第一章 信号、深夜に届く
午前二時十七分。
宇宙ステーション「アマテラス」は静寂の中にあった。
リング状の回廊に人影はなく、疑似重力が生み出す穏やかな「夜」が、居住区全体を包んでいる。
そんな深夜に、ヨーコの端末が鳴った。
「……」
目を開ける。天井。
薄暗い部屋。ベッドの横に転がしておいたタブレットが、無音で光を放っていた。
ヨーコは素早く起き上がり、眼鏡を掴んで端末を確認する。
発信者不明。暗号化レベル——最高。
「これ、うちの組織のプロトコルじゃない」
つぶやきながら、指が動く。
復号に十八秒。驚異的な速さだ。それでも彼女の表情は平静だった。
解読されたメッセージを読んで——はじめて、眉がひそめられる。
【緊急通知。東京大学宇宙分校・学術データバンクに不正アクセス検知。侵入者は現在も内部に存在。推定目標:量子暗号鍵生成システム。発信元:匿名。お前たちなら動けるはずだ】
匿名。
しかし使われた暗号プロトコルは、ヨーコが過去に傍受したバロス連合の下部組織が使っていたものと、部分的に一致していた。
「……敵か、味方か」
ヨーコはすでに上着を羽織りながら、もう一方の手で駿に通信を入れていた。
◆
「起きてるか?」
「起きてる」
駿の声は、完全に覚醒していた。こいつは深夜でも電話に出るとき、眠そうな声を一切出さない。最初はわざとかと思ったが、本当に即起きできる体質らしい。
「データバンクに侵入者。量子暗号鍵が目標だって」
「情報源は?」
「匿名。でもプロトコルがバロス連合の傍系と一致してる」
一瞬の沈黙。
「罠の可能性は?」
「五十パーセント」とヨーコは即答した。「でも量子暗号鍵が本当に狙われてるなら、放置はできない。あれがやられたら、学内のセキュリティ網が丸ごと無効化される」
「動く。甚之助を起こしてくれ」
「もう起こしてる」
通信を繋いだまま廊下に出る。宇宙ステーションの「夜」は、照明が七割に落とされているだけで、温度も空気も昼と変わらない。
それでもヨーコには、今夜の空気が——なんとなく違う感じがした。
根拠のない感覚だ。
それが気持ち悪かった。
◆
学術データバンクは「アマテラス」の第三ブロック、学術区域の中心部にある。
外壁はセラミック複合装甲、内部は三重の電子セキュリティ——のはずだった。
「突破されてる」
ヨーコが外壁の制御パネルに触れながら言った。「表の警報はまだ鳴ってない。つまり警報システムごとハックされてる」
「相当な腕だ」と甚之助が腕を組んだ。「俺たちのレベルに近い」
「私より上かもしれない」
あっさりと言う。甚之助が少し驚いた顔をした。ヨーコが他人の技術を「上」と認めるのは珍しい。
「中に入る」と駿が言った。「強化スーツ、展開」
三人がコートの裏から折り畳まれたスーツを取り出す。展開に十二秒。慣れた動作で全身を覆い、フェイスシールドが閉じる。
黒い三つの影が、扉の前に立った。
「私が電子錠を開ける。開いたらすぐ動いて」
「了解」
「……三、二、一」
扉が音もなく開いた。
三人が滑り込む。
◆
内部は広い。二十メートル四方のフロアに、サーバーラックが整然と並んでいる。緑の指示ランプが点滅し、どこかで冷却ファンが低く唸っていた。
そして——フロアの奥に、人影があった。
一人。
黒いタイトスーツに、ヘルメット型のデバイスを被っている。体格は細い。素早い手つきでサーバーパネルを操作しながら、背後への警戒も怠っていない。
「止まれ」
駿の声が空間に響いた。
影が動いた。振り向きざまに右手から何かを放つ——小型の閃光弾だ。
「っ!」
フェイスシールドが自動で光量を絞る。ヨーコと甚之助は一歩後退した。
だが駿だけは、瞬時に半歩左へ踏み込んでいた。閃光が通り過ぎる。
「逃がさない」
フロアの端まで追う。影が壁際に追い詰められ——
止まった。
「……追いつかれるとは思わなかった」
低い、合成音声越しの声だった。ヘルメットのボイスチェンジャーを使っている。
「お前が発信者か?」と駿は聞いた。
「そうだ」
「なぜ俺たちを呼んだ」
「一人じゃ時間が足りなかった。協力を求めた」
「協力」とヨーコが一歩前に出た。「データを盗みながら、私たちに協力を求めた?」
「盗むんじゃない——守る」
影がゆっくりと両手を広げた。「このサーバーに侵入したのは、データを取るためじゃない。既に仕掛けられているバックドアを消すためだ」
沈黙。
「バックドア?」とヨーコが鋭く言った。
「三時間前から存在している。このデータバンクには、量子暗号鍵の生成プロセスを外部に漏洩させるコードが埋め込まれている。俺が消さなければ、夜明け前に全データが外に出る」
「証拠は?」
「今、お前のタブレットに送った」
ヨーコが確認する。
コードの断片。確かに——見たことのあるパターンだ。自分が過去に傍受したバロス連合の通信コードと、構造が似ている。
「……本物だ」
ヨーコが呻くように言った。「でも」
「でも信用できない、だろ?」
影が言った。「それでいい。俺のことは後で調べろ。今はバックドアを消すのが先だ。時間がない——夜明けまで四十分しかない」
駿が振り向いてヨーコを見た。
フェイスシールド越しでも、視線の意味はわかる。
お前の判断は?
ヨーコは一秒、考えた。
「……作業を続けさせる。私が監視する。動き一つ変だったら止める」
「了解」と駿は言った。それ以上は問わない。
影がサーバーパネルに戻った。
ヨーコが並んで立ち、画面を覗き込む。
確かに——バックドアのコードが存在していた。そして影の手が、それを一行ずつ丁寧に消していく。
下手な動きはない。
でも——だから余計に、信用できない気がした。
◆
三十八分後。
バックドアは完全に消去された。
「終わった」と影は言った。「礼は要らない。俺たちは目的が同じだ」
「俺たちは」と駿が繰り返した。「どういう意味だ?」
「そのまま取れ」
影が窓に向かって歩いた。
「待て」と甚之助が一歩前に出た。「素性を言え」
「言う時が来たら言う」
影が窓のラッチを外した——外部デッキへの出口だ。
「一つだけ教えてやる」
振り返らないまま、合成音声が言った。
「お前たちが知らない『正義』がある。それがもうすぐ動く。気をつけろ」
扉が開いて、影は出ていった。
三人が追おうとした瞬間——外のデッキに、人影はなかった。
「……消えた」と甚之助が言った。
「ステルス装備だ」とヨーコが言った。「私たちより一世代新しいやつ」
「何者だ」
「わからない」とヨーコは言った。「でも——」
端末の画面を見る。
「バックドアは確かに消えた。嘘ではなかった」
駿は窓の外を見た。
宇宙の闇が広がっている。
「気をつけろ」——その言葉だけが、空中に残っていた。




