気付く。何も言わず、頷いた。


ジルの胸が痛んだ。覚悟は出来ている、とその目が言っていた。

自分が行けと言えば、セイは行く。自分が待てと言えば、セイは待つ。

それが、何より苦しい。


「・・・調子は」

「大丈夫」

「前に戦った熊みたく大きいよ」

「あの熊は、もっと、大きかった」


ジルは、こんな時なのに笑いそうになった。


「・・・いつも通りにやる。いいね」

「うん」



ジルは扉へ向かった。

静かに出ても意味は無い。こちらへ注意を向けなければならない。

閂を外し、わざと大きな音を立てて扉を開けた。


夜気が流れ込む。血と脂と煙と、離れていても伝わる魔物の獣臭さが一度に肺へ入った。

セイが剣を掴む。厚い刃が床を離れる音がした。彼女は盾を前に、ジルの横を通り過ぎる。


二人が外へ出た瞬間、魔物が呼び声を止めた。村の中の騒ぎが、僅かに弱まる。

魔物は、ゆっくりとこちらを見た。獲物が出て来たから喜んでいるのか。

邪魔をされたから不満なのか。どちらとも読めなかった。


ただ、魔物は境目を越えずに、外側を歩き出した。線をなぞるように、ゆっくりと。

村の端から端へ走る境目の外側を、魔物の巨大な影が移動する。

こちらに巨体が向かって来る。悠然とした姿で。


ジルは村を見た。呼び声が収まったからか、まだ動揺はあるものの、先程よりも落ち着きが戻っている。

だが、次に呼ばれれば恐らく、村は耐えられない。ジルの判断は速かった。


「境目を越える」

「うん」



二人は獣避けの柵を越え、骨と皮で出来た線をまたぐ。村の内側から、森の側へ。

背中で村の気配が遠くなる。前には魔物。横には夜の森。

足元には湿った土と、切り株の影がある。


セイが三歩前に出る。

そして左半身を前にした。丸盾を体の前へ置き、小柄な体をその陰へ隠す。

右手の剣を、盾と体の陰に入るよう低く構え、柄が魔物に向くように、剣先を地面へ置いた。

足を開き、重心を沈め、顎を引く。体を捻った姿勢は、獣が跳ぶ直前の溜めに近い。


ジルはその少し後ろに立った。いつもの、二人で獣と戦う時の組み合わせ。

セイが前衛となり、ジルが撹乱する。もっとも魔物にこれが通じるかは分からない。

だが、やるしかない。


右手に石。左手に煙幕玉。腰には短剣。雑嚢にはロープ。

勝てる形になるまで戦闘を始めない。始まったら、相手にまともな戦闘をさせない。


魔物はセイの数歩先まで来ていた。


ただ、すぐ襲って来る様子が無い。高い場所から、小さな獲物を見下ろしている。

気に入らない。その顔は、そう言っているように見えた。


魔物が大きく息を吸った。今度は呼び声では無かった。

ただ、吠えた。それだけだった。


それでも、ジルは体の芯を殴られたように感じた。膝から力が抜ける。

心臓が縮み、肺が呼吸を忘れる。ただの獣の威嚇では無い。


伏せろ。


屈せよ。


命あるものは己より大きなものに平伏せよ。


そういう「命令」だった。組紐がずっと熱を発している。

だがジルは耐えきれず、片膝を着いた。土の冷たさが膝を打つ。

思考が途切れそうになる。セイの姿を見る。


セイは、崩れる事なくそこにいた。


横目でジルを見る。その目は一匹の獰猛な獣のように開いていた。

魔物に向き直り、そして、大きく息を吸い込んだ。

小さな体が膨らんだように見えた。


そして、咆哮した。


人の喉から出る声では無かった。

狼の遠吠えのような、凶暴な熊のような、それなのに何故か安心出来てしまう音。

魔物の圧が消えて行く。ジルの胸を押し潰していた恐怖が、裂け目から抜けるように消えた。

村からも、森からも、ざわめきが消えていた。


魔物の目が見開かれる。

威嚇を返された。獲物だと思っていたものが、自分へ吠え返した。

