プロローグ 地雷の誕生
これは仮想現実大規模多人数オンライン、通称VRMMOの世界で起きた様々な事件の記録である。
VRMMOは視覚と聴覚のみで楽しむ従来のゲームと違い、五感全てを没入させて三次元の立体的な世界観を楽しめるのが最大の特徴。特にそのハード機となるヘッドギアはここ一年の間に爆発的な売り上げを叩き出し、ゲーム業界の勢力図すらも激変させてしまった。
今回の主人公――橘めるがプレイするのは、中でも特に人気沸騰中のソーシャルゲーム。『君の友達は空で待っている!』がキャッチフレーズで、聞けば誰もが名前を知っているほどの有名なゲームだ。
橘がそのゲームを始めたのはささいなきっかけである。
家庭の方針で幼少期からネット機器は持たされず、元々ゲームにも全く関心がなかったので触れる機会はなかった。そんな彼女が高校に進学してすぐに、VRMMOが世に誕生したのである。
従来のゲームとは大きく異なる画期的な発明に世間は瞬く間に沸き立った。ヘッドギアが広く普及するのに時間はかからなかった。
橘の通う高校でもクラスメートの話題の中心は流行りのVRMMO。「VRMMOで好きなゲームは何?」とか「この前のVR限定イベントはどうだった?」とか、皆がヘッドギアを所持しプレイしている前提で話が進んでいく。
だから、橘が友人との話題についていけなかったのは言うまでもない。
しかしどれだけ流行ろうと、周囲の会話についていけなかろうと、食指が動かない限り手を出さないのが橘めるという人間。友人はもちろん、ヘッドギアを使い始めた家族に勧められてもなお彼女は関心すら示さなかった。
そんなある日、とあるテレビCMが偶然目に飛び込んでくる。
『君の友達は空で待っている! 王道バーチャルRPG、君と紡ぐ架空の物語!』
軽快なキャッチフレーズとともに写し出された、技術の進歩が一目で分かるほどの鮮やかなグラフィック。そのゲームはVRMMOの中でも特に学生たちの間で人気沸騰中のもので、以前から話は耳にしていた。
が、CMを見るのは初めてである。
「……おお、凄い。この映像美は他と比較しても最高峰だな。悪くないかも」
橘が興味を惹かれたのは本当にただの偶然だった。
『豪華声優勢ぞろい! 個性あふれるキャラクターたちとともに、壮大な世界観を体感しよう!』
直感的に、他のゲームとは一線を凌駕する何かがあると橘は感じ取った。
この映像を三次元で体感したらどうなるのだろう?
そんな好奇心から、試しにヘッドギアを使ってゲームをプレイすることに決めた。つまらなかったらすぐ辞めればいいのだから、お試し程度の気持ちで。
実際にゲームの出来映えは橘の期待を裏切らなかったし、想像より何倍も素晴らしかった。
しかしここでひとつ問題が生じる。
これまでゲームはおろかネット機器にさえ触れてこなかった橘にとって、五感全てを没入させるVRMMOの仕組みはあまりに複雑で、操作やシステムを一向に使いこなせない。そもそも従来のコンピューターゲームをやったことがない分、こういったことへの基礎知識が0に等しいのだ。
「もう、潮時だろうな……」
ヘッドギアを使い始めてから一ヶ月弱、もはや橘のモチベーションは消えかけていた。
あと一度だけプレイしたら引退しよう。そう思ってログインした、ある日のこと。
バトルを行うための共闘部屋で見知らぬプレイヤー同士が揉めている場面に遭遇した。ゲーム内では声を発してコミュニケーションを取ることができるものの、話す内容はあくまで事務連絡やゲームに関する専門的な知識の共有などがほとんど。
だから、ゲーム内でプライベートな会話を見聞きしたのはこれが初めてだ。
「この方悪質すぎるので晒します。未だに女性プレイヤーへのセクハラを繰り返しているようなので皆さん気をつけてください。絶対に会ってはダメです!」
女性アバターを使う一人のプレイヤーが怒りの声をあげながら、ウィンドウを拡大してアラサーらしき男の顔写真を晒しあげている。中肉中背の、無精髭を生やした中年男の写真だ。
ゲーム内では端正な顔立ちの人間離れしたアバターを見慣れているせいか、『リアル』な人の姿を目にし、急に現実に引き戻されるような妙な感覚を覚える。
「晒しは犯罪だぞ、今すぐ消せよ! 消せ消せ消せ! 今から警察に行ってお前のこと相談してくるわ」
恐らく晒されている本人であろう冒険者風アバターの男性プレイヤーが、激高して彼女に殴りかかる。ちなみにトラブル防止のためプレイヤー同士の接触機能はないので男が振り回す腕はすり抜けてかするのみ。
「ご自由にどうぞ。あと、貴方が出会い厨だということも分かるように晒させていただきますね。毎日、気持ちの悪いメッセージを何度も送られて私も精神的に追い込まれましたし、警察に行きたいのはこちらの方です。注意喚起の意味も込めて、これ以上被害者が増えないように晒すのが一番良いかと。
女性の方は気を付けてくださいねー!」
そう言って女性プレイヤーは、今度は別の画像をウィンドウに写し出した。彼女と男のDMでのやり取りがズラリと並んでいる。
『同じ団員としてよろしく! 俺そこそこゲーム歴長いし、先輩としてマルチボスキャリーしてあげるから一緒にやろーよ!
