第4話 森の呼び声(前編)
『森の奥から、故人の呼ぶ声がする』
そう書かれた依頼書を見ながら、馬車に揺られるジルとセイ。
また小妖精絡みの依頼か。そう思いながらジルは依頼書をしまった。
二人は緩んでいた。いくつもの依頼をこなし、凶暴な獣討伐もこなしていた。
今回もどうせ隣人だろう。たまにはくつろいでも良いかもしれない。
鼻歌を歌う相棒を見て、ジルはそう思うのであった。
セイとジルの契約奇譚、第4話 森の呼び声。
始まります。
乗合馬車は、朝からずっと揺れていた。
車輪が乾いた土道の窪みに落ちる度、荷台の板がぎしぎしと鳴り、吊るされた小さな荷袋が互いにぶつかった。
馬の蹄が土を叩く音。御者が短く舌を鳴らす音。どこかの旅人が腰をさすって呻く音。
その中で、セイだけは妙に機嫌が良かった。
革鎧の上から外套を羽織り、保存食を入れた大袋を抱えて座っている。剣と盾には布を被せ、
他の荷物と共に脇に置いてある。セイは眠たげな目を半分閉じながら、鼻の奥で小さく音を転がしていた。
歌なのか、唸りなのか分からない。ただ、機嫌が良い時の音ではあった。
ジルは隣で、膝の上に置いた依頼書に目を通した。何度も読んでいるが、馬車の中は手持ち無沙汰だった。
紙面には、村長からの依頼が簡潔に書かれている。
『森から、死んだはずの者の声が聞こえる。不気味なので調べてほしい。』
死人が出たとは書かれていない。家畜が攫われたとも、獣が入り込んだとも、子供が消えたともない。
最近続いた依頼を思えば、まだ軽い部類に見えた。
声真似をする隣人か。森際に住み着いた何かが、村人の不安に反応しているのか。あるいは、
ただの獣騒ぎに尾ひれが付いただけか。ジルは依頼書を畳み、懐へ戻した。
「ご機嫌だね、セイ」
「うん」
「何か良い事あったの」
「馬車、久しぶりだから」
セイは目を閉じたまま答えた。
「そうだね。大抵は歩き通しだ」
ジルは少しだけ笑った。
「それに、ジルも、ご機嫌」
「そう?」
「うん」
「そうかも。多分今回も、声真似する隣人かなと思ってる」
「今回は、旅行」
セイは、ふ、と鼻を鳴らした。笑ったらしい。
旅行、言われてみれば確かに。今回は自分でも不思議な程気が楽な事に気付く。
最近立て続けにこなして来た依頼が、隣人騒ぎ、あるいは猛獣退治ばかりだった。
言葉の通じない隣人に比べたら、故人の声で呼びかけるくらい、可愛いものだ。
そう思うとたまには旅行気分も悪く無い。
セイに少し合わせるように、鼻歌を歌う。セイがこちらを見て、嬉しそうに微笑んだ。
向かいに座っていた行商人が、二人を面白そうに眺めた。腹の前に布袋を抱えた、よく日に焼けた中年の男だった。
足元には木箱が二つ。布の隙間から瓶や革紐が覗いている。
「あんた達、どこまで行くんだい」
ジルは外套の襟を直しながら答えた。
「途中の宿場を超えて、そこから山側の村へ」
「ああ、あそこか。景気の良い村だな」
行商人は、すぐに話へ食いついた。
「良い木が採れる。最近は随分と人も増えたらしい。若い村長になってから勢いがあるって話だ。
あそこは良いよ。金払いも悪くない」
「そうなんですね」
ジルは、相手の言葉だけでなく表情を見た。
行商人は本当に景気の良い村として語っている。恐怖や忌避はない。
「森の方を切り拓いてるって聞いたね。木材の需要があるんだとさ。新しい家も増えて、外から働き手も呼んでる。
山奥にしちゃ珍しい村だよ」
「なるほど」
「あんた達も仕事かい? その格好じゃ、ただの旅人って訳でもないだろう。そっちの子は革鎧。あんたは胸当て。
傭兵でもやってるのかい?」
ジルは自分の金属製の胸当てを軽く叩いた。
「似たようなものです」
「似てるんだ」
セイがぽつりと言った。
「似てないよ。説明が面倒なだけ」
「うん」
行商人はからから笑った。
「まあ、荒事じゃないなら良いがね。あの村は今、景気の良い話が多い。妙な噂で客足が遠のくのは惜しい」
「妙な噂ですか?」