先程までの支配者のような視線ではない。瞳孔が開き、目の前の存在を敵だと認識した。


ジルが先に動いた。少し震える足のまま、森側に走る。

足音をわざと大きく立てながら石を投げた。石は魔物の頬に当たる。

魔物は避ける素振りを見せなかった。ただ、僅かにジルに視線を向けた。


その一瞬で、セイが魔物の視界から消えた。


盾の陰にあった体が、地面を蹴って低く滑り込む。体の捻りがほどける。

剣には見えない程、ぶ厚い鉄の塊が跳ね上がった。

地面が揺れ、形容し難い音が響く。


セイの剣が魔物の左前脚に叩き付けられていた。

前脚の半分が消し飛んでいる。黒色の毛皮の下から赤黒い血と白い骨が見えていた。

魔物の巨体が傾く。残った脚で無理矢理体を支え、喉の奥から、先程とは違う悲鳴を上げた。


目の前の小さな存在から距離を取る。

威嚇され、手傷まで負わされた。その怒りが伝わって来る。

食い殺してやる。そう宣言するように腹の底から唸り声を上げていた。


そこにジルが煙幕を張った。セイから距離を取られるのは不味い。

煙幕に紛れ、錘付きのロープを投げる。一瞬判断を鈍らせるだけで良い。


叩き付けられた剣は地面にめり込んでいた。

セイは剣に右脚を押し込む。体を回転させ、背負うように引き抜き、担いだまま盾を前に

魔物に迫った。


ロープは外れたが、音に一瞬魔物の気が逸れた。そこにセイが駆ける。

剣を叩き付ける。今度は胸元。僅かに届くだけでも痛打となる。


剣先に再び右脚をねじ込む。そこに魔物の牙が落ちてくる。盾の縁でそれを殴るように受け流す。

体を回転させ、剣を担ぐ。魔物が顔を向けた時には既にセイの体勢は整っていた。

ジルがナイフを顔に投げる。また気を逸らされる。逸らされたと思うと手痛い攻撃が来る。


攻撃と防御の間がほとんど無い。小さな体が、巨大な剣と盾の陰で消える。

剣の落ちた先に、姿勢を低く保ちながら移動する。小柄な姿はそれだけで一瞬視界から消えてしまう。

周囲をくるくると回り続ける小さい獣に、魔物は翻弄されていた。

魔物の全身が、血で覆われていく。


魔物の図体なら、いつでも押し潰せそうに見えた。

だが、魔物は手を差し込めない。初撃で深手を負ったことを、血に濡れた剣の輝きが主張していた。

魔物が唸った。残った前脚で踏み潰そうとする動きが、途中で止まる。

踏み込めば、あの剣が来る。そう理解している。


セイは無闇に突っ込んではいない。ジルの合図を待っている。

ジルが気を散らす。その隙にただ走れば良い。走って、剣を叩きつける。

それで、今までどんな大きな相手でも倒して来れた。


セイの攻撃手段は二種類しかない。

相手の視界から剣を隠し、体の小ささで油断を誘う初撃。

もう一つはひたすらに、懐に潜り込み右肩に担いだ剣を叩きつける。それだけだ。


剣術とは呼べない。相手が退けば当てられない。押し潰されれば負ける。

だから初撃を当てて警戒させる。そしてジルが思考を揺さぶる。そこを更に押し込む。

二人で初めて成立する、獣を狩る戦い方だった。


ジルは二つ目の煙幕玉を投げた。乾いた破裂音が夜の闇に響く。

白い煙が地面を這い、魔物の鼻先を包む。魔物は嫌がるように首を振った。

苛立ち紛れに地面を叩く。抉られた地面が土砂を巻き上げる。

白煙の向こうで、石が硬い何かにぶつかる音が聞こえた。セイが足を止め、土砂を盾で防いでいる。


魔物が笑った。何故かそう思った。

茂みに身を隠しながらジルは、白煙で見えないはずの魔物の気配が

変わったように感じた。


巨体が後ろ脚だけで立ち上がる。巨大すぎる。熊より小さいとセイは言っていたが、とんでもない。

体高は確かに熊の立ち姿より低い。しかし、立ち上がった姿は二人でやっとの思いで倒した熊より

