第2話 靴を隠す井戸端
枕が裏返される家の次は、靴が隠される奇妙な村の話。
この世にはよく分からない事をする存在が多くいる。
ジルは、依頼書を読みながら考える。此度の事件が善意か否か。・・・どちらにせよ、放って置けない話なのは確かだ。
セイとジルの契約奇譚、第2話 靴を隠す井戸端。
始まります。
セイが起きた時、ジルはもう身支度を終えていた。
宿の下からは、椀の触れ合う音と、人の声が聞こえている。焼いた豆の匂いと、煮た肉の匂いが階段を上ってきた。
セイはその匂いで起きた。
「ジル」
「起きた?」
「ご飯」
「おはようより先にそれかい」
「おはよう」
「はい、おはよう」
ジルは卓の上に置いていた依頼書を持ち上げた。
昨日、リネスから渡された物だ。
緊急ではない。だが、放置すれば面倒になる類の
内容だった。
表には、太い字でこう書かれていた。
井戸端の靴隠し。
ジルが読み上げると、セイは寝台の上で首を傾げた。
「リネスが、言ってた?」
「そうそう。引き受ける事にしたよ」
「靴が、隠れる?」
「隠される、かな」
ジルは依頼書へ目を落とした。
「村で、夜の間に靴が消える。家の戸口や土間に置いておいた靴が、朝になるとなくなっているそうです。探すと、片方は井戸端の石の影や草むらから戻ってくる。けれど、両足とも消えた場合、もう片方は見付からない事がある」
「戻らない」
「そう。今の所怪我人はない。ただ、靴を探しに
来た老人が一人、転びかけた。井戸端だから危ない」
セイは寝台の端に座り、足をぶらぶらさせた。
「井戸に、落ちる」
「最悪はね」
ジルは続ける。
「村人達は、村や地域に伝わる呪い避けをいくつか試した。生木を燃やす。馬糞を井戸周りに並べる。家に人形を置く。その他、効果なし」
「何で?」
「村に伝わる呪い避け、らしい」
「効く?」
「効く相手には効くかも知れない」
「小妖精?」
「かも知れない。そうじゃないかも知れない」
ジルは依頼書を畳んだ。
「ただ、井戸端に靴を置かれている時点で危ない。足元の問題は、放っておくと大きくなる」
「裸足、痛い」
「そう言う事」
「ご飯は?」
「先に食べるよ。腹が減ったセイを連れて行く方が危ない」
「うん」
セイは素直に頷いた。
そこはとても素直だった。
村は、ギルドのある街から半日程歩いた先にあった。森と畑の境目に寄り添うような、小さな村である。
道は細く、馬車が一台通るには十分だが、擦れ違うには畑の畔へ片輪を落とす必要がある。春先の土はまだ柔らかく、足裏にじっとりと纏わり付いた。
セイは歩きながら、時々鼻をひくつかせた。
「馬」
「近くに厩があるんだろうね」
「違う。馬糞」
「依頼書通りなら、井戸の周りに並べたんだろう。ここまで臭うとは相当だ」
「くさい…」
「呪い避けの意味としては、それだろうね。臭がって逃げてくれるかも?」
セイは納得していない顔をした。
「怒る?」
「そこが怖い所」
ジルはぬかるみを避けながら言った。
「何かをされた事は、相手にも分かる。ただ、それを喜ぶか、けなされたと思うか、攻撃されたと思うかは、こちらでは決められない」
「靴、捨てる?」
「あり得るね。井戸に落とされるよりはましだけど、生活はかなり困る」
セイは少し嫌そうに眉を寄せた。
「靴、なくなるの、困る」
「そう。だから、軽く考えて良い依頼じゃない」
とは言え、当事者にとって軽い依頼など見た事も無いが。
村の入り口には、木の板が立っていた。
名は彫られていたが、古くて読み辛い。手入れはされている。だが、入口に置かれた境界と思しき石の数や配置、近くの木に巻かれた布の色を見ると、村独自の習わしがいくつも折り重なっているのが分かった。
ジルはそれらに触れなかった。
村人達は、直ぐに二人へ気付いた。
畑にいた男が鍬を止める。
家の前で豆を選っていた女が顔を上げる。
数人の子供が、二人を見てから、慌てて村の奥に行った。
程なくして、子供達に連れられて村長らしき男が現れた。髪は白く、腰は少し曲がっている。だが目はしっかりしていた。粗末な上着の前を合わせ、二人を見比べる。
「ギルドの方ですかな」
ジルは一歩前へ出た。
「はい。依頼を受けて参りました。ジルです。こちらはセイ」
依頼書を見せる。
「セイ」
セイは短く名乗った。
村長は、まず二人の顔と、それから順に全身を見た。 二人が若すぎる事に不満を顔にする人間は時々いる。が、村長はそうではなかった。
手入れの行き届いた髪に服装、そして持ち歩いている道具類を見、満足そうに頷いた。
そして、表情を改めた。
「遠い所を、良くお越しくださいました。」
「まず、現場を見せて下さい。その後、被害に遭った方から話を聞きます」
「分かりました」
村長は歩き出した。
セイとジルは、その後ろをついていく。
井戸は村の中央にあった。
