初めてのガチ営業
三月下旬。
年度末の慌ただしい空気が、院内にも満ちていた。
私は、山のように積み上がった報告書の処理に追われていた。
その静かで、しかし多忙な午後の時間に、私のPHSが、珍しい相手からの着信を告げた。
「はい、感染対策室、三上です」
『お疲れ様です。モリノコーポレーションの小日向様より、外線が入っております。お繋ぎしてよろしいでしょうか』
小日向さんから? 外線で?
いつもアポなしで突撃してくる、あの彼女が?
「ええ、お願いします」
胸騒ぎを覚えながら、私は外線に出た。
「……もしもし、三上です」
『あ、真澄さん! 小日向です!』
電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもの太陽みたいな声だった。だが、その明るさの中に、ほんの少しだけ緊張の色が滲んでいる。
「どうしたの、急に。何かあった?」
『いえ、あの……。実は、あたし、今週で出勤が最後なんです。それで、その……。最後に一度、ちゃんと営業をさせていただけないかなと思って。……アポの、お電話をしました』
アポイント。
彼女の口から、その、社会人としてあまりに当然の、しかし私と彼女の間では一度も交わされたことのない言葉を聞いて、私は、ああ、本当に終わるのだなと実感した。
***
その日の午後三時。
約束の時間きっかりに、感染対策室のドアが控えめにノックされた。
「……どうぞ」
入ってきたひまりの姿を見て、私は少しだけ驚いた。
いつものきらびやかなネイルは、どこにもない。短く綺麗に整えられた清潔な爪。服装も、着崩したジャケットではなく、ボタンを一番上まできっちりと留めた白いブラウスに、紺のタイトスカート。
その手には、コンビニのコーヒーではなく、分厚い資料とタブレット端末、そしてサンプルの箱がぎっしりと詰まった、重そうなビジネスバッグが握られていた。
「……本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます。モリノコーポレーション、営業担当の小日向ひまりと申します」
彼女は深々と頭を下げた。
その、あまりに別人な姿に、私はかける言葉を失ってしまった。
ひまりはパイプ椅子に浅く腰掛けると、震える手でタブレット端末を起動させた。
「……ええっと、本日ご紹介させていただきますのは、弊社がこのたび新しく開発いたしましたN95マスク『セーフティ・フィット・プロ』でございます」
画面には、新商品のスペックが無機質なフォントで並んでいる。
「こ、こちらのマスクはですね、新素材の……ええっと、ナノファイバーを採用しておりまして。従来品に比べ、肌触りが格段に向上しております。これにより、長時間の着用による肌への負担を軽減いたします」
しどろもどろだ。
いつもの彼女のマシンガントークが嘘のように、言葉が途切れ途切れになる。
彼女は、必死でタブレットの文字を追っている。
「そ、それに、ゴム紐の部分には新開発のアジャスター機能がついておりまして。これにより、着用者一人ひとりの顔の形に合わせた、最適なフィッティングが可能となりました」
彼女は、おもむろにサンプルの箱からマスクを一つ取り出した。
「……実際に、着用してみます」
そう言ってマスクを顔に当てようとするが、焦っているせいか、ゴム紐が耳にうまくかからない。
「あ、あれ……? えっと……このように、ですね……」
マスクと格闘しながら、彼女は額に汗を浮かべている。
「……ま、また、マスクの前面には、小型のベンチレーション、つまり換気口がついておりまして……。これにより、マスク内部の湿気と熱を効率的に排出し、……あ、あの、すいません、ちょっと……」
ついに、彼女のプレゼンテーションは完全に止まってしまった。
マスクは中途半端に彼女の顎に引っかかり、その姿はひどく滑稽で、そして痛々しかった。
「……もう、いいわ」
私が静かに言うと、ひまりは観念したようにうなだれた。
その小さな肩が、悔しさに震えている。
「……すいません。練習してきたんすけど……。全然、ダメでした……」
私は、大きなため息を一つついた。
そして、できる限り冷静な声で、彼女に告げた。
「ええ、ダメね。全然ダメだわ」
「……はい」
「新商品の良さが、これっぽっちも伝わってこない。こんな自信なさげな営業から、誰が商品を買いたいと思うかしら」
私の容赦ない酷評に、ひまりの顔がさらに歪む。
「……一つ聞くけど」と、私は続けた。