ちなみに何歳? どこ住み? スリーサイズ教えてよ』
『ごめんなさい、そういうのはちょっと…… 138kg、上から806 3 455です……』
『胸の写メちょーだい笑 今度会おーよ!』
「うわ、やばー! きっしょ!」
部屋内には二十人近くのプレイヤーがおり、バトルもせずに彼らが揉める様子を眺めてざわざわと騒がしくなっていく。一般人ならドン引きする光景なので、入室してすぐ『そっ閉じ』して退室するプレイヤーが多く、人が現れたり消えたりと出入りが激しい。
「だからって晒し者にして笑ってんじゃねえ! キャリーしなきゃザコ敵も倒せないくせに調子乗んなデブが」
「あの」
激化する喧嘩に夢中になっていた橘は、つい前のめりになって口を挟んでしまう。
出会い厨だとか男と女の争いとか、ネットにありふれたこんな光景が橘にとっては初めて目にするものだった。
しかも従来のスマートフォンでスクリーンショットを晒すといったレベルではなく、ウィンドウによって画像を大画面で映し出し、それを対面で見せられるというVRMMOならではの大規模な晒し行為。
これほどの地獄絵図はあまりに新鮮で、橘めるの見てきた世界を覆すほどの大きな衝撃を与えた。
「出会い厨ってなんですか?」
橘の唐突な質問に、女性は先程声を上げていた時よりも穏やかなトーンで答える。
「下心で近づいてくるヤリモクのことですよ。つまりあいつはオフパコ目的でゲームをやってるってことです」
「ふむふむ……」
やりもく、おふぱこ、など所々意味の分からない単語に引っかかるものの、橘は事の流れを大まかに理解し始める。一応このゲームは四歳以上が対象という年齢制限があるものの、実際に四歳からプレイするには不健全極まりない。
「つまり、あの人は交尾がしたいってことなんですね」
「は? あんなの冗談で言っただけだし、本気にする方がキモいだろ。こんなブス女とやりたくねーし!」
「やりたくないのに胸の写真を欲しがるのですか? よく分かりません。本当は交尾がしたかったのに、できなかったから怒っているように見えるのですが……」
「るっせーな、何も知らねーなら黙ってろよ。お前もどうせブスだろ! リアルで男に相手されねーからこういうゲームで居場所を作って媚びてんだろうが。俺が相手してやってるだけ感謝するべきだろ!」
「ふ――ッ」
橘は思わず吹き出してしまい、咄嗟に口元を手で覆う。しかし一度決壊した笑いは止まらず、男が更に怒りを増幅させるのを腹を抱えて見ていることしかできない。
「ふ、く……ッ、ふひゃひゃはははははははは!」
「ちょっと、そんなにおかしいですか?」
「いや、すみません。おかしくはないし気の毒だけど……あはははははマジでごめんなさい!」
女性までも訝しむ表情でこちらを見てきたため、橘は息も絶え絶えになりながらそそくさとその場から離れた。
共闘部屋の隅に避難し、壁にもたれ掛かって呼吸を落ち着けながら状況を整理する。彼らの口論は未だ留まるところを知らず、好奇故に囃し立てる部外者によってさらにヒートアップを続けていた。
「とりあえず写真消しとけよ。弁護士に依頼して慰謝料請求するからな」
「こんなんで弁護士が動くわけなくて草。パコれなかったからって負け惜しみ言うのガチでキモすぎるぞおっさん。早くこのゲーム引退しろ」
「男の顔、典型的なチー牛で草」
「俺もオフパコしたいです! 女性の方どこ住みですかー」
「キャリーするから顔写メくれ、あとおっぱいも」
「気持ち悪いです、やめてください。運営に通報しておきますね」
世間で大流行しているVRMMOのキラキラしたイメージとは全く違うこの世界の闇を目の当たりにした今、橘めるはこれまでで最も心が躍っている。
この気持ちはなんだろう。
新たな玩具を手にしたときのわくわく感。あるいは、まるで初恋をしたときのような一種の感動に近い、この気持ちは一体。
「ふふ、あははは! 楽しいね!」
本来ならなら忌避すべき、忌避されるべき醜悪な人々の姿に惹かれ、高揚してしまっている。この光景をもっと見たいと心が叫んでしまっている。
現実社会で真っ当に生きていたら決して出会うことのないネットの闇。だからこそ、ネットは人を惹きつけてやまないのだろうか。
収集のつかなくなったメンバーたちを眺めながら橘は薄ら笑いを浮かべた。
VRMMOの世界で本当に求めていたのはゲームにおける戦力でもランクでも素材でもない、心を動かす人たちとの関わりだったのだ。基本的にはソロスタイルではなく、誰かと共にプレイをすることを想定されたゲーム。現実とは違い、リアルな姿を見せずに済むからこそ作れる繋がりもあるというものだ。
人気が右肩上がりのVRMMOは、世に生み出されてからまだ間もない。
――これから先ももっと色々なプレイヤーに出会い、未知の出来事を経験していけるだろうか?
「やっぱり、もう少し続けてみようかな」
ここにしかない出会いを、本当の『友達』を、このゲームで探しに行こう。