丸く積まれた石の井戸。脇には水桶が置かれ、近くに洗い場がある。洗い場の石は踏まれて平らになり、苔が所々黒ずんでいた。雨上がりなら滑るだろう。
井戸の周囲には、かすかに焦げた匂いが残っていた。生木を燃やした跡だ。
少し離れた草むらには、乾いた馬糞を避けた跡がある。そして今も、新鮮な馬糞がいくつかの塊となって、井戸を囲んでいた。
更に、井戸端の石の根元には、布と藁で作った小さな人形が三つ程置かれていた。
ジルは一つ一つを見たが、触れなかった。
「これは、いつ頃から?」
「靴が隠されるようになってすぐです。恐らく2週間程前には」
「効果は?」
「ありませんでした・・・」
「なるほど」
村長は渋い顔をした。
「はい。片付けた方がよろしいのでしょうか」
「今はそのままで。私達が確認します。ですが、今後はこちらが言うまで新しい事はしないで下さい」
「新しい事、とは」
「呪い避け、まじない、供え物、怒鳴りつける、石を投げる、井戸に物を落とす等。全部です」
村長は目を瞬かせた。
「それ程、いけない事でしたか」
「運が良かったんです」
ジルは井戸の縁を見た。
水の匂い。
苔の湿り。
靴底で削られた石の細かな傷。
「もし相手が、何者であったとしても、何かをされた事だけは分かる。ただし、それを喜んで受け取るか、けなされた、あるいは攻撃を受けたと判断するかは、その何者かです」
村長の喉が鳴った。
「喜んで受け取られた場合は?」
「例えば、贈り物だと受け取られた場合は、恐らく置いた物と似たような物を靴に返されていたでしょうね」
ジルは少し間を置く。
「場合によっては、馬糞まみれです」
村長の顔が引きつった。
セイが小さく呟く。
「やだ・・・」
「攻撃だと受け取られた場合は、もっと悪い。隠されるだけでなく、靴を捨てられるかも知れません」
「捨てる・・・?」
「井戸に落とす。屋根の上に置く。森に運ぶ。犬に噛ませる。やり方はいくらでもあります」
村長は、井戸の縁を見た。
長年、村の暮らしを支えてきた場所だ。
その井戸端が、急に厄介な物を抱えた場所に見えたのだろう。
「知らなかったのです」
「だから、ギルドに依頼したのは正しい判断です。ここから先は、こちらの指示に従って下さい」
「はい」
ジルは頷き、セイを見た。
「何か感じる?」
セイは井戸の周りをゆっくり見回した。
子供のような仕草で、しかし獣のように、空気の端を嗅ぐ。
「感じる・・・。けど、薄い」
「薄い?」
「あちこち薄い」
「あちこち?」
「村中、動いてる」
小妖精の可能性が出てきた。
少なくとも、今近くにはいないようだ。
井戸端だけを見ていても、追えない。
「少し村の中を見て回ってもよろしいですか?」
村長は頷くと、付いて来ていた子供達に、ギルドの二人が村を見て回る事を皆に伝えるよう言いつけた。
子供達は、ぱっと走り出す。
セイが嬉しそうにその様子を眺めていた。
「走るの、速い」
「子供達に、問題は無さそうだ」
「うん」
村の中は、思ったより平和その物だった。
靴が隠されると聞いていたので、裸足で過ごしている人間が大半かとも思ったが、そうでもない。
むしろ、良い靴を履いている村人をそれなりに見かける。しかし、目を凝らすと妙な所もあった。
おろし立ての靴。
大事に履いているのであろう靴。
それらに混じって、左右で別々の靴を履いている村人がいる。
片方は古く、片方は妙に立派。
片方は色が違い、片方は大きさが少し合っていない。
靴が消えた村、というより、靴をどうにか間に合わせている村だった。
「少しよろしいですか」
ジルは、農夫の一人に声をかけた。
「お、あんたらが子供達の言ってたよそ者か」
よそ者。ジルは苦笑した。
伝言係の解釈で伝わったのだろう。
軽く咳払いをし、改めて問う。
「井戸端に靴を隠されましたか?」
「ああ、もう困ったもんさ。普段使っていた靴が両方とも無くなっちまった。片方は井戸端でもう片方は行方不明。仕方なく、街行き用の上等な靴を使ってるよ」
農夫は片足を上げて見せた。
土でドロドロになっているが、良く見ると革は紫色に染められている。
なるほど、上等な革靴だ。
畑仕事に使うには、かなり惜しい。
「何か感じる?」
セイは首を振った。
空振りか。
ジルは農夫に礼を言い、更に村を歩いた。
次に訪れたのは、家畜小屋だった。
小屋の中では、誰かが掃除をしているらしい。近くの放牧場では、牛と羊が各々勝手に草を食んでいた。
「失礼、少しお話をよろしいでしょうか」
「ちょっと待ってな」
女性の声がした。
暫くして、小屋の中から、日に焼けた見るからに健康的な女性が出てきた。同性の中では比較的背が高いはずのジルよりも大きい。
セイが見上げる。
「大きい」
「なんだい、ギルドってのはうちの子供よりちっちゃな子を使ってるのかい?」
女はそこで、二人の服装と動きを見た。
「・・・いや、身なりも動きも大したもんだね。悪い悪い」
「分かるものですか?」