「あなた、今、自分で話していて、楽しいと思った?」
「……いいえ」
「この商品、自分でも欲しいと思ったかしら」
「……思いません、でした」
「そうでしょうね。自分がそう思えないのに、他人の心を動かせるわけがないわ」
私は、彼女とひざを突き合わせるように椅子を動かした。
そして、その潤んだ瞳をまっすぐに見つめて言った。
「資料をなぞるだけがプレゼンじゃないわ。完璧な言葉を並べることだけが営業でもない。……いつものあなたでやってみなさい。あなたが一番楽しいと思えるやり方で。この商品の魅力を、私に伝えてごらんなさい」
私のその言葉に、ひまりはハッとしたように顔を上げた。
彼女はしばらくの間、何かを考えるように黙っていたが、意を決したように自分の頬を両手で叩いた。
その顔には、いつものあの太陽みたいな笑顔が戻ってきた。
彼女はタブレット端末の電源を落とすと、勢いよく立ち上がった。
「……真澄さん!」
その声は、もう震えてはいなかった。
「この、新しいN95マスク! マジで、バチくそヤバいんすよ!」
「……へえ」
「まあ、百聞は一見に如かず、って言うじゃないすか! まずはこれ、試着してみてください!」
ひまりはそう言うと、新しいマスクを箱から取り出し、私の顔に無理やり装着させてきた。
「うわ、何これ! 真澄さん、顔ちっさ! ゴム紐、めっちゃ余るじゃないすか!」
彼女は楽しそうに笑いながら、アジャスターを調整していく。
きゅっ、と紐が締まる。
マスクが、私の顔にぴたりと吸い付くような感覚。
「どうです、このフィット感! 顔の隙間という隙間が、全部埋められてる感じしません!? これなら、どんなウイルスもシャットアウト! まさに、鉄壁のディフェンス!」
彼女の言葉は、客観的なデータではない。
すべて主観的で感覚的だ。
でも……
「それに、この肌触り! スリスリしたくなるくらい、気持ちよくないすか!? これなら、一日中つけてても、肌、荒れませんよ! 女子の味方!」
「……」
「そして、このベンチレーション! 深呼吸してみてください! ほら! 空気がスーって抜けてく! 全然、苦しくない! これなら、真澄さんがラウンドで走り回っても、息切れしませんって!」
不思議だった。
さっきのしどろもどろのプレゼンでは、何も伝わってこなかった商品の魅力が、今の彼女の楽しそうな言葉からは、痛いほど伝わってくる。
このマスクが本当に素晴らしい製品なのだということが。
「……ええ。悪くないわね」
私がそう呟くと、ひまりは「でしょー!」と最高の笑顔で言った。
私はマスクを外すと、彼女に微笑みかけた。
「……やっぱり、あなたはそうでなくっちゃね」
「え?」
「あなたの、その太陽みたいな明るさと楽しそうな笑顔が、あなたの最大の武器なのよ。どこに行っても、それを忘れないようにしなさい」
そして、私はN95マスクのパンフレットを手に取りながら言った。
「……佐々木さんに伝えてちょうだい。このマスクのサンプルを各病棟に配って、見積書も一緒に持ってくるように、と」
「……え?」
今度は、ひまりが目を丸くする番だった。
「……買ってくれるんすか?」
「ええ。稟議が通ってからになるけど。あなたの初めてのガチ営業の、記念すべき初契約としてね」
ひまりの大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
彼女は慌てて、それを手の甲で拭う。
「……あざます……! マジで、嬉しいっす……!」
その泣き笑いの顔を見ていたら、私の胸の奥も、きゅっと熱くなった。
それと同時に、得も言われぬ寂しさがこみあげてくる。
この、騒々しくて手のかかる、嵐のような若者が、いなくなる。
来週から、この部屋は、また元の静かな城に戻るのだ。
「……一つだけ、約束してちょうだい」
「はい、なんですか?」
「あなたがネイリストになったら。一番最初のお客さんは、私にさせてくれる、と」
「……!」
ひまりは一瞬、言葉を失った。
そして、これまでで一番綺麗な、最高の笑顔で、力強く頷いた。
「……はい! もちろん、ですよ! 世界で一番、可愛くてカッコいいネイル、してあげますから! たとえ真澄さんが新潟にいたって、ネイルセットを持って駆けつけますよ!」
「……何よ、そのたとえ」
でも、その約束だけで、十分だった。
私たちは、きっと、これからも大丈夫だ。
そう確信できる、春の柔らかな光に満ちた、午後の出来事だった。




