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Crazys!  作者: ノンアルコール
C,8-B-2 Are You Happy?
65/65

 *


 気が付けば、日はすっかり暮れて、電波塔から見下ろすメトロの街は完全に夜の闇に飲み込まれていた。

 夕方は、テロの騒ぎで慌ただしかった街も、夜が更けるにつれもとの鬱蒼とした空気に戻っていった。眼下に、チラチラと警察の赤いランプが光っているのがその名残だろう。

 それ以外は、意外にも静かなものだった。


 電波塔最上階の客室の窓から街を見下ろして、ジンはカーキ色のロングコートのポケットに手を突っ込みながら佇んでいる。

 あの、腐れテロリスト野郎の思惑は、果たしてどこまで実現されたのだろう。ジンが知っている中でも、予定外の出来事は多くあったが、如何せん当の本人がさして痛手を感じているようには見えないので面白くない。

 あの、うっとおしいほどに前向きな男が、一度顔をしかめて悔しがっている様を見てみたいものだ、とジンは常日頃から思っているというのに。


 詰まらなそうに息を吐いて、ジンはくるりと踵を返す。

 振り返った先には、高価なカフェテーブルと柔らかなソファがあった。ソファの上に、薄い毛布を被ったケイナが横たわっている。

 気を失って倒れたケイナを、アカバネの計らいでジンがこの客室に運んできたのだった。最悪の状況にならないと気が回らない男だ、とジンは心の中で嘲る。


 部屋の真ん中まで歩み寄ってきたジンは、ソファの後ろ側から気を失っているケイナを覗きこんだ。難しい顔をして、よく眠っている。

 ジンからすれば昼間のこととアカバネの話と、その上電波塔の連中と一堂に介して、平静を保っていられただけでも驚きである。自分ならば、取り敢えずアカバネかカサイをぶん殴って殺しているところだ。

「う……ん」

 そんなことを考えていると、眠っていたケイナが顔をしかめて声をあげた。

 虚ろな寝ぼけ眼が、ゆっくりと開かれる。うつらうつらした両目が、焦点に定まるのを見計らってジンは声をかけた。

「ようやくお目覚めかい。仮にも犯罪者のアジトで、よくスヤスヤと寝ていられるもんだ」

「…………っ!」

 ジンの顔を見たケイナは、最初こそ状況が飲み込めずにぼうっとした間抜け面でジンを見上げていたが、ジンの声を聞くと慌ててソファから飛び起きた。

 飛び起きたケイナの頭突きを食らいそうになり、ジンは素早く身を仰け反らせる。

「こ、ここは!?」

「残念ながら、電波塔の客室さ。嬢ちゃんが気絶しちまったから、アタシがここまで運んできた」

 ソファの上で身構えるケイナに、ジンは淡々と返す。

 警戒心を露にしてじっとこちらを睨み付ける小動物のように沈黙したケイナは、ジンに敵意の眼差しを送るととげのある声音で叫んだ。

「な、なんで……!」

 ケイナが言い掛けた瞬間、きゅるる、とネズミの鳴くような高い音が、ジンとケイナの間に響いた。すると、ケイナが顔を真っ赤にして慌てて自分の腹を押さえる。

 どんな状況に陥っても、腹の虫には関係のないことらしい。ケイナ本人も、自分が空腹だったなんて微塵も気がつかなかったのか、青天の霹靂とばかりに驚いてソファの上で膝を抱えている。

「そりゃ腹も空くだろ。ほら、嬢ちゃんのだ。さっき持ってきたばかりだから、まだ温かい」

 赤面して涙すら滲ませながら、自分を睨み付けてくるケイナに、ジンは苦笑を圧し殺しながらソファの外側を回り込んで、木製の洒落たカフェテーブルに歩み寄った。

 カフェテーブルの上には、銀色のトレイの上に、皿に乗ったパンと湯気のたつミルクがおいてある。そこら辺のベーカリーで見るような硬いバゲットではなく、シュガーペーストを塗って焼き上げた分厚いパンから漂う香ばしい臭いが、ケイナの意識を逸らそうと誘惑してくる。

