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ピカピカの爪と正しい選択

 週明けの月曜日。いつものように、太陽みたいな声で感染対策室のドアをこじ開けた小日向ひまりは、完全復活を遂げていた。


「ますみしつちょー! 先週はマジでお世話になりましたッス!」


 先週までのしょんぼりした姿はどこへやら、その声はいつものように、うっとうしいくらいに太陽の匂いがした。

 ぴかぴかの笑顔に、健康的な肌つや。その手には、いつものコンビニのアイスコーヒーの代わりに、やけに大きな紙袋が揺れている。

 「室長」か「真澄さん」か。先週から気になっていた私の呼び名はどうやら「真澄室長」に落ち着いたらしい。


「すっかり回復したみたいね。私としては、先週くらい物静かな方が助かるのだけれど」

「またまたー! 真澄室長、あたしが元気ないと寂しくて夜も眠れないくせにー!」


 ニシシッと、悪戯っぽく笑うひまりに、私は思わずフッと息を漏らした。本当に、屈託のないやつだ。


「それで、今日は何? 大量にサンプルでも持ってきたわけ?」


 私がその大きな紙袋に視線をやると、ひまりは「チッチッチッ」と、したり顔で人差し指を左右に振ってみせる。


「ご迷惑おかけしたお詫びと、神対応へのお礼を兼ねて! 本日はこのわたくし、ひまりが! 真澄室長の荒みきった心を癒す『出張リフレッシュサービス』にやってまいりましたッ!」

「……心外だわね。荒んでいる自覚はないけど」

「まあまあ! 固いこと言わずに、ささ、お座りになって!」


「最初から座っているけど」という私の冷静なツッコミは、彼女の熱意の前では空しく霧散する。

 ひまりは持ってきた紙袋をひっくり返す勢いで、次々と見慣れない道具をデスクの上に並べ始めた。

 色とりどりのネイルファイル、不思議な形のニッパー、大小様々なブラシ、そして、見たこともないようなクリームやオイルが入った小さな瓶の数々。まるでこれから、何かの儀式でも始まるかのようだ。


「……何、これ」

「ネイルケアセットっすよ! 先週、弱ったあたしを完璧に介抱してくれたゴッドハンドの持ち主、真澄室長のために、今週はあたしが、その神の手をピッカピカに磨き上げてしんぜようってワケです!」

「結構よ。私の手は、これで十分だから」


 私は、自分の指先を見下ろす。短く切りそろえられた爪。消毒用アルコールで、少しだけカサついた指先。これは、患者さんと自分自身を『見えない敵』から守るための、私の誇り。私の戦うための武器なのだ。


「ダメです! ダメなものはダメ! これはあたしからのお礼なんで、問答無用で受け取ってもらいます!」


 ひまりは、どこから持ってきたのか採血枕をデスクに置くと、有無を言わせぬ力強さで私の右手を掴み、その上に乗せた。

 普段の騒がしさとは裏腹な、その手つきは驚くほど優しく、そして、一切の迷いがなかった。


「まずは、お爪の形を整えまーす。真澄室長、爪切りでバチバチいっちゃうタイプでしょ? ダメですよー、爪は層になってるんで、二枚爪の原因になっちゃいます。こうやって、ネイルファイルで優しく、一方方向に動かすんす」


 シュッ、シュッ、とリズミカルで心地よい音が響く。彼女の真剣な横顔は、いつもの『ギャル営業』とはまるで別人だ。


「手慣れてるわね」

「んー? そりゃあ普段から自分でやってますから。高校ん時は、友達とかにもやってあげてましたし」

「じゃあ、その綺麗なネイルも自分で? てっきり、ネイルサロンに通っているのかと」

「あはは、あたしの安月給じゃ秒で破産しちゃいますよー」


 彼女は、視線を私の爪に固定したまま、少しだけ照れたように笑った。


「ネイリストにでもなるんじゃない」


 何気なく口にした私の言葉に、少しの沈黙の後、彼女はぽつりと呟いた。


「……実際、ネイリストになるのが夢だったんすよ、あたし」


 思わず、間の抜けた声が出た。


「え?」

「『マジすか!?』って顔してますね。でも、本当なんすよ。ちっちゃい頃から、キラキラしたものが大好きで。オカンのマニキュアをこっそり塗ったり、雑誌の付録のネイルシールを宝物みたいに集めたり。自分の指先がキラキラに変わるだけで、なんか、無敵になったような気がして」


 ひまりは、甘皮を処理するためのオレンジスティックを手に取り、器用な手つきで私の爪の根元を整え始める。


「だから、高校卒業したら、専門学校に行きたかったんす。でも、うち、片親でそんな余裕なかったし……。 2個下の弟がいるんですけど、あたしと違って頭良いんで。そいつには大学行ってほしかったから、あたしは諦めて。で、担任に進路相談したら『小日向は愛想だけはいいから、営業でもやったらどうだ』って言われて、今の会社に」

