うちらのWeekly Meeting
三月の最後の日。
ひまりが会社を退職して、初めての月曜日だった。
もう、あの太陽みたいな声が、この城のドアをこじ開けることはない。
そう思うと、いつもの静寂がやけにがらんとして、寂しく感じられた。
私はパソコンに向かいながらも、どこか上の空だった。時折、廊下から聞こえてくるヒールの音に、無意識に耳を澄ませてしまう自分が、少しだけ滑稽だった。
(……来るわけ、ないわよね)
彼女はもう、この病院の担当営業ではないのだから。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
コン、コン。
控えめな、しかし聞き慣れたリズムのノックの音。
まさか、と思い顔を上げる。
ドアが、ゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、私服の小日向ひまりだった。
「……しつちょー。……いや、真澄さん。こんにちは」
少しだけ照れくさそうに、彼女は笑った。
流行りの淡いグリーンのニットワンピースとロングブーツ。髪はゆるく巻かれている。
いつもの戦闘モードの彼女ではなく、ごく普通の二十代の女の子の顔をしていた。
その手には、コンビニのコーヒーではなく、有名店の可愛らしいケーキの箱が二つ、提げられている。
「……あなた、どうして」
「えへへ。差し入れ、持ってきました! 今は、あたし、ただの無職なんで! 時間だけはたっぷりあるんですよ!」
ひまりはそう言って部屋に入ってくると、勝手知ったるという顔で、パイプ椅子に腰を下ろした。
「……無職、ねえ」
「はい! いやー、最高っすね、無職! 朝、目覚ましかけなくていいんすよ!? 夢みたい!」
彼女はケラケラと笑っている。
その、いつもと変わらない明るさに、私の強張っていた心が、ふわりと解けていくのが分かった。
「それで? あなたのその無職生活は、いつまで続くのかしら」
「来週から、いよいよ学校始まります! オリエンテーションとか色々あるみたいで、今からドキドキっすよ」
「そう。頑張りなさい」
「はい! ……で、真澄さんは? どうなんすか」
彼女はケーキの箱をテーブルの上に置きながら、探るような目で私を見てきた。
「どうって?」
「いや、だから、その……」
「……?」
「……新潟の大学の件っす」
「知ってたの?」
「……この間、机の上にある書類が見えちゃって」
ひまりは、申し訳なさそうに呟いた。
「……ああ、なるほどね。ええ、行くわよ」
ひまりの顔が一瞬こわばる。が、すぐにいつもの表情に戻って言った。
「そっかー……。行っちゃうんですね、新潟……。遠いなあ……北海道の手前っすもんね」
「そこは青森でしょ。新潟なんて、新幹線で2時間程度よ」
「……でも、こうやって毎週会うことは、できなくなっちゃいますよね?」
ひまりの声が、少しだけ震えている。
「……まあ、そうね。新生活が始まったら、難しくなるかもしれないわね。でも……」
「まあ、でも」
ひまりは顔を上げると、吹っ切れたような笑顔を見せ、私の言葉を遮って言った。
「真澄さんが新しい道を見つけたんなら、あたしは全力で応援します! 離れてても、うちらはズッ友ですから!」
「は? 新しい道って?」
「さすがだなあ、真澄さん! ついに、大学の先生かあ……」
「……大学? 先生?」
ああ、そういうことか、と合点がいった。
どうやら、私がこの病院を辞めて新潟に引っ越してしまうと、思い込んでいるようだ。
実際には、知り合いの大学教授からの依頼で、ゲスト講師として一度だけ感染制御について講義するだけだ。
「転職するんじゃない。一度だけ講義をしに行くだけよ」
「寂しくなるなあ……。もう、真澄さんの正論パンチも、聞けなくなるのかあ」
彼女は、どこか遠い目で呟いている。
どうやら私の話を、まったく聞いていないらしい。
私は、あえて彼女の勘違いを訂正しなかった。
このすれ違いがなんだかおかしくて、もう少しだけ、この状況を楽しんでみたくなったのだ。
「あら、それは清々するんじゃないの?」
「しないですよ! あれがないと、なんか一週間が始まった気がしないんすもん! 新潟でも、学生相手にガンガン正論、ぶちかましちゃってくださいね!」
「……善処するわ」
「もう、住む場所は決まってるんですか?」
「引っ越す予定はないわよ」
「え!? 新幹線通勤っすか!」
「新幹線なんて乗らないわよ」