「ど、毒要りに違いないです」

「何でだよ。そんな回りくどいことしなくても、殺す気ならとっくに殺してる」

 ジンの返答に、ケイナは黙り混む。その言葉にケイナは納得したのか、しかし腑に落ちないと言ったようなしかめ面で身を起こすと、ソファの上に座り直した。

「殺さないんですか……? 私を」

 顔をしかめながら、ケイナはじっとジンを見て問い掛けた。語尾は震えていたが、昼間ほどの恐怖があるようには聞こえない。

 ケイナの対面にあるソファに腰掛け、ジンは小さく息をついて答えた。

「アカバネが、嬢ちゃんを気に入ったみたいだからな。アタシはそれに従っただけさ」

「……」

 複雑な顔をして、ケイナは黙りこんだ。

 実質、彼女にとって今の状況は、犯罪者の手によって高く聳える塔の上に監禁されているようなものだ。生きた心地がしないだろう。

「ま、何だ。嬢ちゃんはさんざんな目に遭って、アタシらのことを殺したいほど憎らしいかもしれんが、アタシたちは割りとそうじゃないってことさ。こうして客室を与えられて、温かい飯まで振る舞ってもらえるんだからな。ま、扉は鍵つきだが」

「安心なんて、できませんよ。ここの人たちは、私とは次元が違いすぎます」

「あー、あいつら全員クズだからなぁ」

 ケイナの言葉に、ジンが染々と頷いた。

 予想外の同意を得られたことに驚いてか、ケイナがキョトンとした顔をしてジンを見た。

「貴女は……一体なんなんですか? あの、あの人たちの仲間じゃないんですか?」

「仲間だなんて冗談じゃない。ビジネス上での付き合いをしてるだけさ。アタシはアカバネとカサイが大嫌いだしな」

 今日増えた変なやつも、好きになれないな、などと、ジンは疲れきったようなため息をこぼして言った。

 それに、ケイナは合点がいったように頷く。初対面の相手にもわかるほどに、自分はその二人に対して嫌悪を露にしていたらしいと改めてジンは思った。

「じゃあ、貴女は、テロリストではないんですね?」

「いいや、その点に関しては間違いない」

「どっちなんですか」

「わからないのか? まあ、子供にはわからない大人の事情ってのがあるんだ」

 ジンがあしらうように言うと、ケイナはムッとして再度ジンを睨み付ける。

 表情が、くるくると回る少女だ。とジンは感心する。まるで、あの子のような。

 ぼんやりと、ジンは視線を宙に漂わせて思い出す。よく笑って、よく怒って、よく泣く子をジンは知っている。その分かりやすい表情の変化は、感情の起伏が激しくないジンにとっては新鮮なもので、同時に理解しがたい。

 いつか、あの子のように笑えたらとは思わないが、遠い昔を思い出したような気がしてジンは少しだけ苦笑する。

 埋もれた記憶の中のワンシーンが脳裏を掠め、ジンは不意にケイナに尋ねた。

「昼間の話をして良いか?」

「は、へ?」

 唐突なジンの問いかけに、ケイナはまの抜けた声をあげる。返答を聞かずに、ジンは話を進めた。

「昼間、嬢ちゃんはアタシを誰かと見間違えたって言ってたな。そいつは、一体どんな奴だ?」

 ジンの問いに、ケイナは顔をしかめた。彼女もなにか思うところがあった様で、怪訝そうな顔をして問い返す。

「誰だっていいじゃないですか。昼間も思いましたけど、なんでそんなことを聞くんですか?」

 棘のある声音だ。気持ちが落ち着いてきた表れだろう。変に怯えられて会話にならないよりは良い、とジンは思う。

「言いたくないことなら言わなくて良い。ただアタシも、アタシに似てる奴に心当たりがあったから」

「?」

 意味深なジンの物言いに、ケイナは首を傾げた。しかし、ジンが悪意をもって問いかけているのではないと知り、俯きながら答え始める。

「私の、憧れの人ですよ。強くて優しくて、でも脆い。お喋りしないから、何を考えているかわからないんですけど、でもそれが逆に分かりやすかったり。お人好しで、そのせいでいつもトラブルに巻き込まれていたり。そしてきっと、このメトロで誰よりも、人が好きな人です」