「旦那が傭兵やってたからね。少しは荒くれどもを見慣れてるのさ。で、何が聞きたい?」
「最近、靴を隠されたりしましたか?」
「うちじゃそう言うのは無いね。家族全員、靴は大事にしてるしね」
そう言って、女は足を伸ばして靴を見せてきた。
使い古してはいるが、手入れのされた木靴だ。
「井戸端の靴を見たかい?」
「あいにく、皆さん持ち帰っていたようで」
「ありゃ酷いもんさ。どれもこれもくたびれてる。あんなんじゃすぐ体が傷んじまう。隠されてた方がましってもんさ」
ジルは目を細めた。
「傷んでいた? 隠された靴全部ですか?」
「全部かまでは分からないよ。でも、見ただけで大事にされてないってのは分かった。井戸の誰かさんが、何か伝えようとしてるとしか思えないよ」
「その事を誰かに話したりは?」
「ないない。井戸周りの馬糞を見たろ? 内々で妙な事を言った日には何されるか分かったもんじゃない。だからアンタらに期待してるよ」
女はそう言って、ジルの背中をばんばん叩いた。
ジルはむせながら礼を言い、その場を離れた。
セイは変わらず、何も感じないと言う。
もう少し調べる必要がありそうだった。
村の外周へ出る。
獣避けの柵を直している男がいた。
「失礼、少しよろしいですか?」
「ああ、構わないよ。ギルドから来た二人組っていうのは君達か」
がっしりとした体つきの男だった。
脇に置かれた工具箱を見るに、村の建築や補修を担当しているのだろう。
丈夫そうな上着に、草まけしなさそうな長ズボン。
しかし、履いている靴が左右で違った。
左が赤で、右が黒。道化師みたいだなとジルは思い、すぐに考えを取り払った。
「おじさん、大道芸の人みたい」
「こら」
男は一瞬渋い顔をしたが、直ぐに苦笑交じりの笑い顔になった。自覚はあるらしい。
「片方は見付かったんだけどね、もう片方が見付からない。仕方ないから古いのを引っ張り出してきたんだ。おかげで足ががたがたさ」
ジルは靴を見る。
どちらも十分くたびれているように見える。
先程の女の話を思い出して、聞いてみた。
「隠されていた方はどちらですか?」
男は赤い靴を脱ぎ、汚れを落としてからジルに見せた。確かにくたびれている。だが、まだ履けなくはない、と言いたくなる程度ではあった。
裏に、何かが貼り付いている。汚れにも見えるが、気になって裏返す。
「藁・・・?」
藁が文字通り貼ってある。やや不器用ながらも交互に。そして、何重にも折り重なっている。
「これは貴方が?」
「いや、井戸端で見付けた時にはもう付いてた。剥がそうにも、木のヤニか何かでしっかり貼り付いてる。履くには支障は無いけど気になって仕方がないよ」
セイが隣から靴を眺める。
何か分かったのだろうか。
声をかけようとした瞬間、セイが動いた。
「こっち」
ジルは男に頭を下げ、慌ててセイについていく。
着いた先は、井戸端から少し離れた古い道具小屋だった。屋根の片側が傾き、壁板が外れかけている。今は使われていないらしい。
「中に、いそう?」
「多分?」
多分か。
だが、セイの勘はまず外れない。
「勝手に入らない。ここで待っていて」
「うん」
ジルは一度、村長を呼びに戻った。
村長の家へ向かう道すがら、村人達の靴が自然と目に入る。
互い違いの靴。
上等な靴。
頑丈そうな靴。
先程の、靴底に貼られた何重もの藁。
家畜小屋の女が言っていた、隠された靴はどれもくたびれていた、という言葉が残っている。
・・・善意の可能性が高い。
それも、人間にとっては有難くも迷惑な、隣人らしい善意だ。
村長を連れて戻ると、セイは小屋の前で大人しく待っていた。
廃屋の扉は歪んでいた。
押すと、乾いた音を立てて開く。
中には、割れた桶、柄の折れた鍬、古い縄、虫食いの板が積まれていた。床は土間で、隅に藁くずが溜まっている。
ジルはしゃがみ込み、地面を見た。
人の足跡。
何度も探しに来たのだろう。村人達の足跡が重なっている。その間に、小さな筋があった。
藁を引きずったような跡。
「セイ?」
「ここ」
セイは奥の板の前に立っていた。
板は壁に立てかけてある。ごく普通の廃材に見える。だが、セイはそれをじっと見ていた。
「動かす?」
「待って」
ジルは周囲を見た。
何かの巣か。
贈り物か。
罠か。
分からない物に直接触れるのは危ない。
ジルは腰の袋から細い木の棒を取り出した。
拾った枝ではない。自分達が持ってきた物だ。
それで板の端を軽く押す。
板がずれた。
奥に、何かの気配があった。
目を瞑り、暫くしてから目を開ける。
そして、気配に焦点を合わせた。
小さな影が、次第に輪郭を帯びてくる。
それは、隠されていた靴をいじくり回している。
片方だけの靴。
革の表面に土がこびり付き、底の端が少し剥がれている。村人が普段使いする、簡素な靴だった。
藁が揺れている。
いや、藁ではない。
手足は大きく、水かきのようになっている。