倍以上は長い。その巨躯を思い切り地面に叩きつける。

右前脚が地面を文字通り抉り取る。小さい獣には触れない。だが、眼前の土砂がそれを成した。


煙幕が土砂ごと吹き飛ばされた。体勢を崩しかけるセイ。目を薄く閉じ、姿勢を更に低く備えた。

そこに爪が伸びた。盾の隙間を縫い、革鎧を切り裂く。

反射的にそこを庇う。生まれた隙に牙が伸びた。かすっただけの右肩から鮮血が散る。

土砂を更に巻き上げるように爪を振るう。爪を防げば土砂が、土砂を防げば爪が、セイの体を

徐々に切り刻んでいく。


やられた・・・!ジルは歯噛みする。今まで戦った事がある獣に、ここまでの知恵は無かった。

古い獣。知恵を身に付け、人の言葉を覚え、魔法を繰り出す存在。ギルドで教わった机上の知識。

それがここまで厄介だとは思っていなかった。完全に手札を学習された。


魔物が笑うように呼びかけてくる。


『ジル』


組紐が熱を持つ。既に何度も味わった呼びかけ。呼ばれる程の効果はもう感じない。

ただ一瞬、足を止めてしまった。


魔物が後ろ脚を勢い良く蹴り出した。ジルには届かないが、それで十分だった。

巻き上げた大量の枝や石が、茂みを飛び出したジルに直撃する。

全身を打ちのめされる。体が投げ出され、視界が回る。

背中から地面に落ちた。肺から空気が呻き声と共に漏れる。


「ジル!」


セイが一瞬だけジルを見た。だが、眼前の巨躯はそれを見逃さなかった。

ずっとこの瞬間を待っていた。そう言わんばかりに長い首を伸ばす。

大きな顎が、セイの左腕ごと盾を捉えた。


嫌な音がした。盾が割れる音。革と木と金具が軋む音。

その下で、骨が潰れる音。


セイの体が持ち上がった。足が地面を離れる。盾ごと左腕を噛まれ、宙に吊られる格好になった。

セイの右手から剣が落ちる。重い刃は真下へ落ち、地面へ深く刺さった。

魔物が勝ち誇ったように、セイをぶら下げたままジルに向き直る。

次はお前の番だ。そう宣言するかのように。


「セイ!」


ジルが叫ぶ。魔物がその声を聞き、嬉しそうに語りかけてくる。


『いい子にしてたかい』


うるさい。セイを返せ。軋む体を持ち上げ、最後の短剣を取り出す。

魔物退治なんて無謀だった。村を見捨ててでも情報を持ち帰るべきだった。


せめて、一人だけでは行かせない。ジルが魔物に向き合った時だった。


宙吊りになっていたセイが動いた。両足で魔物の顎を掴み、右手で更に下顎を抑え込む。

左腕を噛まれたまま、セイは魔物の口を固定した。

眼前にあるのは魔物の鼻。セイは唸り声を上げていた。


そして、口を大きく開き、魔物の鼻へ噛みついた。


巨体から悲鳴が漏れる。しかし、常人には無い膂力で押さえつけられた顎は開かない。

漏れ出る恐怖を感じた獣の鳴き声。頭を振り回し、右脚でセイの体を何度も叩く。

セイは怯まない。何度も何度も、魔物の鼻に食らいついていた。

魔物の鼻は血塗れになっていった。セイが大きく頭を持ち上げ、全力で肉を食い千切る。


鋸を当てたような歯型が、肉の千切れた勢いでまとめて剥がれ落ちた。

魔物が悲痛な叫び声を上げた。セイが右手を離すと大顎を開けて泣き叫ぶ。

左腕が顎から離れ、セイは地面に背中から落ちた。が、すぐに立ち上がり剣を探す。

近くに刺さっていた剣を、いつもの動作で右脚を差し込み、肩に担いだ。


魔物はのたうち回っていた。獲物だと思っていた存在に痛手を負わされ、

食らったと思えば逆に喰らわれ、喰い千切られた。長い年月を生きた古い獣は

生まれて初めての恐怖に、怪我をした幼獣のようにただ泣き喚いていた。


左腕は力無く垂れ下がっていた。だが、右手は動く。体も動く。

セイは、頭を下げた魔物に向かって全力で駆けた。

そして、体ごと叩き付ける、落石のような一撃をその頭蓋に落とした。