「いやいや、在来線なんて無理っしょ。いや、川崎にいてくれるのは私としては嬉しいですけど、真澄さんの体が壊れますって」
私たちは、しばらくの間、そんなちぐはぐな会話を続けた。
彼女は、私が遠くへ行ってしまうことを(勘違いだが)寂しがりながらも、必死で応援しようとしてくれている。
その健気な姿が、愛おしくてたまらなかった。
「さ、食べましょ! 壮行会です! 真澄さんの新しい門出と、あたしの新しい門出を祝って!」
彼女はそう言って、ケーキの箱を開けた。
私はこらえきれず、クックックッと吹き出した。
「……真澄さん?」
「ならないわよ、大学の講師になんか」
「え!? そんな、ダメっすよ。私なんかのために断ったら」
私は思わず大笑いする。
「最初から講師に誘われてなんかいないわよ。ゲスト講師として一回呼ばれただけ。それをあなたが勝手に勘違いしてただけよ」
「へ!?」
ひまりが目をぱちくりさせている。
「それに、なに? 『私なんかのために』って。あなた、どんだけ自己中なのよ」
「じゃ、じゃあ、これからもここにいるって事?」
「ええ」
ひまりはホッと肩を落としたかと思うと、次の瞬間には顔を真っ赤に染めて立ち上がった。
「ひどいじゃないすか! この数週間、あたしがどんだけやきもきしていたと思ってんすか!」
「だって、聞かなかったじゃない」
私の正論に、ひまりはグッと言葉に詰まる。
「そ、それはそうっすけど……ずるいっすよ。こんな時まで正論パンチなんて……あたし、本当にもう会えなくなるって……」
その大きな瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。
その瞬間、私も立ち上がり、ひまりの身体を、ぎゅっと抱きしめた。
彼女の驚く気配が、伝わってくる。
「……ま、真澄さん……?」
「……ひまりちゃん」
初めて呼んだ、下の名前。
彼女の肩が、ぴくりと震えた。
「ちゃんと勉強するのよ。もし辛くなったら戻ってらっしゃい。私はずっとここにいるから」
抱きしめられたまま、ひまりがコクリと頷く。
しばらくの間、私たちは、ただそうしていた。
彼女のシャンプーの甘い香り。
私の消毒液の匂い。
二つの違う匂いが混じり合って、一つの優しい空気を作っていく。
ああ、この温かさを、私はきっと忘れないだろう。
やがて、私はゆっくりと体を離した。
「さあ、ケーキを食べましょう」
私がそう言うと、ひまりは大きな瞳に涙を浮かべながら、微笑みながら頷いた。
【エピローグ】
四月上旬の月曜日の午後。
桜が満開の、穏やかな日だった。
私は感染対策室で、これから始まる新入職員向けの研修会の準備をしていた。
今年の新人たちは、どんな顔をしているだろうか。
そんなことを考えていると、ドアが開いた。
「三上さん。そろそろ出番です」
そこに立っていたのは、高田理沙さんだった。
彼女はこの四月から、病棟勤務と兼任で、私の補佐役を務めてくれることになったのだ。
私の、初めての部下と言ってもいい。
「ありがとう、高田さん。すぐ行くわ」
私はノートパソコンを閉じると、理沙さんと一緒に研修会場へと向かった。
会場には、緊張した面持ちの新人たちが、ずらりと並んでいる。
私は演台に立ち、マイクの前に立った。
そして、会場をゆっくりと見渡した。
その瞬間だった。
最前列の、一番手前の席。
そこに、見慣れた人物が座っていた。
髪をきゅっとアップにまとめ、爪には何も塗られていない。
真新しい看護助手の制服に身を包んだ彼女。
小日向ひまり、本人だった。
驚きに言葉を失う私に、ひまりはにこっと笑うと、小さく手を振ってみせた。
隣の席で、理沙さんがくすくすと笑いをこらえている。
……グルだったらしい。
その日の私の研修会が、散々な出来だったことは、言うまでもない。
「……あなた、どういうことなの」
研修後、私が問い詰めると、ひまりは悪びれもせずに言った。
「えへへ。サプライズ、大成功っすね! あたし、この病院で看護助手のバイトしながら、学校に通うことにしたんすよ!」
「……聞いてないわ」
「言ってませんからね!」
そう言って、彼女は太陽みたいな笑顔で笑った。
先週の仕返しに違いない。
「てことは、ですよ? 真澄さん」
「……何?」
「うちらのウィークリーミーティング。これからも、まだまだ続きますね!」
やれやれ。
どうやら、私の城の静かな日々は、まだ当分、訪れそうにない。
私は、大きなため息をつきながらも、
その騒々しくて温かい未来を、心の底から歓迎している自分に、気づいていた。




