病院の怪談
八月中旬のアスファルトはフライパンのように熱気を放ち、感染対策室のエアコンは休むことなく稼働を続けている。
私はパソコンに向かい、秋に予定されている院内研修会のスケジュールを組んでいた。その、規則的で退屈な作業に没頭していた時だった。
「ますみしつちょー! 聞いてくださいよ、マジでヤバい話があるんす!」
嵐は、いつだって唐突にやってくる。
ノックとほぼ同時にドアを開けた小日向ひまりは、興奮と怯えが入り混じった、なんとも奇妙な表情を浮かべていた。
今日の彼女は、黒のタイトなトップスに流行りのカーゴパンツという出で立ちで、少しだけ大人びて見える。
「どうしたの。営業成績のことで先輩に絞られた?」
「違いますよ! もっと、こう……オカルト的な話っていうか!」
ひまりは私の向かいにあるパイプ椅子へどっかりと腰を下ろすなり、声を潜めて切り出した。
「さっき、外科のナースステーションで納品書にサインもらってたんすけど、看護師さんたちが『出る』って噂してたんです。この病院」
「出る?」
「ユーレイっすよ、幽霊! なんでも、今は使われてない南病棟の三階。夜中にそこから、ピアノの音が聞こえることがあるんですって。誰もいないはずなのに!」
彼女は自分で話しながら総毛立ったのか、両腕をさすった。
しかし、その瞳は恐怖よりも強い好奇心でらんらんと輝いている。なるほど、今日のテーマはそれか。
「ピアノねえ。古い空調の室外機の音か、配管を水が流れる音じゃないの。そういうのって、静かな夜には案外大きく響くものよ」
私は興味なさげにそう返し、パソコンの画面に視線を戻した。病院にまつわる怪談話など、聞き飽きるほど耳にしてきた。
そのほとんどは、多忙な職員が見る幻覚か、ありふれた物音の聞き間違いだ。
「いやいや、それがガチで『エリーゼのために』が聞こえるらしいんすよ! なんか昔、南病棟に有名なピアニストが入院してて、その人が院内コンサートで弾いたピアノが、今も三階の物置に置きっぱなしになってるらしくて……」
「ずいぶん、設定が細かいわね」
「でしょ!? マジでなんかありそうじゃないすか! 室長、何か知ってません?」
ひまりはぐいと身を乗り出す。どうやら彼女にとっては、最高にエキサイティングな話題らしい。
「さあ?」
「じゃあ、ピアニストが入院してたって噂はホントなんすか?」
「さあね。ていうか、受け持ち患者以外に興味なかったし」
「えー。じゃあこの病院の、もっとガチで怖い話とかは!?」
私は一つ、長いため息をついた。この手の話にまともに付き合う気はないが、この好奇心の塊を黙らせるには、何か一つ、それらしい話をしてやるのが手っ取り早いだろう。
「……まあ、一つだけ。私がまだ、手術室の看護師だった頃の話だけど」
「マジすか! 聞きたいです、聞きたい!」
ひまりは、まるでこれから最高級のスイーツでも出てくるかのように、ぱっと顔を輝かせた。
あれは、もう七年ほど前の冬の夜だった。
その日、私は夜勤で、緊急手術の待機をしていた。仮眠室でうとうとしていた私を、けたたましいPHSの呼び出し音が現実に引き戻す。
交通事故による多発外傷。一刻を争う状態だ。
手術は、困難を極めた。
窓の外が白み始めた頃、手術はようやく終わりを告げた。だが、それは私たちが望んだ形ではなかった。あらゆる手を尽くしたものの、患者は、手術台の上で息を引き取ったのだ。
エンゼルケアを終え、一人で手術室を出た私は、目を疑った。
いましがた亡くなったはずの患者が、廊下の向こうを歩いている。
私が死化粧を施した顔だ、見間違えるはずがない。声をかけようとしたが、喉が凍り付いて動かなかった。
彼女は青白い、生気のない顔で、私に一瞥もくれず、ふらふらと廊下の角を曲がっていく。
私は弾かれたように後を追ったが、角の先には誰もいなかった。
「ひえっ! ヤバい!」
ひまりは自分の両腕を抱きしめて声を上げたが、その口元は楽しそうに緩んでいる。
「この話にはね、実は続きがあるの」
「え、何すか! 何すか!」
目を輝かせ、再び身を乗り出すひまり。
「亡くなった患者さんには、双子の妹がいたのよ。私が見たのは、その妹さん。姉が亡くなったと聞いて放心状態で歩いていただけ。廊下の角を曲がった先に家族控室があって、そこに入ったから見えなくなったの」