音が消えた。一拍遅れて、地面が揺れる。

魔物の巨体が崩れ落ちた。残った前脚が折れ、長い胴が横倒しになる。土が跳ね、血が広がる。

尾が二度、三度、地面を叩いた。


セイは剣を抜かなかった。剣を魔物の頭へ埋めたまま、肩で息をしている。

魔物は痙攣した。爪が地面を掻く。口が開く。声にならない息が漏れる。

やがて、それも止まった。森が静かになった。



ジルはしばらく動けなかった。

痛みのせいでは無い。魔物が、本当に動かないのか見ていた。

首は動かない。胸も上下しない。尾も動かない。喉から声も出ない。

血の匂いだけが濃くなっていく。


ジルは足を引きずるようにしてセイへ駆け寄った。

セイは剣を地面に立て、何とか倒れずにいた。呼吸が荒い。肩が大きく上下している。

左腕は、力無く垂れ下がっていた。盾は壊れ、割れた木片と金具が腕に食い込んでいる。

口元は魔物の血で赤かった。


「セイ」


呼ぶと、セイは顔を上げた。笑おうとした。次の瞬間、セイの目がジルの頬と腕を見た。

全身から血が滲んでいる。胸甲が歪み、服の随所が破れ、砂利と泥で汚れていた。

セイの顔が崩れた。


「ジル! 血! 血が!」

「落ち着いて、セイ、かすり傷だから」

「ジル、やだ、死んじゃやだ!」

「セイ! よく見て!」


ジルはセイの右手を取った。

自分の顔に触れさせる。頬。額。顎。首。何度も、何度も。


「ここにいる。息もしてる。見て。血は少しだけ」

「でも、血」

「擦っただけ。痛いけど、死なない。セイ、私を見て」


セイの呼吸が乱れている。魔物に左腕を噛み砕かれた時より、ずっと怯えている。

ジルは右手を握り続けた。


「私はここにいる」


「ジル」

「うん」

「死なない?」

「死なない」


何度か繰り返すと、セイの目が少しずつ戻って来た。


ジルはそこで、ようやくセイの左腕を見た。見た瞬間、喉の奥が冷えた。

盾の表側は割れている。牙の当たった部分は潰れ、金具が歪んでいた。

盾を外すには、壊れた留め具を切る必要がある。ジルは短剣を抜き、手早く革紐を切った。


盾を剥がす。セイが痛みで顔を歪めた。

左腕の表側は擦り傷とへこみで済んでいる。盾が受けたのだ。

だが裏側には、魔物の牙で出来た大穴があった。肘から下の骨は、ほとんど砕けている。

腕の形をしているのが不思議な状態だった。


ジルは吐き気を押さえ込んだ。ここで動揺しては駄目だ。

セイが見ている。セイは自分の怪我より、ジルの顔を見る。


「戻るよ」

「ジル、痛くない?」

「こっちの台詞だ」

「私は、平気」

「そんなわけあるか・・・」


ジルはセイの右側へ回り、体を支えた。二人共ボロボロの姿で互いを支えて歩いた。


境目をまたぐ。森の側から、村の内側へ戻る。

骨の線を越えた瞬間、家々の中から息を呑む気配がした。

誰かが窓の隙間から見ている。誰かが泣いている。誰かが、祈るように何かの名を呼んだ。


ジルは声を張った。


「魔物は倒しました!」


村の内側に、ざわめきが広がった。


「ただし、朝までは絶対に外へ出ないで下さい! 念の為です! 扉を閉めたまま、朝を待って下さい!」


それだけ言うと、ジルはセイを借りた家へ連れて戻った。




家に入ると、木の匂いと血の匂いが混じった。

ジルは扉を閉め、閂をかけた。水瓶の前に行き、桶に水を汲む。


「お借りします」


誰にともなく言い、桶を持って寝室に向かった。


セイを椅子へ座らせる。

革鎧もぼろぼろだった。肩と脇に深い裂け目が出来ている。背中も何度も叩かれて革紐が千切れていた。

作り直した方が早いかもしれない。服も血を吸って重くなっている。

鎧を剥がし、服を切って開く。全身に傷跡が出来ていた。


