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第一章 信号、深夜に届く

 午前二時十七分。

 宇宙ステーション「アマテラス」は静寂の中にあった。

 リング状の回廊に人影はなく、疑似重力が生み出す穏やかな「夜」が、居住区全体を包んでいる。


 そんな深夜に、ヨーコの端末が鳴った。


「……」


 目を開ける。天井。

 薄暗い部屋。ベッドの横に転がしておいたタブレットが、無音で光を放っていた。

 ヨーコは素早く起き上がり、眼鏡を掴んで端末を確認する。

 発信者不明。暗号化レベル——最高。


「これ、うちの組織のプロトコルじゃない」


 つぶやきながら、指が動く。

 復号に十八秒。驚異的な速さだ。それでも彼女の表情は平静だった。

 解読されたメッセージを読んで——はじめて、眉がひそめられる。


【緊急通知。東京大学宇宙分校・学術データバンクに不正アクセス検知。侵入者は現在も内部に存在。推定目標:量子暗号鍵生成システム。発信元:匿名。お前たちなら動けるはずだ】


 匿名。

 しかし使われた暗号プロトコルは、ヨーコが過去に傍受したバロス連合の下部組織が使っていたものと、部分的に一致していた。


「……敵か、味方か」


 ヨーコはすでに上着を羽織りながら、もう一方の手で駿に通信を入れていた。



「起きてるか?」


「起きてる」

 駿の声は、完全に覚醒していた。こいつは深夜でも電話に出るとき、眠そうな声を一切出さない。最初はわざとかと思ったが、本当に即起きできる体質らしい。


「データバンクに侵入者。量子暗号鍵が目標だって」

「情報源は?」

「匿名。でもプロトコルがバロス連合の傍系と一致してる」

 一瞬の沈黙。

「罠の可能性は?」

「五十パーセント」とヨーコは即答した。「でも量子暗号鍵が本当に狙われてるなら、放置はできない。あれがやられたら、学内のセキュリティ網が丸ごと無効化される」

「動く。甚之助を起こしてくれ」

「もう起こしてる」


 通信を繋いだまま廊下に出る。宇宙ステーションの「夜」は、照明が七割に落とされているだけで、温度も空気も昼と変わらない。

 それでもヨーコには、今夜の空気が——なんとなく違う感じがした。

 根拠のない感覚だ。

 それが気持ち悪かった。



 学術データバンクは「アマテラス」の第三ブロック、学術区域の中心部にある。

 外壁はセラミック複合装甲、内部は三重の電子セキュリティ——のはずだった。


「突破されてる」

 ヨーコが外壁の制御パネルに触れながら言った。「表の警報はまだ鳴ってない。つまり警報システムごとハックされてる」

「相当な腕だ」と甚之助が腕を組んだ。「俺たちのレベルに近い」

「私より上かもしれない」

 あっさりと言う。甚之助が少し驚いた顔をした。ヨーコが他人の技術を「上」と認めるのは珍しい。


「中に入る」と駿が言った。「強化スーツ、展開」

 三人がコートの裏から折り畳まれたスーツを取り出す。展開に十二秒。慣れた動作で全身を覆い、フェイスシールドが閉じる。

 黒い三つの影が、扉の前に立った。


「私が電子錠を開ける。開いたらすぐ動いて」

「了解」

「……三、二、一」


 扉が音もなく開いた。

 三人が滑り込む。



 内部は広い。二十メートル四方のフロアに、サーバーラックが整然と並んでいる。緑の指示ランプが点滅し、どこかで冷却ファンが低く唸っていた。

 そして——フロアの奥に、人影があった。


 一人。

 黒いタイトスーツに、ヘルメット型のデバイスを被っている。体格は細い。素早い手つきでサーバーパネルを操作しながら、背後への警戒も怠っていない。


「止まれ」

 駿の声が空間に響いた。

 影が動いた。振り向きざまに右手から何かを放つ——小型の閃光弾だ。


「っ!」

 フェイスシールドが自動で光量を絞る。ヨーコと甚之助は一歩後退した。

 だが駿だけは、瞬時に半歩左へ踏み込んでいた。閃光が通り過ぎる。


「逃がさない」

 フロアの端まで追う。影が壁際に追い詰められ——

 止まった。


「……追いつかれるとは思わなかった」

 低い、合成音声越しの声だった。ヘルメットのボイスチェンジャーを使っている。


「お前が発信者か?」と駿は聞いた。

「そうだ」

「なぜ俺たちを呼んだ」

「一人じゃ時間が足りなかった。協力を求めた」

「協力」とヨーコが一歩前に出た。「データを盗みながら、私たちに協力を求めた?」


「盗むんじゃない——守る」

 影がゆっくりと両手を広げた。「このサーバーに侵入したのは、データを取るためじゃない。既に仕掛けられているバックドアを消すためだ」


 沈黙。


「バックドア?」とヨーコが鋭く言った。

「三時間前から存在している。このデータバンクには、量子暗号鍵の生成プロセスを外部に漏洩させるコードが埋め込まれている。俺が消さなければ、夜明け前に全データが外に出る」

「証拠は?」

「今、お前のタブレットに送った」


 ヨーコが確認する。

 コードの断片。確かに——見たことのあるパターンだ。自分が過去に傍受したバロス連合の通信コードと、構造が似ている。


「……本物だ」

 ヨーコが呻くように言った。「でも」

「でも信用できない、だろ?」

 影が言った。「それでいい。俺のことは後で調べろ。今はバックドアを消すのが先だ。時間がない——夜明けまで四十分しかない」


 駿が振り向いてヨーコを見た。

 フェイスシールド越しでも、視線の意味はわかる。


 お前の判断は?


 ヨーコは一秒、考えた。

「……作業を続けさせる。私が監視する。動き一つ変だったら止める」

「了解」と駿は言った。それ以上は問わない。


 影がサーバーパネルに戻った。

 ヨーコが並んで立ち、画面を覗き込む。

 確かに——バックドアのコードが存在していた。そして影の手が、それを一行ずつ丁寧に消していく。


 下手な動きはない。

 でも——だから余計に、信用できない気がした。



 三十八分後。

 バックドアは完全に消去された。


「終わった」と影は言った。「礼は要らない。俺たちは目的が同じだ」

「俺たちは」と駿が繰り返した。「どういう意味だ?」

「そのまま取れ」


 影が窓に向かって歩いた。

「待て」と甚之助が一歩前に出た。「素性を言え」

「言う時が来たら言う」


 影が窓のラッチを外した——外部デッキへの出口だ。

「一つだけ教えてやる」

 振り返らないまま、合成音声が言った。

「お前たちが知らない『正義』がある。それがもうすぐ動く。気をつけろ」


 扉が開いて、影は出ていった。

 三人が追おうとした瞬間——外のデッキに、人影はなかった。


「……消えた」と甚之助が言った。

「ステルス装備だ」とヨーコが言った。「私たちより一世代新しいやつ」

「何者だ」

「わからない」とヨーコは言った。「でも——」

 端末の画面を見る。

「バックドアは確かに消えた。嘘ではなかった」


 駿は窓の外を見た。

 宇宙の闇が広がっている。

 「気をつけろ」——その言葉だけが、空中に残っていた。

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