「えー、なーんだ。全然ホラーじゃないじゃないすか」
ひまりはあからさまにがっかりした様子で、パイプ椅子の背にもたれかかった。そのわざとらしい仕草に、私は思わず笑みがこぼれる。
「『幽霊の正体見たり枯れ尾花』って言うでしょ。怪談話なんて、だいたいそんなものよ。南病棟のピアノだって、きっと何かの聞き間違いよ」
「ちぇー。つまんないの」
ひまりが大げさに唇を尖らせる。その姿はまるで小学生だ。
「じゃあ、こういうのはどう? 脳外科の病棟にいた時の話。夜勤の巡回中、ある個室のドアを開けようとしたら、やけに重くて開かないの。おかしいなと思って、やっとの思いでこじ開けたら……患者さんがドアノブにタオルを巻きつけて、首を吊ってた」
「――え」
「脳出血の後遺症で、将来を悲観しての自殺だったらしいわ。あの時、ドア越しに伝わってきた、ぐったりとした重みの感触。今でも、たまに思い出す」
どうやら、求めていた刺激的な恐怖とは質が違ったらしい。ひまりはいつもの元気をすっかりなくし、青ざめた顔で黙り込んでいる。
「……で、実は人形でした、みたいな……?」
ひまりが、か細い声で救いを求めるように私を見た。
「警察が現場検証に来たわ。ちなみに、縊首に使った紐やロープの結び目は、絶対に解いちゃいけないって知ってる? 自殺か他殺を検証する資料になるから」
「ガチで人死んでる話じゃないすか!! あたしが聞きたい話しじゃないし! 」
ひまりは今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。
「どう? 少しは涼しくなった?」
「……なんか、思ってたのと違うけど……鳥肌は立ったっす……」
ひまりはそう呟くと、自分の腕をもう一度、今度はゆっくりとさすった。
その時、私のPHSが短く鳴った。ひまりがビクッと大げさに肩を震わせる。
「ごめんなさい、師長に呼ばれたから席を外すわ。あなたも、そろそろ帰りなさい。あんまり変な噂に振り回されていると、仕事に集中できなくなるわよ」
「う、はい……。 お疲れ様です……」
ひまりは、まだ何か言いたげな顔をしていたが、私がパソコンの電源を落とし、窓の施錠を確認するのを見て、すごすごと立ち上がった。
「じゃ、じゃあ、また来週……」
そう言って、パイプ椅子には目もくれず、彼女は逃げるように部屋を出ていった。
その背中は、来た時よりも心なしか小さく見える。
私は彼女を見送ると、そのまま師長の元へと向かった。いくつかの事務連絡と来月の研修についての打ち合わせは少し長引き、ようやく解放された時には、終業時間をとっくに過ぎていた。
誰もいない自分の城のドアを開け、デスクに向かう。
バッグとタンブラーを手に取り、最後に、部屋全体を見渡し、異常がないことを確認する。 窓は閉まっている。パソコンの電源も落ちている。
そして、ひまりが座っていたパイプ椅子が、きちんと元の位置に収まっていた。
(……あら? 戻していったのね、あの子)
少しだけ意外に思いながら、私は部屋の電気を消し、静かにドアを閉めた。
カチャリ、と鍵をかける音が、やけに大きく響いた。
そのとき、私のスマートフォンに電車の運行状況の通知が届いた。
「え、人身事故で行先を『きさらぎ』に変更? ……参ったわね。 ……ていうか『きさらぎ駅』ってどこよ」
私は小さく首を傾げ、空っぽになった自分の城に背を向け、帰路についた。
***
夜の闇に沈んだ、感染対策室。
先ほどまで二人の女性の会話が満ちていた空間は、今は完全な静寂に支配されている。
デスクの上のパソコンは黒い画面を映し、壁の時計の秒針だけが、時を刻む音をかすかに響かせる。
その、静寂の中だった。
部屋の隅に置かれた、小さなBluetoothスピーカー。もちろん、電源はオフになっているはずだった。
そのスピーカーから、ぽつり、と音が鳴った。
それは、ノイズ混じりの、ピアノの音色。
奏でられる旋律は、ベートーヴェンの、『エリーゼのために』。
スピーカーの上で、小さな青いランプが、まるで心臓の鼓動のように、ゆっくりと点滅を始めた。
そのメロディは、誰に聴かれるでもなく、空っぽの部屋の中で、いつまでも、いつまでも、鳴り響いていた。