ジルは布を濡らし、血を洗い流した。セイは時々痛そうに息を詰めたが、呻く事もしなかった。

ただ、ずっとジルを見ていた。正確にはジルの傷を。


「ジルが先」

「何が」

「治療」

「セイの腕が先」

「ジル」


その声が少し低くなった。ジルは手を止めない。


「心配してくれて嬉しいよ。でも、腕が先」

「ジル!」

「・・・私にも、セイの事を心配させてくれ」


ジルの言葉が揺らいでいる。それに気付いたセイは言葉が詰まった。

次の言葉が出て来ない。何かを言おうとして口を開き、形にならず萎んだ。


ありがとう、とジルが礼を言う。

治療をしている側が礼を言うのかと、少し可笑しい気持ちになった。

左腕の血を流し、包帯を巻き、添え木を当てる。こんな事で治るわけがない。普通ならば。


肩に吊ろうとすると、せっかくの左腕がまた血で塗れる。結局セイの全身の手当が先になった。

セイの不満そうな顔をジルは見ないふりをした。服の代わりに手持ちの布地でセイを覆う。


それから、ジルは自分の頬と腕の傷を洗った。服の下にも打撲がある。

脇腹は青くなるだろう。だが、骨は折れていない。息も出来る。

セイの怪我より遥かに軽傷だが、軽く見て良い怪我でも無い。丁寧に処置を行う。


セイはその作業をじっと見ていた。

ジルが丁寧に布を当て、薬を塗り、包帯を巻くと、ようやく少し表情を緩めた。

それから、「ご飯」と口にした。ようやくジルも落ち着いた気持ちになった。


荷袋から保存食を取り出し、セイに食べさせる。さすがにジルは食べる気になれなかった。

水だけを飲み、セイの食欲がいつも通りな事を確認する。

食べ終わると、セイの瞼がすぐに落ち始めた。


寝台を借り、セイを横にする。

左腕が揺れないよう布を直すと、セイは右手でジルの袖を掴んだ。


「ジル、いる?」

「大丈夫。ここにいるよ」


ジルはその右手を握った。空いた手で、セイの頭を撫でる。

セイは安心したように息を吐き、すぐに深い眠りへ落ちた。



夜の屋内は静かだった。村人達も落ち着いたのか、先程まで漏れていた声も消えていた。

灯芯の明かりが小さく揺れている。獣脂の燃える臭いと、洗い切れなかった血の匂いと、

濡れた布の匂いが混じっていた。外では篝火が爆ぜる音が遠く聞こえる。


しばらくして、部屋の中が不自然に明るくなった。

明かりは緑色を帯びている。小さな光の粒が、空気の中を漂っている。

窓から入って来たわけではない。灯芯の火でも無い。セイの周囲を満たすように、水面のように明かりが揺れる。


やがて、光の粒がセイに吸い寄せられるように集まっていく。

粒がセイの傷口に留まる。脇腹に、肩に、無数の切り傷に。

左腕にはまばゆい程に多く留まった。布の下から光が滲み、添え木の隙間を淡く照らす。


ジルはその光景を見慣れていた。

だからこそ、誰にも見せてはいけないと知っている。


セイが何者なのか、ジルは知らない。

あの膂力も、大怪我をした時だけ現れるこの光も、光が消えた後に怪我が塞がることも。

理由は何も分からない。恐らく、セイ自身も分かっていない。


ただ、こんな力があるから、セイは前へ出る。


自分の体を顧みない。砕けても、裂けても、噛まれても、

戻るからと当然のように戦う。

そして、自分の怪我よりジルの血を見て取り乱す。それが、ジルには堪らなく辛かった。


他の生き方をさせようと考えたことは、何度もある。

普通の家に置く。穏やかな仕事をさせる。戦わずに済む場所へ連れて行く。

だが、セイはあまりに不器用だった。


お腹を空かせた者を放っておけない。弱い者を嬲るものを許せない。

ジルが傷付けば、自分の命よりそちらを気にする。

人間の世界でこの子は、一人では生きて行けない。


なら、自分が支える。この子が出来ないことを、自分が全て補う。