ジルが聞き返すと、行商人は肩を竦めた。
「森から声がする、とか何とか。死んだ親父の声だ、先に逝った女房の声だ、昔の猟師の声だ。そういう話さ。
山奥じゃ珍しくもないだろう」
「珍しくはありませんね」
「そうなの?」
セイがジルを見る。
「人は、聞きたい声を聞くことがある」
「聞きたい声」
セイは少し考えた。
「ジルの声なら、聞く」
「人を勝手に死人にするな」
「うん。だから、聞こえたら、変」
行商人はまた笑った。ジルも少し笑ったが、すぐに外へ目を向けた。
馬車の外では、低い山が重なっている。青黒い森の線が、遠くから少しずつ近付いていた。
御者台の隙間から森を眺める。何かが潜んでいるようにも見えず、ただそこにあるだけの、普通の森に見えた。
夕刻、最初の宿場へ着いた。
小規模の歓楽街と言った様相の宿場だった。あちらこちらで宿泊客を呼び込む声が聞こえてくる。
建物と建物の不自然な隙間の入口には、妖艶な雰囲気の女性が数人、旅人の品定めをしていた。
セイの目に入らないように、ジルは体で遮りながら今日の宿に入る。
一階が食堂兼酒場、二階が宿のよくある形式の店だった。だが、雰囲気が明るい。
景気が良いのか、燭台を何本も掲げている。配膳係も多く、利用客も多い。
そして何より、料理が非常に魅力的に映った。
ジルは宿代を払い、料理に釘付けのセイをつつき、荷物と防具を置いてから食堂に戻った。
その日の夕食は、豪勢な物にした。
滅多に口にする事の無い柔らかな白パン。豆と燻製肉の煮込み。香草を擦り込んで焼いた鶏。
芋を潰して塩と油で和えたもの。小さな皿には酢漬けの野菜まで乗っている。
セイは席に着くなり、料理とジルを交互に見た。こんなにいいの?という顔だ。
笑いながらジルが言う。
「食べて良いよ」
「ジル、ご機嫌」
「たまにはこういう日もいいだろう」
片目を閉じてセイを促す。
「ジルも、食べる?」
「私の分もちゃんとあるよ」
セイに比べたらとても少ない。だがこれでも、他人と比較すれば多い方である。
セイは自分の皿を見下ろし、小さく両手を合わせた。
「頂きます」
「はい、頂きます」
セイの食べる速度は速い。だが、食べ方はとても綺麗だった。
パンを千切り、煮込みに浸し、肉は骨を避けて綺麗に噛み取り、皿に残る汁まで逃がさない。
空腹に追い立てられているのではなく、食事そのものを大事にしている食べ方だった。
ジルは自分の皿から芋を一口食べ、片手で布を取った。
セイの口の端に付いた煮込みの汁を拭う。セイは抵抗しない。
隣の卓に座っていた旅人が、手にしていた木杯を止めた。セイの食べっぷりに驚いているようだ。
「よく食う子だなあ」
「育ち盛りなので」
ジルは適当に返した。
「育ち盛りって量じゃないだろう。いや、見ていて気持ちが良いな」
セイは一瞬だけ旅人を見たが、すぐに鶏肉へ戻った。ジルは、今度はセイの指先についた油を拭いた。
旅人はその様子を見て、何かに納得したように頷いた。
「若いけど、母娘なのかい?」
ジルの手が止まった。セイは動きを少しだけ緩めた。
聞き耳を立てているように見える。
「違いますよ」
ジルは即答した。だが、声の端が少しだけ浮いた。
「そうかい。悪い悪い。随分自然に世話を焼くものだから」
「癖みたいなものです」
「良い癖だ」
旅人はそう言って、自分の杯へ戻った。ジルは布を畳みながら、顔を背けた。悪い気はしなかった。
むしろ、口元が勝手に緩むのを止める方が難しかった。セイはじっとジルを見ていた。
「何?」
「ジル、にやけてる」
「にやけてない。ほら、食べた食べた」
「うん」
そんなににやけていただろうか。ジルは頬を押さえ軽く揺すった。
追加の肉串が届く。セイの目が輝いた。後ろから旅人の仰天する声が聞こえてきたが聞こえないふりをした。
食事を終える頃には、セイの瞼が落ちかけていた。立ち上がる時、体が少し傾く。
ジルは自然にその肩を支えた。階段を上がる途中、セイが半分眠った声で言った。
「ジル・・・お母さん?」
