エピソード1.
今日は傘を持っていない。今朝は晴れていたし、折りたたみ傘は昨日使ってしまった。雨が止むのを待つしかない。
そんなことを考えていると、後ろから声が聞こえた。雨のせいで余韻が残る、そんな低い声が。
「世良さん、誰か待ってるの...?」
声がする方に顔を向けると、七瀬君が覗き込むようにして見ていた。
「…うん。...雨が止むのをね。」
一歩踏み出せば、自分と雨との境界がわからなくなる。雨に染められるのは好きではない。
ただ、この世界の、他のどんな音をもかき消してしまうほどに強い音色は好きだ。
「...........ぃっ.....く?」
そんな、いつか必ず存在したであろうファーストペンギンの後を追って地面に沈んでいく雨の様子を、ぼーっと眺めていた。
「..........さん....世良さん?」
「あっ..............ごめん、七瀬君。.......何?」
七瀬君の顔が視界の端に映ってようやく、今ここにいるのが自分だけではないことを思い出す。
恥ずかしい。七瀬君を前に、完全に自分の世界に入ってしまっていた。
「傘、入ってく?」
七瀬君はスクールバッグの中から折りたたみ傘を取り出して、開こうと掴んだ手を止めながら自分に話しかけた。
「.........」
覚悟を決めて雨の一部になろうとした時にそんな提案をされて、一瞬思考が止まる。
「大丈夫だよ。この傘見かけによらず大きいから。」
そう言いながら七瀬君は傘を開いてみせた。確かに、自分が持っている折りたたみ傘よりも格段に大きい。
そういうことではないのだが、、、。
私は少し考えてから口を開けた。
「.......じゃあお言葉に甘えて。」
右に持っていたスクールバッグを左の肩にかけ直す。いくら七瀬君の傘が大きいといえど、折りたたみ傘だ。七瀬君の身長の高さを改めて実感する。
辺りは不思議なくらい人気がない。まるでこの激しい雨が連れ去っていったかのように。持ち替えたスクールバッグは、もう半分色が変わっている。履き慣れたはずのローファーは、雨のせいで気持ちが悪く思えた。
部室に忘れ物を取りに行っていたらすっかり遅くなってしまった。校舎にはもうほとんど生徒は残っていない。
静かな廊下を独り、昇降口まで歩いていくと、立ち尽くす世良さんの姿があった。
「世良さん、誰か待ってるの...?」
そう聞くと世良さんは一度僕を見て、すぐに雨が降る方に視線を戻して答えた。
「…うん。...雨が止むのをね。」と。
僕はスクールバッグに入れてきたはずの傘を手探りで探した。見たところ世良さんは傘を持っていないようだった。
「世良さん、一緒に傘入ってく?」
そう聞いてみても返事がない。無視。というより、聞こえていないように思えた。
「世良さん。世良さん?」
そう顔を覗き込むようにして声をかけると、いつも穏やかな彼女の表情が瞬時に変化した。
「あっ..............ごめん、七瀬君。...何?」
———それから僕と世良さんは、折りたたみ傘の下を共に歩いた。傘が防いでくれるのは水滴だけで、その音は変わらず僕たちに直接降り注がれる。
一歩、また一歩と踏み出す足は、いつもより小さく、時間がかかる。どちらから喋り出すこともなく雨の音だけが傘に響いていた。
「七瀬君は、どこに住んでいるの?」
突然、この激しい雨音にも負けることのないはっきりとした声が聞こえた。
意外だった。彼女は自分から話を持ち出すタイプでもなければ、話すのが特に好きというわけでもなさそうだったからだ。
「....僕は、原駅の方だよ。」
「そうなんだ.....................私、こっちだから。傘、入れてくれて、ありがとね。」
「え、ちょ、近くまで送ってくよ。」
ただ、それ以上彼女を追いかけることはできなかった。少し濡れた肩が余計に冷たく感じた。