誰にも任せてなるものか。ジルはセイの右手を握り直した。


セイは眠っている。深く、重く、傷を治す獣のように。

緑の光は、夜の部屋で静かに瞬いていた。




翌朝、鳥の声がした。ジルは椅子に座ったまま眠っていたらしい。

首が痛い。体中が重い。まぶたを開けると、部屋の灯明は消えていた。


顔に、何かが触れていた。

ゆっくり顔を上げると、セイが目を覚ましていた。右手でジルの顔に触れている。

撫でるというより、存在を確かめるように、輪郭をなぞっていた。


「おはよう、ジル」

「おはよう、セイ」


それだけだった。だが、それだけで十分だった。


ジルは立ち上がり、明かり取りの窓を開けた。朝の光が部屋に入る。雲一つ無い晴天だった。

夜の出来事が嘘のように、村の外から鳥の声が聞こえる。


光の中で、セイの様子がはっきりした。

顔の擦り傷は塞がっている。首筋の傷も薄い赤みだけになっていた。左腕の包帯を外すと、

牙で開いた大穴も塞がっていた。皮膚の下にあったはずの砕けた骨も、形としては戻っている。

だが、セイが腕を動かそうとして、眉を寄せた。


「治った」

「動かせる?」

「・・・動かない」

「じゃあまだ治ってない」

「包帯、嫌・・・」

「なら、尚更早く治さないとね」


ジルは水を汲み、セイの体を拭った。血と泥を落とし、髪に絡んだ土を取る。

替えの服を着せ、左腕は再び布で肩に吊った。セイは不満そうに口を尖らせた。

ジルがセイの鼻を軽くつまむ。少し間が空く。


「くしゅ」


わざとらしい音を立てる。

二人して顔を見合わせ、少し笑った。


手早く食事を済ませると、セイは再び微睡み始めた。

体が傷を治そうとしているのだ。セイを寝台に寝かしつける。

寝息が深まるのを確認し、ジルは外へ出た。



朝の村は、まだ恐る恐る息をしていた。戸口から顔を出す者がいる。

窓の隙間から外を見る者がいる。篝火はほとんど燃え尽き、灰と煙だけを残していた。


魔物は、昨日のまま境目の外に横たわっていた。

巨大だった。夜よりも、朝の光の下で見る方が大きく感じた。黒灰色の毛皮は全身が固まりかけの血に塗れ、

左前脚は半ばから失われている。鼻先は大きく食い千切られ、頭部は剣によって完全に破砕していた。


ジルは近付いて、確実に死んでいることを確認した。

呼吸は無い。目に光も無い。口元に残った唾液は乾き始めている。

それから歩数で大きさを測り、帳面に簡単な姿絵を記した。長い胴、太い前脚、異様に長い首。

声による誘引。境目を認識したこと。越えずに呼んだこと。土砂を巻き上げる戦い方。戦闘中の声の使い方も。


村長の家へ向かう。扉を叩くと、すぐに開いた。

村長は眠っていない顔だった。目の下に隈が出来、唇の色も悪い。それでも、外へ出て来た。


「魔物は倒しました。完全に死んでいます」


村長は深く息を吐いた。その息には、安堵より先に疲労があった。


「村人達に伝えて下さい。それから、後片付けの手伝いをお願いします。あの死体をそのままには出来ません」

「焼くのですか」

「はい。燃え残れば、深く埋めます」


村長は頷いた。

それから、ジルは魔物の片耳、牙の一つ、一番長い爪を切り取った。討伐の証拠品だ。

布に包むと、血の匂いがさらに強くなった。紙に短く書く。


『狼型の魔物。討伐完了。証拠品あり。確認と検分を頼みます』


証拠品と紙を村長へ渡した。


「これをギルドに。連絡が届き次第、職員と領主の使いが来るはずです」

「分かりました」


村長はそれを両手で受け取った。



魔物の死体を焼く準備は、思ったより早く進んだ。

材木を扱う村だけあって、端材は山ほどある。男達が無言で木を運び、魔物の周りに積んだ。