「誰がお母さんだ」
「あのおじさん、言ってた」
「勘違いしてただけだよ」
「ジル、お母さん」
ジルは聞こえないふりをしたが、再び顔がにやけてくるのを止められなかった。
ジルが支えると、セイはふにゃりと体重を預けた。
部屋へ戻ると、宿の者に頼んでおいた湯が運ばれていた。大きな桶から湯気が立ち、旅の埃と馬車の匂いを
薄く押し流している。普段なら、それぞれで済ませる。だが、その夜は二人とも緩んでいた。
ジルはセイの髪に絡んだ細かな埃を取り、濡らした布で首筋を拭いた。セイは少しくすぐったそうに肩を竦めたが、
逃げはしなかった。
湯で顔を拭き、手を洗い、足の汚れを落とす。旅の一日は、体の隙間へ砂を溜め込む。
指の間、耳の後ろ、襟元、手首。ジルはそれを一つずつ取り除いた。セイはじっとしていた。
ただ時々、気持ち良さそうに細い息を吐く。
「ちょっと髪が傷んでるね」
「気にしない」
「私が気になる。ほら、油を塗るからじっとして」
「油、苦手・・・」
「これでも?」
取り出した油は、セイが唯一と言っていい程、食物以外で興味を持った香油だった。
それを数滴、手に垂らし両手で混ぜる。
「・・・それなら、好き」
「ふふ」
支度を終えると、ジルは自分の外套を椅子の背に掛けた。今度は自分が汚れを落とす番だ。
その隙に、セイが外套を取った。
「あ、こら」
セイは聞こえないふりをして、外套ごと布団へ潜り込んだ。丸くなる。わざとらしく寝息を立て始めた。
ジルは腰に手を当てて、その膨らみを見下ろした。
「セイ」
返事はない。
「寝た?」
返事はない。
ジルは布団の端に腰を下ろし、外套越しに頬の辺りをつついた。セイはむずがるように体勢を変えた。
頬が少し膨らんでいる。膨らんだ頬を指でつつく。ぷしゅう、と口から空気が漏れる。
ジルは堪えきれず、鼻の辺りを軽くつまんだ。
少し間があった。
「くしゅ」
あまりにも作ったような、小さな音がした。ジルは肩を震わせた。
外套の隙間から、セイの片目がちらりと開いた。すぐ閉じる。セイが時々やる仕草だった。
ジルは気付かないふりをした。
「寝たなら仕方ないね」
再び頬をつつく。セイの肩が微かに震えた。笑いを堪えている。
ジルはその髪を指で梳き、額に掛かったほつれを横へ流した。
「お休み、セイ」
隣の寝台へ移る。灯を落とすと、部屋は薄い闇に沈んだ。
外の廊下から、遠い笑い声と、誰かが桶を運ぶ音が聞こえる。少しして、外套の塊から、
聞こえないほど小さい声が返った。
「お休み、ジル」
翌朝、二人は宿場を出た。
再び乗合馬車で移動をし、途中で下車。そこから歩いて二つ目の宿場に入った。
二つ目の宿場でも、聞こえて来る話は目的の村の景気の良さと不気味な声の噂だけで、
目新しい情報は特に無かった。やはり迷惑な隣人というだけかもしれない。
明日は依頼人と会うのだから気を引き締めなければ。そう思いながら、ジルはセイの口を拭った。
翌朝、宿場を出て村に向かう。目的の村の方向からは、大量の製材を積んだ馬車が
三台、連なってやって来た。脇道に避け、馬車を通す。御者から礼の言葉が飛んできた。
「本当に景気が良いんだね」
「うん、馬も、元気だった」
「何か感じる?」
「うーん」
セイは目的地の方角を見つめる。まだ遠すぎるか、あるいは薄いか。
だが、セイの反応は違った。
「・・・濃い」
「・・・この距離で?」
「分からない。でも、いつもと、違う」
「分かった。気を引き締めよう」
セイの勘はまず外れない。旅行気分は終わりだ、そう告げられた気がした。
村へ近付くほど、空気が変わった。森が近い。
馬車を通す為に広げた道は硬く踏みつけられている。だが、周囲の土は湿り、苔むし、
落ち葉が堆積している。種類の分からない鳥の声が静かな道行きに響く。
セイは時々、森の奥へ顔を向けた。だが、何も言わなかった。
ジルも、先入観を捨てる為あえて何も聞かなかった。
村に到着したのは昼頃だった。