 ケイナが、わずかにはにかんで言った。この切迫した状況下で、ようやく心の安らぎを見つけられたような、そんな顔だ。

「そのひとは、人が好きなんです。なんでかはよくわからないけど、メトロで懸命に生きてる人が、好きなひと。だからそんな人たちを嘲笑って、バカにする人が大嫌いなんです。そういう人にはすごく厳しいけど、本当はとても優しくて、臆病なひとなんです」

 ケイナの言葉に、ジンは腕を組ながら耳を傾ける。穏やかな彼女の声は、柔らかくてジンの耳にはこそばゆい。

「私は、そのひとに憧れて賞金稼ぎになりました。この街で、苦しい思いをしている人を助けたいと思ったから。私自身も、そのひとに助けられた一人だから。そうして、私もその人みたいな、強くて優しくて、こんな埃っぽいメトロでも、好きになりたいと思ったから。あんなひとになりたいって、私、思ったんです」

 ケイナは、なぜか嬉しそうに笑みを浮かべて言った。

 年相応の人懐こい笑みがジンに向けられる。とそこで、ケイナははっとして慌てて首を横に振った。

「あ、す、すみません! 私、途中から自分の話ばっかりで…その、とにかく素敵なひとなんですよ!」

 強く拳を握ってケイナが力説する。

 とにかく、その一言を伝えたかったようだ。それを見て、ジンは薄く目を閉じてソファから身を起こした。

「ああ、わかったよ。嬢ちゃんの言いたいことはよくわかった。どうやらアタシは、勘違いをしていたらしい」

「え?」

 ソファから身を起こした勢いで立ち上がったジンは、小さく苦笑のような笑みを漏らして言った。

 呟いたジンの言葉に、ケイナが怪訝そうに顔をしかめる。

「嬢ちゃんがアタシと見間違えたって奴と、アタシの知ってるアタシに似ている奴は、どうやら別人みたいだ」

「そう、なんですか? どんな、人なんですか?」

 ケイナの口から、不意に問いがこぼれる。純粋なケイナの視線がジンをとらえた。それを見て、ジンはわずかに目を細める。

「ムカつく野郎さ。ぶん殴りたくなるほど弱くて、優しいんじゃなく臆病なだけ。文句のひとつも言えなくて、意思表示の薄いうっとおしい奴」

 吐き捨てるようにジンが言う。クチから吐き出された言葉は、自分が思っていたよりもずっと嫌悪にまみれていて、ジンは思わず笑ってしまいそうでもあった。

「それから、この世の誰よりも、人間が嫌いな奴だったよ」

 付け足すようにジンが呟く。

 記憶の底にある、あの始終思い詰めたような暗い顔を思い出しては舌打ちをする。

 思い出すだけでムカつくのだ。今更目の前にしたら、何度殺しても飽き足らないだろう。

 ジンの答えを聞いて、呆然としているケイナに背を向けて、ジンは歩きだす。部屋を出ようと、扉に手を掛けたところではたと思い出したようにジンは顔をあげた。

「そうだ、嬢ちゃん。これ」

「えっ?」

 振り返ったジンの手元を見て、ケイナは驚きの声をあげた。彼女の手には、シワついた白い封筒が握られており、ケイナは慌てて自分の懐を探る。

「そ、それっ!」

 ジンの手の中でひらりと翻る封筒を見て、ケイナは転がるようにしてソファから飛び出した。

 しかし、その時には既に、ジンは扉を開けて廊下に踏み出している。

「お友達の方の手紙は、まだ嬢ちゃんの荷物の中にある。それは嬢ちゃんが託されたものだからな。しっかりと届けるといい。代わりにアタシは、これを届けてあげよう」

「なっ!?」

 面白いくらい慌てた様子で、ケイナはジンからその封筒を奪い取ろうと飛び出す。しかし、ソファのそばにあったカフェテーブルの角に脛をぶつけて、彼女は悶絶するように踞った。