胴は細く、藁束をぎゅっと縛ったような形をしている。顔は、自作の麦わら帽子を無理やり被ったようだった。木の実に藁を貼り付けて、すっぽり覆った仮面にも見える。
愛嬌はある。
だが、不気味でもある。
それは、こちらに気付くと一瞬動きを止めたが、やがて手足をぱたぱたと広げて動いた。
喋る隣人では無さそうだ。
セイがしゃがむ。
「何してるの?」
ぱたぱた。
「靴?」
ぱたぱた。
「井戸?」
ぱたぱた。
「藁?」
ぱたぱた。
「小屋?」
ぱたぱたぱた。
「当たった?」
ぱたぱたぱたぱた。
セイは困った顔で振り返った。
「分からない」
ジルは額に指を当てた。
「今ので分からないなら、私にはもっと分からないよ」
「でも、怒ってない」
「それは大事」
ジルは村長に向き直る。
「靴を隠した存在がここにいます。多分、小妖精です。見えなくても、声をかける時は、名前をつけないで下さい」
「名前を?」
「井戸の子、靴の子、藁の子。そう言う呼び方は避けて下さい。名付けと受け取られる場合があります。呼ぶなら、そこの、君、隣人。その程度で」
村長は慌てて頷いた。
「隣人・・・」
「ジル、それ好き」
「小妖精って毎回言うの、少し長い」
セイは小さく笑った。
小妖精は、ぱたぱたしている。
その横に、井戸端で見つからなかったであろう大量の、片方だけの靴があった。
ジルは、それらを一つ一つ見た。
底が傷んでいる。
縫い目も緩い。
濡れた石の上で使えば、滑るかも知れない。底が剥がれれば、転ぶ。井戸端で転べば、頭を打つかも知れない。
家畜小屋の女の言葉が、改めて頭に浮かぶ。
隠された靴は、どれもくたびれていた。
井戸の誰かさんが、何か伝えようとしている。
「この靴、持ち主は分かりますか」
村長は身を屈め、ジルの差し出す靴を見た。
「これは・・・確か今日は柵の修理をしている男のですな。確かに、井戸端で片方だけ見付かったと言っていました」
「他に靴を隠された方も、古い靴でしたか」
村長は考え込む。
「言われてみれば、普段履き潰している靴ばかりだったように思います」
ジルは頷いた。
輪郭が見えてきた。
井戸端の隣人は、靴を盗んでいるのではない。
靴が危ないと、知らせている。
但し、やり方が悪い。
非常に悪い。
夜の間に靴を隠せば、人間は朝に慌てる。裸足のまま探しに出る者もいるかも知れない。井戸端で足を滑らせる者もいるかも知れない。危険を知らせる行為その物が、別の危険になる。
善意の形をした、酷く危ない親切だった。
「ジル」
しばらく小妖精と問答をしていたセイも、同じ結論に達したようだ。壊れかけの靴を一つ、手に取りながら声をかけてきた。
「うん」
「怒る?」
「怒らない。けど、止める」
セイは頷いた。
「うん」
小妖精の認識は非常に曖昧だ。
善意であっても、そうでなくても、人間の生活を変えてしまう。だから、放っておくわけにはいかなかった。
村長に話をし、村中に、もう片方の靴が見付かった事と、対になる靴を持って井戸端に集まるよう頼んだ。
井戸の周囲には、見物人が増えていた。
ジルは近付きすぎないように指示し、セイは井戸の縁に腰掛けようとした子供を無言で持ち上げて、少し離れた場所へ置いた。
「井戸、危ない」
セイが言うと、子供はこくこく頷き、大人の後ろに隠れた。ジルはそれを横目で見ながら、井戸端に置かれた人形を確認していた。
人形は三つ。
藁と布で作られている。
三つとも作りが違うし、置き方にも意味を感じない。村の誰かが、昔聞いたまじないを慌てて真似たのだろう。
小妖精は、人形に近付かない。
嫌がっているのか、興味がないのか、分からない。
「セイ。あれ、どう見える?」
「人形?」
「うん」
「見てない」
「隣人が?」
「うん。見ない」
「嫌なのかな」
「分からない。でも、見ない」
ジルは頷いた。
触れたくない物なのかも知れない。
あるいは、見てはいけない物として認識しているのかも知れない。どちらにせよ、片付けるなら慎重に行うべきだ。
やがて、片方の靴を持った村人達がやって来た。
古い革靴。
草鞋。
木の底を張った靴。
子供用の小さな履物。
水汲みに使う物、畑へ出る物、家の周りだけで履く物。
ジルは一つずつ見た。
セイは隣で、小妖精の反応を見ていた。
小妖精は、危ない靴が出るとぱたぱたした。
特に、底が剥がれかけた物、踵が薄い物、紐が切れかけた物に反応する。逆に、新しい靴や、しっかり補修された靴にはあまり反応しない。
「なるほどね」
ジルは、五足目の靴を置いた。
「これはほとんど答えだ」
村長が身を乗り出した。
「分かりましたか」
「靴の傷みです。隠された靴は、全部どこかが危ない。井戸端で滑る、脱げる、底が剥がれる、紐が切れる」
村人達がざわめいた。
ぱたぱた。
「片方だけ」
ぱたぱた。
「履いてく」
ぱたぱた。
「・・・両方、だと?」
ぱたぱたぱた。
「履き替える・・・!」
ぱたぱたぱたぱた!