村は確かに景気が良さそうだった。山奥にしては道が広く、材木置場には太い丸太がいくつも積まれている。
新しい家が何軒も立ち並び、それらはまだ木肌が明るく、切り出したばかりの匂いを残していた。
釘と油、樹液と土。森側に並ぶ家々は、まだ村というより森を削った跡に立っているように見えた。
行商人達の言葉も頷ける。
だが、村の様子はおかしかった。
材木を担いでいたはずの男達は、荷を下ろしたまま立ち尽くしている。井戸端の女達は桶を抱えたまま声を潜め、
子供達は大人の陰へ押し込まれていた。斧の音も、木を引く音もない。
一際立派な家の前に、人が集まっている。
皆一様に表情が暗い。誰かが泣く声、吐くような音、ぼそぼそと言葉を交わす数組の集団。
彼らの中心には、藁を被せられた何かが地面に置かれている。
若い男が一人、ジル達に気付いて駆け寄って来た。
「ギルドの方ですか」
ジルは仕事の顔に切り替えた。
「はい。依頼を受けて来ました。何があったんですか」
男は唇を震わせた。
「猟師が・・・森で、死体になって見つかって」
「いつですか」
「つい先程です。次に切る木を見に行った者が、森に入ってすぐの場所で」
ジルが藁を被せられた何かに目をやる。セイは既に、その藁を近くで座って見ている。
「分かりました。まず村長と話をさせて下さい」
男は頷き、周囲に道を空けるように言ってジルを案内した。
藁に近付くと、血の匂いが立ち上がっていた。新しい木材と釘の匂いを押し潰すような、
濃い鉄錆の臭いだった。
身なりの良い男の前に案内された。この男が村長らしい。
まだ若い。評判通り、村を回すだけの力はありそうだが、目の前の死には慣れていないようだ。
青い顔で口元を押さえている。吐き気を堪えているように見えた。
「依頼を受けて来ました。ジルです。こっちはセイ」
「村長のオルドと申します。まさか、こんなことに・・・依頼を出した時には、まだ声だけだったんです」
「分かっています。確認しても?」
村長は頷いた。
ジルは膝を着き、藁を少しだけ捲った。
近くで見ていた村人達が凍り付いた。悲鳴を上げる者、恐怖で叫ぶ者、猛烈な血臭に距離を取る者と様々だった。
ジルとセイは動じなかった。だが、死体のあまりの異様さにジルは唾を飲み込んだ。
「喉が無い」
セイが言う。まさしく食い千切られたという表現が合う。巨大な何かが喉笛ごと、首の骨まで砕いて抉り取っている。
首は僅かな肉と皮で、辛うじて繋がっているだけだった。
胸から腹にかけても酷い。布は裂け、肋の下が開き、大腸を除きほぼ全ての内臓が消失していた。
腕や脚にも噛み痕があるが、致命傷はどう見ても喉と腹だ。
ジルは表情を変えず、傷の縁を見る。歯形。裂け方。血の流れ。土。葉。運ばれる前に付いた汚れと、運ばれた後に付いた汚れを分ける。
「熊じゃ、ない」
「多分、ね」
狼にしては、一つ一つの傷が大きい。群れで食うならもっと損壊が激しい。腸も食われていておかしくない。
熊なら、食べ残しをその場に置かず、隠すか食糧として埋める事が多い。
だが、この死体は喉を壊され、腹を開かれ、内臓を選んで食われているように見える。
好みがハッキリしている個体。そう思わせられた。少なくとも、ただの肉食の獣の仕業では無いように見えた。
「森のどこで?」
「入ってすぐです。古い道の脇で」
「引き摺られた跡は」
「少なくとも無かったと聞いています。その場で襲われたのだろうと」
ジルは藁を戻した。セイも立ち上がる。
「普通の獣害とは、少し見え方が違います。ただ、断定はしません。まず情報が必要です」
村長の喉が上下した。
ジルは懐から紙を一枚取り出した。短く文をしたため、署名を入れる。
死人が出たこと。これから調査に入ること。それだけだった。憶測は書かない方が良い。
ジルは紙を折り畳み、村長へ渡した。
「これをギルドへ。村で一番足の速い馬を。途中で開けないように」
「内容は?」
「死人が出たことと、私達が調査に入ることだけです。不明瞭なことは書いていません」