 そんな一連の出来事を見て、ジンはくくっと意地悪く喉奥で笑う。

「心配するな。ちゃんと届けてやるよ。この住所通りな」

「まっ……!」

 脛を押さえて踞ったケイナがなにか言い掛けたが、それらは全て暑く豪奢な扉が室内に押し込めてしまった。

 ジンが廊下に出ると、がちゃりと鍵がしまる音がする。

 アカバネが、ケイナが寝ている隙にシイナに取り付けさせた、オートロック装置だ。あの男は、どうやらジンの想像以上にケイナを気に入ったらしい。

「彼女は目覚めたかい?」

 噂をすれば、である。ジンは呆れるほどタイミングよく現れたアカバネに顔を向けた。

 赤い絨毯の敷かれた窓のない通路の真ん中に、白い男が立っている。機嫌の良さそうな笑みを浮かべながら、両手を後ろ手に組んでジンを見つめていた。

「今しがた」

「あまりいじめないでくれよ。可愛そうだ」

「お前ほどじゃない」

 それでも、いじめているという自覚はあったようで。ジンは小さく息をついて腕を組む。それにアカバネは笑った。

「それならいいさ。僕は、彼女を僕のフィアンセにすると決めたからね。あまり邪険に扱われるのは気に入らない」

「……はあ?」

 理解不能なアカバネの言葉に、ジンは低い声で言った。不愉快そうに片眉をつり上げてアカバネを睨む。

「フィアンセさ。いやぁ、彼女は素敵だね。僕があれだけ言っても屈しないし、逆に言い返してくる始末。抵抗してやろうって言うあの目がいいね。真っ直ぐで。へし折ってしまいたくなるけど、それでもへし折れない頑丈さがある。いやはやどうして、面白いよ」