「……そうだったの」

「まあ、今となっては、これで良かったのかなって思ってますけどね。営業の仕事も、やってみると案外楽しいし。こうやって真澄室長にも会えましたし!」


 その口調は、あくまでも明るい。けれど、その裏側に滲む、ほんの少しの諦めの色を、私が見逃すはずもなかった。

 無責任なことは言いたくない。他人の人生に、軽々しく口出しするべきではない。でも、その無理に作った笑顔を見ていると、どうしても、伝えなければならないことがある、そんな気がした。


「……変なことを言うようだけど」


 私は、前置きをしてから、ゆっくりと話し始めた。


「私ね、今日のお昼、お蕎麦にしたのよ」


 ひまりは、手を止めて、きょとんとした顔で私を見上げた。


「でも、注文した後にやっぱりうどんにしとけば良かったって後悔して」

「……はあ」

「でも、お蕎麦は低GIでヘルシーだから、その分トッピングを二つも付けられることに気づいたの。結果、最高に美味しくて、お蕎麦にして大正解だったわ」

「……ホントに変な話っすね」

「高校の時、私本当は保育士になりたかった。でも、母の勧めで看護学科に進んだの。保育園の前を通るたびに、もし保育士になっていたらって、何度も思ったわ。でも、今ではこうして室長という肩書をもらえて、論文も発表できるようになった。看護師の道を選んで良かったと、心から思ってる」

「あの、あたしがバカだからッスかね……? 真澄室長の話、ぜんぜん見えてこないんすけど」


 ひまりが困ったように笑う。私は、彼女の目をまっすぐに見つめた。


「私が言いたいのはね、どちらを選んでも、その選択が『正解』になるように努力することが大切だ、ということ」

「それ、あたしのこと言ってます……? さっき言ったじゃないすか、これで良かったって」

「ええ。でも、あなたは以前、『営業に向いてない』って言っていたでしょう。だから、自分の気持ちに嘘をついているんじゃないかと思ったの」


 ひまりの、甘皮を処理していた手が、ぴたりと止まる。


「少し、考えすぎたみたいね。ごめんなさい。」


 ひまりは視線を私の爪に落としたまま、か細い声で呟く。


「バレバレっすね、あたし。これでいいんだって、ずっと自分に言い聞かせてた。楽しいフリして、充実してるフリして……。 でも、夜中に一人で、ネイルのデザイン考えてる時とか、ふと思うんす。もし、専門学校に行けてたら……って」


 シーンと静まり返った部屋に、エアコンの低い唸りだけが響いている。


「あ、でも! 弟に進学を譲ったのは後悔してないし、弟を羨んでなんかないですよ! ただ、ふと、そう思っちゃうだけで……。 未練がましいっすよね、もうとっくに手遅れなのに」


 ひまりは、無理やり笑顔を作った。

 ああ、またその笑顔だ。他の道を模索することを放棄し、現状を受け入れるための、偽りの笑顔。まだ二十歳のくせに、すべてを諦めたような顔をするな。

 まったく――。


「『手遅れ』が年齢を指すのであれば、それは全くの間違いよ。私が認定看護師の資格を取りに行ったのは34歳の時。それでも研修所では若い方だったわ。今年、うちの病院に新卒で入職した看護師の最年長は42歳。私よりも年上よ」

「よんじゅう……に」


 ひまりは、信じられないというように目をぱちくりさせている。


「その人は家庭の事情で進学を諦めたそうよ。でも、子育てが落ち着いてからパートをしながら看護学校に通ったの。……なんだか、誰かさんに似た境遇ね」


 私の手を握る彼女の指先に、少しだけ力がこもるのが分かった。


「だからって、今の仕事を辞めて専門学校に行けなんて無責任なことは言わない。どの道を選ぶかは、あなた次第。そして、どちらを選ぶにせよ、その選択を『正解』にするために、死ぬ気で頑張りなさいって話。もし辛くなったら――私はここにいるから」

「……っす」


 ひまりは顔を上げないまま、かろうじて聞こえる声でそう返事をした。

 最後に、ひまりは保湿用のキューティクルオイルを、私の爪の根元に一滴ずつ、丁寧に垂らしていく。ふわりと、柑橘系の爽やかな香りが広がった。


「はい、完成でーす……! 真澄さんスペシャルコース!」


 涙で少しだけ潤んだ声だった。でも、その顔に浮かんだ笑顔は、今まで見た中で一番輝いていて。まるで、雨上がりの南国の太陽みたいだった。

 私は、輝きを取り戻した自分の手を、そっと光にかざす。

 短く、飾り気のない爪。それは変わらない。でも、一本一本が健康的な艶を帯びて、上品に輝いている。


「ありがとう。さすがね」


 私がそう言うと、彼女は、涙の跡が残る顔で、それでも力強く、こくりと頷いた。

 彼女が本当に自分の夢を叶える日が来るのか、私には分からない。でも、彼女がその一歩を踏み出す決意をするその時まで。この殺風景な感染対策室が、彼女の心を少しだけ軽くする『安全地帯』であり続けられたら。


 ピカピカに光る自分の爪を見つめながら、私は、ただ、そう願っていた。


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