村長は紙を握り、すぐ近くにいた若い男へ指示を出した。
その間、セイが森の方を向いた。ジルはその横顔を見る。
セイの眠たげな目が、少しだけ細くなっていた。
「濃い」
「どの辺り?」
「森の奥。でも、近い」
「こっちへ来ている?」
「ううん。動いて、ない」
それだけ言うと、セイは黙った。動きが無いならば、やる事は一つだ。
ジルは立ち上がった。セイもジルの横に並び、居住まいを正している。
「村長。聞き取りをします。この村で、森に関わる慣習はありますか。祭り、供物、禁じている事、
昔から守っている事。何でも構いません」
村長は戸惑った顔をした。
「慣習・・・ですか」
「森から故人の声が聞こえる。そこへ死人が出た。なら、森との間に何かあるかもしれません」
「申し訳ありません。私が知る限り、特別な祭りや供物はありません。普通の山村と同じです。
木を伐る前に祈る者はいますが、それも個人で・・・」
「最近、代替わりしたと聞きました。先代からは何か聞いていませんか? あるいは、先代が何かしていませんでしたか?」
村長は眉を寄せた。
「祖父ですか」
「はい」
「森を粗末にするな、とは言っていました。ですが、あの人は何でもそうでした。井戸も、道具も、家畜も、森も、
全部大事にしろと」
村長の声には、敬意と苛立ちが混じっていた。
「祖父は真面目な人でした。ただ、理由を言わない人でもありました。見て覚えろ、余計なことは聞くな、そういう人
です。だから・・・私達は、私達で村を良くしようとしました」
「分かりました。村の人達にも聞いてみます」
ジルがそう告げると、村長は不安そうな顔をしながらも、お願いしますと頭を下げた。
聞き取りは難航した。
森から声が聞こえる。それだけは多くの者が口にした。
死んだ母の声がした。先に逝った夫が呼んだ。昔の友の声が、木々の間から聞こえた。
だが慣習の話となると、誰も首を振る。
「供物なんて聞いたことがない」
「祭りなら収穫の時に少し騒ぐくらいだ」
「先代は口うるさかったが、理由は言わない人だった」
「森の奥に入るなとは言われた。危ないから当然だろう」
「昔からここは木で食ってる村だ。森と揉めていたら暮らせない」
声が聞こえ始めた時期についても曖昧だった。一月ほど前。二月ほど前。
もっと前から聞こえていた気もする。十日前から聞こえ始めたという者もいた。
ただ、少しだけ傾向があった。新しい家の者ほど、声を聞いている。
森側に建てられた、木材の匂いがまだ強い家。釘が新しく、壁板が乾き切っていない家。
そこに住む者達が、故人の声を多く聞いていた。
ただ、古い家の者にも聞いた者はいた。僅かではあるが。
新築の家だけなら無理矢理にでも理由を付けてしまっていた。だが、古い家も混じるとなると話が違う。
共通点が見つからない。村に根付いた慣習も無い、もしくは誰も知らない。
先代の村長が、全て抱えたまま亡くなったのだろうか。伝える事は伝えてくれと心の中でジルは毒付いた。
夕方前。二人は村の端に立っていた。セイはずっと森の方を見ている。
村の端、材木置場の近く。積まれた丸太の陰に、古い石組みがあった。最初は、ただの崩れた石に見えた。
腰ほどの高さもない。苔と土に覆われ、半分は材木の影に隠れている。だが、近付くと違った。
石は乱雑ではなく、明らかに人の手で積まれている。中心には腐りかけた木の杭が刺さっていた。
そこに、色の分からない布切れがいくつも巻かれている。風化して、灰色とも茶色ともつかない。
ジルはしゃがみ込んだ。セイも隣に来る。
「何?」
「分からない。でも、ただの石じゃないと思う」
「かなり、古い」
「これかもしれない」
近くで木材を運んでいた村人に、ジルは声を掛けた。
「これは何だか分かりますか?」
男は荷を下ろし、石組みを見た。
「ああそれかい。昔からあるよ。邪魔なんだが、先代が壊すなとしつこく言ってね」
「理由は?」
「さっぱりだよ」