 嬉しそうに笑いながら、アカバネが言った。夕方の彼の態度はおおよそ好意のある人間に向けるものではないと思ったが、彼のなかではそうではないらしい。

「あまり度が過ぎると嫌われる」

「そんなことはない。彼女も、僕が創ろうとしている『本当に平等な世界』を知ったら、きっと目の色を輝かせて僕を愛してくれるさ」

 両手を開いて、不安など微塵も見せない自信に満ち溢れた顔でアカバネが言う。

 どうしたら、そんな自信が生まれてくるのか。不愉快なだけのアカバネの言葉に、ジンはマスクの下で人知れず舌打ちをした。

「だといいな」

 そっけなく言い放って、ジンは踵を返してアカバネに背を向けた。

 ひらりとロングコートの裾が舞う。さっさと立ち去ろうとしたジンの背中に、アカバネが声を掛けた。

「そうだ。君の相棒、どうやらサースメトロで負傷したらしいよ」

「……カヤが?」

 珍しく、信じられないとばかりに目を大きく見開いて、ジンはアカバネに顔を向けた。

 その驚愕が面白かったのか、アカバネはにたりと表情を歪ませる。

「君の進言で、彼女にサースメトロを任せてみたけど、とんだ采配ミスだったようだ。お陰でサースメトロは被害も少なく、逮捕された同志も多い。全く、やってくれたよ」

「……」

 肩を落として、わざとらしくため息をついてアカバネが言う。

 ジンの知る限り、カヤという人物はこのメトロではもっとも強い人間である。有能であるかどうかは別だが。

 そんな彼女が、しくじるどころかあまつさえ負傷するなど、どう考えてもアカバネの情報不足が原因としか思えない。

 サースメトロには、あの戦闘特化マシンの女中に手傷を追わせることができるような脅威が存在しているということなのだから。

 しかし、そうは思っても、今それをアカバネに言ったところで言い訳にしかならないので、ジンは不機嫌な顔で黙りこんだ。

「あまり、僕を幻滅させないでくれ。僕は、君が思っている以上に君が好きなんだよ。なんたって君は、ある意味で僕の考える理想の、平等な人げ……」

「おい」

 酷く愉快そうな声で言い掛けたアカバネを、ジンが制止する。

 じろりと、金色の瞳と前髪に隠された赤い光が鋭く光り、忌々しそうにアカバネを睨み付けた。

 嫌悪と苛立ちがこもった目だ。睨まれたら、びくりと震えて硬直してしまいそうになるほどに。

「それ以上言ってみろ。殺してやる」

 低い、怒気のこもった声がアカバネに向けられる。

 地を這うように放たれたその声は、アカバネの両足をつかんで無意識のうちに彼を震え上がらせた。同時に、アカバネは笑う。

 じわりと額にかいた汗をにたりとした笑みで隠しながら。アカバネは口角を吊り上げた。

「早く、彼女を迎えに行ってあげるといい。暗い路地裏で、君を待っていることだろう」

「……」

 のたまうアカバネを無視して、ジンは再度アカバネに背を向けた。

 二度とその憎らしい顔を見ないように、ジンは足早にその場を去った。




 ***


 乾いた砂埃が街道に舞う。薄茶色に曇った空は、日の光りを遮って延々とメトロの空に居座っている。

 メトロは、夜よりも昼が似合うとジンは思う。チカチカと点滅する街灯で照らされているよりも、噎せ変えるようなスモッグの効いた空気の中に砂塵が舞って、生温い太陽光が降り注いでいた方が、メトロの陰気さが際立ってとても好い。

 軋んだ木や色気のないコンクリートで固められた街並みがよく見渡せるのも好い。人々が、こんなごみ溜めみたいな場所でも健気に生きているのがよくわかる。だからメトロは、昼間が似合う。


 ジンは、健気な人間が好きだ。諦めず、ただひたすらに、周りの迷惑も鑑みずに突っ走る人間に『無駄だ』と囁いてやるのが好きだ。

 勘違いしている夢見がちな人間に、思い知らせてやるのが好きなのだ。特に嫌いな奴には、とびきり特大な『現実』を見せてやりたくなる。


 サースメトロの街道に面した、乾いた木造の小さな喫茶店の前で、ジンは佇んでいた。

 店先には、厳つい鉄製の看板が立て掛けられていて、その手前には、可愛らしい小さな花が咲いた植え木鉢がおかれている。

看板には『Arms』と荒々しく掘られている。喫茶店の名前だろうが、小さな植え木鉢とのアンバランスさがシュールである。

 ジンは、フードを目深に被り、両手をコートのポケットに突っ込みながら佇んでいた。口元と目元を覆い隠す防毒マスクとフードは、ジンの表情と顔をすっぽりと隠してしまっている。

「おや? お客様ですかぁ?」

 眼前から、間延びした高い声が聞こえてきた。ジンは、僅かに視線をあげる。

 金髪のツインテールがよく似合う、黒いウェイトレスの制服を着た少女が、驚いたように目を丸くしながらジンを見ていた。どうやら掃除中らしい。両手には、ほうきとちりとりが握られていた。

「いや。これを、届けに」

 少女の問いかけに、ジンは首を横に振る。そうして、懐から一通の封筒を取り出し、少女に差し出した。少女は、怪訝そうに顔をしかめてそれを受けとる。

「お手紙ですかぁ。ありがとうございます。ええと、どなた様からでしょ?」

「ケイナから、ツキシマへ」

「ケイナさん?」

 再び、少女が驚いて目を丸くするのを見て、ジンはその声に答えずくるりと踵を返して街道を歩きだす。

 怪訝そうなウェイトレスの声を背中で聞いたが、ジンは振り返ること無く足速にその場を去った。


 乾いた砂が、ジンのブーツを汚して宙に舞う。足元で埃を蹴りながら、ジンは無言のまま街道を歩いていた。

 褪せた黄土色の街並みは、目が霞むほど色気が無くて。垢にまみれた人々は何の為にもならない噂話で盛り上がる。この前のテロの噂、新しい犯罪の噂、隣人の悪口や自慢話まで。人々は、自由な話題に花を咲かせている。