「当たった」
「だ、そうです。隣人の主張によると」
片方だけ隠しても、村人は探して履き直す。だから、両方とも隠し、もう片方を滅多に人が訪れない廃屋に隠したのだ。そしてそこで、修理をしていたつもりらしい。
「靴を、直せと」
「はい」
「そんな事を、わざわざ・・・」
女が呟いた。
ジルは首を横に振る。
「わざわざ、ではありません。この隣人にとって、井戸端で転ぶ人間を見るのは嫌だったのかも知れない」
セイが小妖精を見る。
「嫌?」
小妖精は、ぱたぱたした。
「たぶん、嫌」
ジルは続けた。
「ただし、人間は靴を奪われると危ない。ですから、靴を隠すのはやめて貰います」
村人達が一斉に、見えない何かを探すように井戸端を見た。
セイは小妖精の前にしゃがんだ。
「靴、隠さない」
ぱた。
「隠す、だめ」
ぱたぱた。
「人、転ぶ」
小妖精は動きを止めた。
セイは自分の足を持ち上げ、靴を脱ぎかけてみせた。
「裸足、石、痛い。井戸、落ちる。だめ」
小妖精は、ぱた・・・と小さく手を動かした。
ジルは、その仕草を見て少しだけ目を細めた。
伝わっている。
完全ではない。
だが、何かは伝わっている。
「代わりに」
ジルは藁を一本取ろうとして、手を止めた。
現地の物だ。勝手には使わない。
「村長。藁を少し借ります。これは依頼の解決に使う物で、報酬や供え物ではありません。よろしいですか」
「はい。もちろんです」
「セイ、聞いていて」
「聞く」
ジルは村長から藁を数本受け取り、それを古い靴の上に置いた。
「靴が危ない時は、隠さない。代わりに、こうして藁を貼る。見える場所に。踵、底、紐。危ない所に少しだけ」
小妖精は、じっと見ている。
ジルは続けた。
「貼られた人間は、靴を直す。直したら、井戸へ向かって礼を言う。ただし、物は渡さない。食べ物も、布も、藁束も、靴も渡さない」
村人達が顔を見合わせた。
ジルは、少し強めに言った。
「物を渡すと、約束に近付きます。次はもっと欲しがるかも知れない。あるいは、物を貰う為に、靴を壊すかも知れない。だから渡さない」
「では、何も返さないのですか」
「靴を直した後、ありがとうと言うだけです。それが一番安い。続いても村が困らない形にして下さい」
セイが小妖精に向かって言う。
「ありがとう、だけ」
ぱた。
「物、無し」
ぱた。
「靴、隠さない」
ぱたぱた。
「藁、貼る」
小妖精は、急に激しくぱたぱたした。
セイが目を瞬かせる。
「嬉しい?」
ぱたぱたぱた。
「多分、嬉しい」
ジルは、ほっとした。
小妖精の善意を潰さずに済む。それは、今回の依頼で一番大事な事かもしれなかった。
人間にとって危ないからといって、ただ追い払うだけなら簡単だ。だが、それを繰り返すと、人間は隣人との付き合い方を忘れる。
忘れた頃に、もっとひどい形で思い出す。ジルはそう言う話を、ギルドの報告書で何度も読んでいた。
靴を隠す小妖精なら、まだ話が出来る。
喋らなくても、どうにかなる。
ここでどうにかしなければならない。
「ただし」
ジルは村人達を見る。
「藁が貼られた靴を、笑わないで下さい。馬鹿にしない。蹴らない。燃やさない。井戸に投げ込まない」
村人の一人が、気まずそうに目を逸らした。
ジルはそれを見逃さなかった。
「何かしましたか」
男は慌てて首を振る。
「いや、その、最初に藁がついて戻ってきた時、気味が悪くて、燃やそうかと」
「燃やした?」
「燃やしてはいません。女房に止められました」
ジルは息を吐いた。
「止めた方は正しいです」
女達の何人かが、少し胸を張った。
セイが小妖精を見る。
「燃やす、ダメ」
小妖精は、ぱたぱたした。
「ダメ、だって」
「それは何となく分かる」
ジルは古い靴を並べ直した。
「これから、危ない靴を仕分けます。今日から井戸端に来る人は、靴を確認してから来て下さい。修理が必要な物は、村の中で出来る限り直す。無理なら、街の靴修理へ出す」
村長が頷く。
「費用は村全員で持ちましょう」
「そうして下さい。井戸は全員が使う場所です。誰か一人の靴の問題ではありません」
その言葉に、村人達は押し黙った。
貧しい村では、靴一足も簡単には替えられない。
履ける物を履けるだけ使う。それは当然だった。
だが、当然の節約が井戸端の事故につながるなら、村全体の問題になる。
小妖精は、それを見ていた。人間より先に。
あるいは、人間より正直に。
ジルは、危ない靴の山を見つめた。
「靴は生活です。壊れたまま履けば、怪我をする。怪我をすれば働けない。働けなければ食べられない。小さな傷み程、早く直した方が安く済みます」
村長は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
セイがジルを見た。
「ジル、靴好き?」
「好きというより、壊れると困る」
「怪我、嫌い」
「嫌いだよ。物凄く嫌い」
セイは満足そうに頷いた。
「私も、嫌い」
ジルは少し笑った。
その日の午後、井戸端は簡単な靴直しの場になった。
村の中に専門の靴職人はいない。
だが、革を縫う者はいた。草鞋を編む者もいた。荷紐を作れる者もいる。
ジルは、修理の仕方を示した。
紐の替え方。底の剥がれを一時的に押さえる方法。