「もしかして、他にも同じ物がありませんか?」
男は少し考えた。
「そういや、反対側にも似たようなのがあった気がするな。今は物置小屋が立ってるはず」
「案内して下さい」
村の反対側へ向かう途中、ジルは周囲を見た。古い家と新しい家。
最初は単に、建てられた時期の違いだと思っていた。だが、石組みを一つ見つけた後では、
村そのものの形が違って見える。
古い家は低く、煤け、屋根の傾きも少し歪んでいる。人が長く住み、修理し継ぎ足し、馴染ませた家だ。
新しい家は、森側に向かって広がっている。板は明るく、切り口はまだ生々しい。家々の間には切り株が残り、
枝を払ったばかりの丸太が転がっていた。
森の匂いが強い。人里なのに、深い森の中で生活しているようだった。
物置小屋は、古い家と新しい家の境に近い場所にあった。
中には壊れた農具、古い桶、使われなくなった戸板が押し込まれている。その奥に、もう一つの石組みがあった。
こちらはさらに奇妙だった。小屋を建てる時、動かさなかったらしい。
石組みを避けるように床が張られている。杭と布切れは屋根の下で暗く乾いていた。
ジルは、入口から外を見た。一つ目の石組みと二つ目の石組み。頭の中でそれらを結ぶ。
その線の内側に、古い家がある。線の外側、即ち森側に、新しい家がある。
綺麗に分かれた。嫌なほど、綺麗に。
物置の持ち主だという老人が、入口で腕を組んでいた。
「この石組みまでが、昔の村の端でしたか」
ジルが聞くと、老人は目を細めた。
「そうだな。先代がいた頃は、村はこの辺りまでだった」
「森側へ広げたのは」
「今の村長になってからだ。悪い事じゃない。木は売れるし、人も増えた。若い者が増えれば村は生きる」
「先代は、石組みについて何か言っていましたか」
「崩すな。壊すな。それだけだ」
「理由は」
「言わん人だった」
老人の言葉には、長年積もった諦めのような響きがあった。
「あの人も、猟師も、何でも黙ってやる。黙って守る。黙って怒る。だから若い者には伝わらん」
「猟師?」
ジルは顔を上げた。
「今日亡くなった方ですか」
「ああ。あいつも先代と似たようなものだった」
老人はそれ以上言わなかった。ジルは、村長の家へ戻った。
若い村長は、死体の処理と村人への説明に追われていた。顔には疲労が滲んでいる。
それでも、ジルが呼ぶとすぐ応じた。
「石組みを見つけました」
「石組み・・・ああ、祖父が壊すなと言っていたものですか」
「二つあります。あれを結ぶと、昔の村の端と一致します」
村長は目を伏せた。
「はい。昔はあそこまででした。私が村長になってから、森側を切り拓きました。木材の需要がありましたし、
外から人も来るようになっていましたから」
「責めている訳ではありません」
「分かっています」
「先代は、石組みについて他に何か言っていませんでしたか」
村長は長く黙った。
家の外では、村人達が低い声で話している。猟師の死体は既に運ばれた後だったが、血の匂いはまだ薄く残っていた。
「境目・・・。そう言っていた気がします」
「境目?」
「はい。ただ、それだけです。あれは境目だから崩すな。壊すな。そんな風に」
「何と何の境目かは」
「聞いていません。子供の頃は、ただの年寄りの小言だと思っていました」
ジルは息を吐いた。
石組みで区切られた境目。境目を超えて建てられた森側の家。
森側の家で声を聞く者が多い。状況が見えては来ている。だが、まだ足りない。
石組みが境目なら、村を広げた時点で何かが起きているはずだ。森側に家を建てた時点で、声が聞こえ始めても良い。
だが実際には、時期がずれている。
村の拡張はもっと前から進んでいた。声が広がったのは最近だ。
石組みだけではない。何かが、最後まで残っていた。それが壊れた。
ジルは村長の家を出た。セイは外で待っていた。やはり森の方を見ている。
「どう?」
「動いてない」
「見てる?」
「分からない」
セイは少しだけ眉を寄せた。
「でも、濃い」