 先日のテロの傷跡など、舐めて完治させてしまったようだ。

「ジン」

 不意に、ジンの耳に掠れた声が聞こえた。

 ジンは立ち止まり、たった今通りすぎた街道の細い路地裏に目を向ける。路地裏は、昼間だというのに暗く、その先がよく見えない。 ジンは、そっとその路地に踏みいった。

「酷くやられたな、カヤ。お前がしくじるなんて、よっぽどイレギュラーな出来事があったんだろ」

 ジンが路地に踏みいると、その先には、血塗れのエプロンドレスを着た褐色肌の女が、青い顔をして踞っていた。

 まるで、喧嘩に負けた野良猫のようだとジンは思った。顔は無表情ではあるが、額には冷や汗をどっとかいていて、両目は虚ろである。どこからどう見ても瀕死であるにも関わらず、ジンを呼び止めるだけの元気はあるようだ。

「返す言葉もございません。ですが、負けたわけでもありません」

「元気そうだな。今にも死にそうだと思ったが、とんだ杞憂だ」

 マスクの下で、ジンが苦笑する。

 一見ただの女中であるにも関わらず、このタフさはどこから来るのだろうと不思議に思う。

 そんなジンを見て、カヤはじっと睨み付けるようにジンを見つめた。

「楽しそうですね」

「ああ。お前がこんなザマになるとは思わなかったからな」

「いいえ、そうではありません」

「あ?」

 よく聞いていないとわからないほど僅かに、カヤの声が低くなるのを聞いて、ジンは怪訝そうに顔をしかめた。

「さっきから、ずっと笑っているでは、ございませんか。そんなに楽しそうな貴女を、私は見たことがございません」

「……よく、わかったな。アタシが笑っていたなんて」

「わかります。貴女の事ならば、なんでも」

 意味深なカヤの言葉を歯牙にも掛けず、ジンは堪えきれずに喉の奥が詰まったような声を上げた。

 くっく、とマスクの下でこもる様に聞こえていた笑い声は、徐々に吹き出して失笑する様な、音階の合わない不協和音の様な声へと変わって行った。

「くっくっ…く、ははぁ……はー…あはははっはっ…あはははは!  は、はぁ…はは…笑い慣れてないと、はは、上手く笑えない。困ったもんだな」

「……」

 ジンの笑い声を聞きながら、カヤはどこか不機嫌そうな顔でじっと彼女を睨みつける。

 それに気づいて、ジンは再度可笑しそうに喉を鳴らした。

「なぁに、気にするな。ただ、大嫌いな奴を見つけただけさ」

 フィルターの下で、誰に知られるでもなく吊り上げられた口角でジンは笑う。

 嬉しくて、楽しくて仕方が無かった。

 また、アレを殺すことができる。何度も何度も、自分の気が済むまで。そうしてまた、あの子のところへ帰るのだ。

「さあカヤ。呆けてないで、さっさと医者に行くぞ。これからのメトロは、もっと面白くなる。お前にもそれを、見ていてもらわないとな」

「……承知致しました」

 意味深な言葉と共に、ジンはカヤに手を差し伸べた。分厚いグローブの嵌められたその手からは、硬く冷たい、しかしそれでいて、どこか高揚しているような気さえ感じる。

 カヤは、無表情のうちに僅かに怪訝そうな色をその顔に浮かべながらも、はっきりと頷き言い放って、ジンの手をとった。

 厚手のグローブが、カヤの手を力強く握った。


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