井戸端で履く靴と、畑で履く靴を分けた方がいい場合。
全部を完璧には出来ない。
だが、今日明日で転ぶ危険は減らせる。
セイは、修理された靴を小妖精に見せていた。
「これは?」
ぱた。
「いい?」
ぱたぱた。
「これは?」
ぱた。
「だめ?」
ぱたぱたぱた。
「ジル、だめ」
「どこ?」
「ここ」
セイは靴の踵を指差す。
ジルが見ると、確かに縫い目が甘かった。
「よく見ているな」
村の男が感心したように言った。
セイは首を振った。
「私は見てない。そこのが、見てる」
男は、何もない空間を見て、ぎこちなく頭を下げた。
「そ、そうか。ありがとうな、そこの」
小妖精は動きを止めた。
それから、ぱたぱたした。
セイが少し笑う。
「喜んでる」
男はほっとしたように笑った。
ジルはそれを見て、胸の中で一つ線を引いた。
これでいい。
名前ではない。
物でもない。
礼だけ。
人間が隣人へ向ける、軽くて、しかし確かな挨拶。
それだけなら、約束の形にはなりにくい。
もちろん、絶対ではない。
この世界に絶対などない。
だからこそ、形を整える。
一番安く、続いても困らないやり方にする。
踏み越えない線を、村全体で覚える。
午後の終わり頃、最初に靴をなくした女の靴が直った。
底を縫い直し、紐を替え、踵に当て革をした。新品ではない。だが、朝よりずっと安全になっている。
女は靴を履き、井戸端をゆっくり歩いた。
滑らない。
脱げない。
足元が安定している。
女は井戸へ向き直った。
周囲の村人達も、息を詰めて見ている。
女は少し迷い、それから頭を下げた。
「ありがとう」
小妖精は、井戸の縁に立っていた。
セイにははっきり見えている。
焦点をあわせずとも、ジルにも分かった。
藁の顔が、少しだけ上を向く。
小さな手が、ぱたぱたと動いた。
「・・・嬉しい」
セイが呟いた。
村人達の間に、静かな安堵が広がった。
その時、子供が一人、手に持った人形を小妖精の方へ差し出そうとした。
ジルは即座に声を飛ばした。
「渡さない」
子供はびくっと止まった。
セイも同時に動いていた。
差し出された人形を、そっと子供の胸へ戻す。
「これは、君の」
「でも、ありがとうって」
「言うだけ」
セイは子供の目を見た。
「あげない。貰わない。言うだけ」
子供は少し唇を尖らせたが、頷いた。
「ありがとう」
小妖精がぱたぱたする。
セイも小さく頷いた。
「それでいい」
ジルは胸を撫で下ろした。
危ない所だった。
子供の善意は、時に大人の悪意より厄介な約束を結ぶ。だからこそ、大人が線を引かなければならない。
村長もそれを見ていた。
顔から血の気が引いている。
ジルは言った。
「今のような事を、村全体で止めて下さい」
「はい」
「特に子供です。ありがとうと言った後、何かを渡したくなる。歌いたくなる。毎日来たくなる。そう言う形が、何時の間にか約束になる事があります」
「約束・・・」
「約束したつもりがなくても、です」
村長は恐る恐る尋ねた。
「約束してしまうと、どんな事が・・・?」
「断定は出来ません。ただ、約束が果たされなかった時、貴方方は何を思いますか?」
村長は答えられなかった。
ジルは、井戸の縁にいる小さな隣人の気配を見た。
「隣人は、それを、やります」
村長は絶句した。
しばらくして、深く頷いた。
「必ず伝えます」
「お願いします」
ジルは、まだ井戸端に残っていた人形を見た。
「それと、この人形を片付けます」
村人達が緊張した。
ジルはあらかじめ用意していた布を広げた。
自分達の布だ。
人形へ直接触れず、棒でそっと布の上へ転がす。
一つ。
二つ。
三つ。
小妖精は見ない。
やはり、見ようとしない。
ジルは布を包んだ。
「これは燃やさず、井戸から離れた場所に埋めます。呪いとしてではなく、片付けとしてです。村長、立ち会って下さい」
「分かりました」
「馬糞も同じです。供え物ではなく、片付ける。生木の燃え残りも。井戸端を元の場所に戻します」
村長は、何度も頷いた。
人間が勝手に混ぜ込んだ意味を、一つずつほどいていく。それは剣を振るうより、ずっと地味な仕事だった。だが、ジルはこういう仕事を軽く見ない。
小妖精のいる場所に、人間が勝手な意味を置く。
それは、縄を知らない相手の首へ、知らない内に縄を掛けるような物だ。
相手が暴れた時、怪我をするのは両方である。
夕暮れ前、井戸端はようやく落ち着いた。
馬糞は片付けられ、人形は埋められ、生木の燃え残りも取り除かれた。危ない靴には藁が少し貼られた。
だが、それはもう、隠された靴ではない。
直す為の印だった。
小妖精は井戸の縁に座り、ぱたぱたと足を揺らしている。セイがその前にしゃがんだ。
「もう、隠さない」
ぱた。
「藁、貼る」
ぱたぱた。
「人、直す」
ぱたぱたぱた。
「ありがとう、言う」
ぱたぱたぱたぱた。
セイは満足げに頷いた。
「分かった」
ジルは隣に立った。
「本当に分かった?」
「多分」
「多分か」
「でも、怒ってない」
「なら、今日は上出来かな」
小妖精は、ジルの靴を見た。
そして、セイの靴を見た。
小妖精はすっと近付き、藁を一本持ち上げた。
セイの靴へ貼ろうとする。セイは目を丸くした。