女達は距離を取り、子供達を家の中へ押し込めている。


ジルの合図で、村長が火を放った。火はゆっくりと毛皮へ移った。

最初は煙が酷かった。獣脂の焦げる臭いが強く、何人かが口元を押さえて後退した。

やがて炎が大きくなり、黒灰色の毛皮を舐め、乾いた血を焼き、巨体を赤く包んだ。


村の恐怖が燃えていく。

誰かを呼ぶ故人の声も、もう無いだろう。


ジルはしばらくそれを見ていた。安堵はあった。だが、綺麗な終わりでは無い。

先代村長は理由を言わずに死んだ。猟師は黙って守り、そして食われた。

若い村長は何も知らないまま森を広げた。女達は当然の感覚で骨を捨てた。


誰か一人の過ちでは無い。

ただ、境目が失われた。それだけで、森は村へ声を届かせた。

火がある程度落ち着いた頃、ジルは村長に説明した。


「境目は機能しました。魔物は認識していました。線を越えては来なかった」

「では、何故」

「越えずに呼びました。境目を見た上で、中の獲物だけを外へ誘おうとした」


村長の顔がさらに青くなる。


「では、どうすれば」


ジルは燃える魔物から視線を外し、村の端を見た。


「新たに、森との境目を作りましょう。即席では無く、誰が見ても理解出来るように」

「骨を、また並べるのですか」

「有効だったのは確かです。ただし、今までの形では駄目です。理由を伝えて下さい。

村全体で守るものにして下さい」


村長は黙って聞いていた。


「獲るのが男達の役割なら、飾るのは女達の役割にしてもいい。子供が怖がらない形を考える。

石組みを新しくする。低い石垣や柵で、ここから先は森だと誰でも分かるようにする。

骨も、ただ置くのではなく、意味を持たせる」


「意味を」

「はい。意味を言葉にして伝えるんです。黙って守っても、次の人には伝わりません」


村長は、長く目を伏せた。


「祖父も、猟師も・・・黙って守っていた」

「はい」

「それでは駄目だったんですね」

「守っていた間は、駄目では無かったんだと思います」


ジルは言った。


「ただ、継がれなかった」


村長は唇を噛んだ。


「今晩、呼びかける声が無いことを確認しましょう。それから新しい境目を作って下さい」

「分かりました」


その夜、森が呼びかける事は、もう、無かった。




翌朝。食後からずっと目を覚まさなかったセイが、ゆっくりと目を開けた。

ジルは寝台の横にいた。帳面を開いて報告書の下書きをしていたが、すぐに顔を上げる。


「おはよう、セイ」

「おはよう、ジル」


セイは少しぼんやりしてから、自分で左腕の布を外した。

腕を上げ、回し、指を握っては開いてを繰り返した。


「治った」


ジルは手に取り、肘から手首まで確かめた。

傷は無い。動きも戻っている。力も入る。


「・・・うん、もう大丈夫みたいだね」


言った瞬間、ジルはセイを抱き締めていた。最近は、ほとんどしなくなった抱擁だった。

セイは少し戸惑った。それから、おずおずとジルの背中に手を回した。

そして、思い切り抱き返した。


「ぐ、苦しい」

「ジルも、強い」

「張り合わなくていい」


それでも、ジルは離さなかった。セイも離さなかった。

互いの体温と、呼吸と、骨の固さを確かめる。

生きている。ここにいる。それだけを確かめるように。


「・・・で、何で外したの。組紐」

「ジル、怒ってる?」

「怒ってる」


顔を逸らすセイ。頬を膨らませている。

それをつつきながらジルは聞く。怒っているわけではない、理由が知りたいと示すように。


「声、聞こえなかったから」

「うん?」

「だから、声」


「誰の声も?」

「うん」


上目遣いでジルを見上げる。腕を組み、何を言うべきか悩み、結局言葉が見つからなかった。