「多分、隣人じゃ、無い」
「・・・分かった」
ジルは新しい家々を尋ねて回った。
何か最近変えた事はないか。村に来てから、古い習慣を止めたことはないか。
そう聞いて回る。最初の家では、男が首を振った。
「別に何も。家を建てて、暮らしているだけです」
次の家では、若い夫婦が顔を見合わせた。
「森に近いから、夜は戸を固く閉めるようにしたくらいで」
別の家では、老婆が言った。
「新しい者は、昔のことを知らんからねえ。でも、私も知らんよ。先代と猟師が黙って何かしていただけだ」
また猟師か。ジルは足を止めた。
死んだ猟師は、村を支え続けて来た一人だと言う。寡黙で、理由を言わない。先代と似ている。
確実に何かを続けていたはず。誰にも伝えず。
石組みの他に彼が続けていた事。それを突き止める必要がある。
何軒目かで、乳飲み子を抱えた女が出て来た。
まだ若い。目の下に疲れがあるが、目つきは真っ直ぐだった。腕の中の子供は眠っており、
小さな口を開けて息をしている。足元にはまだ立ち上がって間も無い程の幼児がまとわりついている。
セイがしゃがみ、軽く手を振る。幼児はよく分からない顔をしながら、手を振り返す。
少しだけ笑みを浮かべてから、ジルは聞き込みを始めた。
「最近変えた事?」
女は眉を寄せた。
「そりゃあ色々あるよ。ここは新しい家だからね。井戸までの道も、薪の置き場所も、自分達で使いやすいように
してるさ」
「村の古い物を動かしたり、捨てたりは」
女の顔が少し険しくなった。
「骨なら片付けたよ」
ジルの意識が、細い糸を掴んだ。
「骨?」
「そう、獣の骨。あの猟師が、村の端にずらっと並べてたんだよ。気持ち悪いったらないよ。
子供は怖がるし、犬は咥えてあちこちばらまくし、虫も湧く。誰に聞いても理由を言わないし知らない。
男どもは、昔からやってるだとか、猟師に任せとけとか、そればっかり」
女の声には怒りがあったが、ごく真っ当な怒りだった。
説明もされず、気味の悪い物を生活の近くに置かれ、子供が怖がり、それを我慢しろと言われ続けた者の怒りだ。
「だから、女どもで片付けたよ。端材と一緒に燃やして、燃え残りは全部埋めてやったさ。
悪い事したなんて思ってないよ」
「いつですか」
ジルの声は低くなった。女は少し怯んだ。
「・・・一月、いや二月は経ってないと思う」
「声が聞こえる前後ですか?」
「確か、そう・・・」
ジルは目を閉じた。時期が重なる。石組みだけでは無かった。
「確認させて下さい」
「何?」
「村を広げる前。石組みと石組みを繋ぐように、その骨は置かれていましたか」
「石組み?」
「村を広げる前の、村の端になっていた石組みです。目にした事は?」
女はすぐには答えなかった。
赤子を抱き直し、視線を横へ向ける。記憶を探っている顔だった。
「アタシはこの村に来てほんの数年だけど・・・。でも、そうだね・・・。確かに、よく分からない石の塊があったと思う。
骨も多分、あった、と思うよ」
「境目のように?」
「・・・そう見えなくも無かった。と思う」
女はそこで言葉を切った。
ジルは森を見、そして、村の方を見た。
境目を超えて建てられた家、広げられた、骨で出来た境目。
それが取り払われた。石組みだけでは無かったのだ。
先代村長が守れと言い、猟師が理由も言わず並べ続けていたもの。
正式な祭祀ではない。供物でもない。
だが、人と森の間に置かれ続けていた、互いの領域。それが片付けられた。
「縄張りが、消えた」
セイが言葉にした。女は、少し遅れてその言葉の意味に気付いた。
抱いた赤子を取り落としそうになるほどに狼狽している。
「うん」
ジルが答える。自分でも驚く程冷静な声だった。
「石組みだけじゃない。獲物の骨も、村の境目だったんだ」
ジルは、森と村の間に、もう存在しない線を見た。
その境目を、村は知らないまま踏み越えた。
知らないまま隠した。知らないまま燃やした。そして埋めた。
そして森は、村の中へ声を届かせ始めた。