「私?」
ぱた。
ジルは口元を押さえた。
「ほら、言われてる」
「でも、まだ履ける」
「その言葉を、今日何回聞いたと思ってるの」
村人達の何人かが笑った。
セイは少しむっとしたが、小妖精が藁を貼ろうとしているので動けない。
「ジル」
「何?」
「直して」
「一緒に、ね」
「うん」
小妖精は、セイの靴の傷んだ所へ藁をちょこんと貼った。それから、ぱたぱたした。
セイは足元を見て、少しだけ困った顔をした。
「ありがとう」
小妖精は、今までで一番大きくぱたぱたした。
ジルは笑う。
「礼を言うだけ。物は渡さない」
「うん」
「後で直す」
「うん」
「嫌がらない」
「・・・うん」
「今の間は何」
「ご飯、先」
「そこは譲らないんだ」
夕暮れの井戸端に、村人達の笑い声が小さく広がった。
笑っていい場面になった。
それだけで、この依頼はかなり上手く行ったのだと、ジルは思った。
その夜、二人は村長の家で食事を貰った。
依頼中、現地の物を受け取る事は避ける。
だが今回は、相手が井戸端の隣人である事、見ているのが傷んだ靴である事、食事や家の中の物に触れていない事が分かっている。
村長の家で出された豆の煮込みと焼いた芋は、少なくとも今回の騒動とは関係がなかった。もちろん、念の為、ジルは受け取る前に確認した。
「これは、依頼の報酬や、隣人への礼ではありませんね」
「はい。ただの夕食です。お二人が働いて下さったので」
「では、頂きます」
セイは待ってましたと言わんばかりに椀を受け取った。
「美味しい」
「まだ食べてないだろ」
「匂いで分かる」
実際、食べてもおいしかった。
素朴で、熱くて、塩気が少し強い。働いた後の体には丁度よかった。
セイは良く食べた。
村長の妻が笑いながら芋を追加し、ジルが少し止めようとし、セイが真剣な顔で首を横に振った。
「依頼、こなした」
「それを言い訳にしない」
「お腹、空いた」
「それは知ってる」
結局、セイは人の三倍程食べた。
村長の妻はむしろ嬉しそうだった。
その後、二人は村の空き小屋を借りて眠る事にした。セイはランプの明かりの下で、ジルに教えて貰いながら靴を直した。
底の傷んだ所を削り、補修用の革を当てる。
やや危なっかしいが、少しずつ形になる靴。
「セイ、上手」
「これ、難しい」
「これくらい出来ないと、旅で困るからね」
「隣人も、見てた」
「井戸の?」
「うん。靴、見てた」
「よほど気になっていたんだろうね」
針を通すセイを見ながら言う。
「多分、あの井戸端で、転びかけた人を何度も見ていたんだと思う」
「助けたかった?」
「そうだと思う。でも、小妖精の助け方は、人間には危ない事がある」
「枕も?」
セイの言葉に、ジルは少し考えた。
前の依頼。枕を裏返す家。
あれも、善意と約束と、人間の暮らしが絡んでいた。
「そうだね。枕も、靴も、人間にとっては毎日の物だ」
「毎日の物、危ない?」
「毎日の物ほど、約束になりやすい」
セイは少し考えた。
「ご飯も?」
「そう」
「寝るのも?」
「そう」
「靴を履くのも?」
「そう」
セイが糸を締めた。
「だから、私達は気をつける。毎日の事は、軽い顔をしているけど、根が深い」
セイは、少し眠そうな顔で天井を見た。
「根っこ」
「うん。見えない所で絡まる」
「ジルは、絡まったの、ほどく」
「ほどければね」
「私は?」
「セイは、絡まっている場所を見付ける」
セイはジルを見た。
「見付けるだけ?」
「それが一番大事な事もある」
糸を切る。完成だ。
セイは靴を持ち上げた。
「出来た」
「よく出来ました」
セイは何度も靴を持ち上げては、修理した部分を眺めている。
藁はもうついていない。
代わりに、しっかり革が当てられている。
「ありがとう、ジル」
「セイが頑張ったからだよ」
セイは靴を胸に抱えた。
「でも、お礼したい」
「私には食べ物を分けてくれてもいいよ」
「え」
「冗談・・・」
遅かった。
つい口が滑った。
セイはここぞとばかりにポーチを開け、お気に入りの焼き菓子を出してきた。
「あげる」
ふんふんと、期待した目つき。
獲物を捕まえてきた猫のような顔だ。
「い、頂きます」
ジルは一口かじった。
甘い。
ギルド支給品の焼き菓子とは違う。蜂蜜が入っているのだろうか。
「凄く美味しい・・・」
セイは満面の笑みを浮かべた。
ジルは笑い、お礼を言って道具を片付けた。
外では、村の夜の音がしている。
犬の声。戸を閉める音。遠くの水音。
井戸端では今頃、藁の小さな隣人が、直された靴の事を考えているかも知れないし、考えていないかも知れない。
小妖精の頭の中は、人間には分からない。
分からないから、線を引く。
線を引いた上で、手を振る。
それくらいが、丁度いい距離なのだろう。
ジルはランプの火を落とした。
「寝るよ、セイ」
「うん」
「明日、井戸端をもう一度確認して、問題がなければ帰る」
「帰ったら、ご飯」
「今日あれだけ食べて?」
「うん」
「はいはい」
「ジル」
「何?」
「靴、直してくれて、ありがとう」
暗がりの中で、ジルは少し目を伏せた。
「直したのはセイだよ。でも、どういたしまして」
それから、小さく付け加えた。
