第5話【冥府へ渡るもの】8
「えっ!長谷川さん旦那さんの転勤で引っ越すから明日までしか出勤できないんですか?」
急な申し出で佐藤の顔から血の気が引いたようで、大変心苦しい。
「ごめんなさい。本当に急に無理な事を言って」
私は九十度近く頭を下げる。座っていたら土下座になっていただろう。
「いえ、長谷川さんにはお世話になりっぱなしですから頭を上げて下さい」
佐藤は焦ったように言う。
「長期出張中の旦那さんとようやく一緒に暮らせるんですもんね。何とかします」
佐藤は休みを取るようになってから心に余裕があるからか頼もしくなった。アルバイトスタッフからの評価も以前と比較にならないほど良い。私がいなくてもきっとうまくやっていけるだろう。
私は気だるい体ながらも何とか仕事を終えて帰路に着く。帰りに買ったコンビニのおにぎりと風邪薬を飲んでお風呂にも入らず泥のように眠った。
「舞、体が辛いの?今日のデートはお休みする?」
祥吾は心配そうに私に訊ねる。
「ううん、大丈夫だよ」
強がりでは無く夢の中の私はすこぶる快調で体も軽い、フルマラソンでも走れそうな気がする。
「それなら今日は新生活のために家具や家電を買いに行こう」
一人で行く家具店や家電量販店は少し気が滅入る。新婚カップルや家族連れなどが多くいるので、ありえた未来をまざまざと見せつけられるからだ。しかし、今日は違う祥吾がいる。家具や家電を選ぶ度に新しい未来が想像できて本当に楽しかった。選んだ商品は購入後に祥吾が送り状を書き新居へ送ってもらうことにした。私は引越し先がどこなのか知らないので全て祥吾にまかせた。
祥吾と手をつなぎ帰りの道を歩いているとマンションの入り口から少し離れた所で同時期に入居した夫婦とすれ違う。今日は妬みも羨みも無い。隣に祥吾がいるのだから。
「舞、あと3日だよ。明日は舞の育った養護施設に挨拶に行こう……」
今日はなかなか起きられず出勤ギリギリの時間になってしまった。昨日以上に今日は辛い。入浴しなかったのでぐしゃぐしゃの髪を櫛でときメイクをする。青白くてひどい顔だ。
私は何とか出勤して店の裏手にある従業員入口のドアを開ける。
「舞さん、おはようございます。引越しでお店辞めちゃうんですか……って大丈夫ですか?」
石永が私に声を掛けるが、私は従業員控室の床に膝をつく。
「店長―!舞さんが大変です!!」
石永が慌てて大声で佐藤を呼ぶ。
「長谷川さん大丈夫ですか。引越しの準備で疲れちゃったんですかね。今タクシー呼ぶんで、それで帰宅して下さい。」
佐藤はそう言って私を抱えて椅子に座らせる。
「最終日にごめんなさい。少し休めば大丈夫だから」
私は擦れた声でそう言った。
「大丈夫じゃないですよ。一応送別会も企画してたんですけど、舞さんの体調が良くなってから後日やりましょう」
石永は心配そうな目で私を見ている。
休憩して何とか歩けるまで回復した私はタクシーに乗り込み帰宅する。その際に石永が心配だから付いて来ると言ったが、「家には旦那がいるから大丈夫」と言うと引き下がった。
家に着いた私は着の身着のままベッドに倒れ込むように横になった。
「舞、調子が悪いみたいだけど平気かい?」
祥吾が心配そうに私を覗き込む
「平気、平気。何でもないよ。今日は養護施設だったね」
昨日と同様に夢の中の私は元気で、祥吾とのデートにワクワクしていた。
「そっか、それじゃあ行こうか」
そう言って祥吾は私の手を引く
10数年ぶりの養護施設をすごく懐かしく感じた。放置子だった私にとってここが実家を感じる唯一の場所なのかも知れない
養護施設の玄関を開けると施設長の女性(渡辺)と職員(小笠原)が出迎えてくれた。
「ひさしぶりね。舞ちゃん。とりあえず中に入って」
渡辺に案内され施設内に入る。渡辺と最後に会ったのは私が廃人状態の時で祥吾の母と一緒に心配そうに私を見ていたのを覚えている。
「そう、この街を離れるの。少し寂しくなるわね」
「すいません、全然顔も見せずに……」
「そうよ。色々あったのは知っているけど、少しぐらい顔を見せなさいよ」
渡辺は笑いながらそう言った。
「でももう大丈夫ね。こんな素敵な旦那さんがいるんだから」
私と祥吾は顔を見合わせてほほ笑む。
私たちは渡辺と小笠原に礼をして施設を離れる。
「あと2日、これで大体の別れの挨拶は終わったかな?明日は僕の実家に行こう……」