両手でセイの頭を混ぜながら、もう一つ気になっていた事を聞いた。


「何で剣に巻いたの」

「ジルが、くれたから」


それだけを口にする。ジルは無言で、再びセイを強く抱きしめた。



魔物の巨体は、燃え尽きてはいなかった。

火が消えた後も、胴の一部が黒く残っていた。灰と焦げた骨と、硬くなった肉片。

村人達はそれを見る度に顔をしかめたが、もう昨日のような混乱は無い。

ジルは村長に言った。


「残りは、灰と一緒に森と境目の間へ深く埋めて下さい」

「村の中では無く?」


「はい。ここからは人里だと、次に魔物が棲み着いた時に教える為です。

ここは人が獣を殺す場所だと。魔物にとっても危険な場所だと」


村長は頷いた。


新しい境目作りは、すでに始まっていた。石組みは新しく積み直され、古い石はその中心に残すことになった。

杭には、今度は色とりどりの布が巻かれている。赤、青、黄、白。遠くからでも分かる色だ。


石組み同士を繋ぐように、低い石垣が作られ始めていた。その上には、今までの簡易な獣避けでは無く、

丈夫な柵を建てるらしい。男達が忙しそうに木材を運び、釘を打っている。


女達は別の場所で何やら騒がしかった。二人が近付くと、乳飲み子を抱えていた女が手を振った。

今日は赤子を背負い、両手を空けている。


「お二人さん、見ておくれよ」


女が掲げた物を見て、ジルは一瞬言葉を失った。


それは、鹿の頭骨だった。

ただし、昨日掘り返された骨のように生々しくは無い。綺麗に洗われ、角の根元には花が編み込まれている。

空洞の目の周りには小さな赤い実と白い花が飾られ、顎の下には布紐が結ばれていた。


「どうだい? これなら、ただ置いてあるよりずっと良いだろう」


ジルは少しだけ返事に詰まった。


「え、えぇ・・・。素敵な飾りだと思います」

「そうだろ。森に見せるなら、こっちもちゃんと見せないとね」


女は誇らしげに言い、それから子供達の集団へ顔を向けた。


「子供達にも見せてくるよ」


セイがジルの後ろに隠れる。顔を逸らし、頭骨を見ないようにしている。


「セイ?」

「あれ、怖い・・・」


女は鹿の頭骨を持ったまま、子供達の集団へ近付いた。


「ほら見てごらん。怖くないよ、花を付けたんだから」


子供達は一瞬固まった。

次に、蜘蛛の子を散らしたように逃げた。


「ぎゃあああ!」

「こっち来るな!」

「目が無い!」

「怖い!」


女は少し慌て、それから笑いながら追いかけた。


「何だい、失礼だね! 可愛くしただろう!」


子供達は叫びながら逃げ回り、周りの大人達が久しぶりに声を上げて笑った。

セイはジルの背中に隠れたまま、小さく言った。


「怖い」


ジルは堪えきれず笑った。セイが怖がるなら何よりだ。魔物もきっと近寄る気を無くすだろう。

空を見上げる。雲は薄く、森の上に明るい光が差している。


ジルは、報告書の内容を考えた。


調査依頼だった。

ただ森から声がする。不気味だから調べてほしい。そういう依頼だった。

それが、魔物を討伐し、村の境目を作り直す話になった。


ギルドへ戻れば怒られるだろう。

先行するな。二人で魔物に挑むな。村より自分達の安全を優先しろ。

逃がしたらどうなる。言われる言葉は、今からでも分かる。


だが、それでも。ジルは、花で飾られた鹿の頭骨を掲げて子供を追う女と、

その後ろで笑う村人達を見た。


森と村の間には、新しい線が作られ始めている。理由の無い慣習では無く、

伝える為の形として。ジルは小さく息を吐いた。


・・・この光景が守れて良かった。そして、同時にこうも思った。


魔物退治なんて二度とごめんだ、と。


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