「怪我をされると困るからね」
「うん。ジルも、怪我、だめ」
「私は、怪我も腹を下すのも嫌いだよ」
セイが、暗がりでも分かる程嬉しそうに笑った。
「うん」
翌朝。
井戸端に靴は隠されていなかった。
廃屋にもない。
草むらにもない。
小妖精は井戸の縁にいて、ぱたぱたと手足を動かしている。ただ、少し遅れて起きた村長の靴の踵に藁が一本、ちょこんと貼られていた。
村長はそれを見下ろし、額に手を当てていた。
「私のも、ですか」
セイは小妖精を見た。
「だめ、だって」
ジルは靴を確認した。
踵が確かに薄い。
「だめですね」
「まだ履けると思っておりました」
「昨日、同じ事を皆さん言っていました」
村長は苦笑した。
「面目ない」
彼は靴を手に取り、井戸へ向かって頭を下げた。
「ありがとう。直します」
小妖精がぱたぱたした。
村人達は村長を見て、見えない物へ向かって、少しずつ頭を下げた。
誰も物を置かない。
誰も靴を差し出さない。
ただ、礼を言う。
ジルはそれを確認し、報告書に書く内容を頭の中で組み立てた。
井戸端に住む小妖精。
靴の損耗を警告する為、靴を隠していた。
契約は現時点で確認無し。
隠す行為は禁止。
今後は危険な靴へ藁を貼る事で警告。
村人は靴を直した後、井戸へ向けて礼を述べるのみ。
供え物、名付け、歌、定期的な儀礼は禁止。
井戸周辺に置かれた人形、馬糞、生木の燃え残りは片付け済み。
村全体で靴の管理を行う事。
定期確認推奨。
報告書としては、地味だ。
だが、こう言う地味な報告書が、次の村を救う事がある。
同じような井戸端。
同じような靴。
同じような善意。
人間はすぐ忘れるが、紙は忘れない。
リネスなら、良く折れる羽ペンを害虫を見る目で捨てながら、きっちり分類してくれるだろう。
ジルは少しだけ笑った。
「ジル?」
「何でもない。帰ったら報告書だなと思って」
「変な顔してた」
「リネスさんの顔が浮かんでね」
「リネス、怖い?」
「羽ペンには怖い」
「羽ペン・・・?」
セイは良く分からない顔をした。
村長が、改めて二人へ頭を下げる。
「ありがとうございました。これで、安心して井戸端に立てます」
「しばらくは様子を見て下さい。靴が隠される事が再発した場合は、すぐギルドへ。藁を貼るだけなら、慌てず靴を確認して下さい」
「はい」
「それと、子供達には改めて、必ず伝えて下さい。礼は言う。物は渡さない。名をつけない。遊び相手にしない」
「分かりました」
子供達は遠巻きにこちらを見ている。
セイがその中の一人へ視線を向けた。
昨日、人形を渡そうとした子だ。
子供は何も持っていなかった。
セイが頷く。
子供も頷いた。
それで十分だった。
村を出る前に、セイは井戸端へ戻った。
小妖精はまだいた。
井戸の縁で、ぱたぱたしている。
「靴、隠さない」
ぱた。
「藁、貼る」
ぱたぱた。
「ありがとう、だけ」
ぱたぱたぱた。
「うん」
セイは小さく手を振った。
小妖精も、小さな手をぱたぱた振った。
ジルは少し離れて、それを見ていた。
「行くよ」
「うん」
二人は村を出た。
道はまだ少しぬかるんでいる。
だが、セイの靴底はしっかり直っていた。
ジルの靴底も、問題ない。
セイはしばらく黙って歩いていたが、やがて口を開いた。
「ジル」
「何?」
「あの隣人、いい子?」
ジルは少し考えた。
「いい子、という言い方が合っているかは分からない」
「でも、助けたかった」
「うん。助けたかったんだと思う」
「なら、いい」
「ただ、助け方が危なかった」
「うん」
「だから、教えた」
「うん」
セイは納得したように頷いた。
「セイ」
「何?」
「助けたい相手がいる時ほど、やり方は大事だよ」
セイはジルを見た。
眠そうな目が、少しだけ真面目になる。
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは、はいって言ってほしかった」
「ジルが、見る」
ジルは黙った。
セイは前を向く。
「私が、変な助け方したら、ジルが見る」
ジルは、息を吐いた。
「まあ、見るよ」
「うん」
「止める時もある」
「うん」
「それでも行くなら?」
セイは少し考えた。
「ジルも、来る」
ジルは、今度こそ笑った。
「お前ね・・・」
「違う?」
「違わないのが困る」
セイは満足そうに、直したばかりの靴で道を踏んだ。ジルもその隣を歩いた。
背後の村では、今日も井戸の水が汲まれる。
その足元に、もし藁が一本貼られていたなら。
村人は靴を見て、直すだろう。
そして井戸へ向かって、ただ一言だけ礼を言う。
ありがとう。
それだけでいい。
小妖精との付き合いは、それくらいの軽さでなければならない。
軽く、細く、切れない程度に。
靴紐のように。
強く結びすぎれば足を痛める。
緩すぎれば転ぶ。
丁度いい結び目を探しながら、人間は今日も歩いていく。
セイの腹が鳴った。
かなり大きく。
ジルは空を見上げた。
「・・・台無しだ」
「ご飯」
「朝も食べたよね」
「歩いた」
「それはそう」
「いっぱい食べる」
「それは知ってる」
二人は歩いた。
革の靴で。
奇妙で、危なくて、少しだけ優しい約束の残る村を背にして。




