ボーナスの使い道
「よっしゃあああ!」
あたしは、会社の自分のデスクで、誰に遠慮することもなく、勝利の雄叫びを上げた。
手にしているのは、一枚の紙。そう、冬のボーナスの賞与明細書だ。
そこに並ぶ、美しくも愛おしい数字の羅列に、心は今、最高潮にブチ上がっていた。
夏よりもちょっと多い。去年の冬よりも、ずっと多い。
これは、あたしがこの一年、汗水たらして、時には理不尽な上司にヘコヘコしながら、がむしゃらに頑張ってきた――その血と汗と涙の結晶なのだ。
(さて、どう使ってやろうか、この可愛いボーナスちゃんを)
頭の中では、すでに欲望の渦が、竜巻のように巻き起こっていた。
まずは年末に発売される『プラネット☆スターズ』の完全受注生産・豪華限定版Blu-ray BOX! これは絶対に外せない。
それから年始のドームツアー! 大阪と福岡は、絶対遠征したい。飛行機代に、ホテル代に、チケット代……。
いや、待てよ。この前ネットで見かけた最新のジェルネイルキットも捨てがたい。
新しいカラーも、ごっそり買い足したいし……。
ああ、どうしよう! 夢が広がりすぎるっ!
そんな幸せな悩みに胸を弾ませながら、あたしは営業車に乗り込んだ。
午後の最初の訪問先は、真澄さんのいる、あの病院だ。
そうだ、真澄さんにも自慢してやろう。そして、「パーッと使いましょ!」って誘ってみる。
そしたらきっと、「あなたねぇ、将来のことを考えなさい」って、いつものありがた〜い説教が返ってくるに違いない。
病院近くのコインパーキングに車を停め、顔に笑みを浮かべながら歩き始めたそのときだった。
バス停のベンチに、小さなおばあさんが座り込んでいた。足元には、大きな紙袋――無残にも底が抜け、中身のタッパーがごろごろと転がり出ている。煮物や漬物らしきものが、道に散らばっていた。
(うわー、大変そう……)
一瞬、見て見ぬフリをしようかとも思った。あたしは今、忙しいのだ。ボーナスの使い道を考えるので……。
でも、そのしょんぼりとした小さな背中を見たら、なんだか放っておけなかった。
「あのー、おばあちゃん、大丈夫っすか?」
声をかけると、おばあさんは、ゆっくりと顔を上げた。
「ああ、見ての通り、このザマでのう。これから孫に会いに行くとこなのに、途中で袋が破れちまってなあ」
「これ、全部手作り? すごい量ですね」
「んだ。あの子、ろくなもん食っとらんだろうからなあ。岩手からこれ、担いで来たんだよ」
「岩手!? 岩手って、青森より遠い所っすよね!」
私が思わず声を上げる。
「いや、青森よりかは近けえけどな」
「そんな遠くから、わざわざ、これ持ってきたんすか!?」
「ホッホッホ、人の話を聞かん娘っ子じゃの。んだ、一人暮らしの孫が心配でなあ」
私は、仕方なく、散らばったタッパーを拾い集め始めた。あたりに、醤油のいい香りが漂う。
「お孫さん、この近くに?」
「ああ、専門学校に通っとってな。この先をまっすぐ行って、角を曲がったあたりだと思うんじゃが……」
「なるほど。とりあえず、うちの会社の紙袋使ってください。けっこう丈夫なんで」
営業車に戻り、大きめの紙袋を持ってきて、煮物たちを丁寧に詰め替える。
「おお、すまねぇなあ。親切な人もいるもんじゃ」
「いえいえ。それで、その学校の名前、分かります?」
「それがなぁ……なんとかジャパン……だったかのう。あんた、知らんか?」
「さすがに、それだけじゃ……」
「だよなぁ……」
おばあちゃんは、肩を落として呟いた。
(この辺の専門学校なんて、そう多くないし、きっとすぐ見つかるか⋯⋯)
「おばあちゃん。じゃあ、一緒に探しましょう!」
「えっ、いいのかい? 悪いなあ……」
「いいんす、いいんす! 岩手から来たおばあちゃん、ほっとけないんで!」
こうして、私とおばあちゃんの、長い長い珍道中が始まった。
まず、歩き出してすぐ、おばあちゃんの歩くスピードはカタツムリ並みだと気づく。
「おばあちゃん、もうちょいスピードアップできません? 私、このあとアポが……(アポなんて取ってないけど)」
「無理だあ。わしはもうポンコツじゃ。急ぐと心臓がバクバクする」
「うーん……分かった。じゃあ、おんぶしてあげる!」
「そうかい、悪いなぁ」
私は、おばあちゃんを背負い、両手に荷物を抱えて歩くことになった。
「おばあちゃん、場所思い出しました?」
10分ほど歩いた頃、冬だというのに、汗がじんわり滲んでくる。
「そうだなぁ……お、あった、あった」
「えっ、本当!?」
私は立ち止まった。が、おばあちゃんが指さしたのは、道端の花。
「ほら、綺麗なパンジーじゃろ」
「パ、パンジーっすか……」
「わしは昔からパンジーが好きでな。爺さまが、よう買ってきてくれたもんさ。まぁ、昔の話だがな」
おばあちゃんは、遠くを見つめて呟いた。
「へえ、そうなんすね……おばあちゃん、愛されてたんすね。きっと、おじいちゃんも空の上から見守って……」
「爺さまは死んどらんぞ。今日も碁会所に行っとる」
「へっ!?」
思わず、声が裏返った。
「ホッホッホ、引っかかったのぉ」
「むー、行きますよ!」
あたしは、むくれて早足で歩く。さらに10分ほど進んだころ、
「喉が渇いたのぉ」
と言うので、自販機で温かいお茶を買って渡すと、
「うーん、あまり口に合わんのう。やっぱり、お茶はルイボスティーに限るわい」
そう言って、カバンから自前の水筒を取り出した。
「持ってるんかい! しかもルイボスティーって、無駄に女子力高えし!」
「ホッホッホ。お前さんは気が利くし、優しい娘っ子じゃ。きっといいお嫁さんになるよ」
「あはは、どうも……。彼氏、いないんすけどね」
「そうかい。わしの知り合いに、いい男がいるが、紹介してやろうか?」
「え!? マジっすか?」
「今年で七十五になるが、まだ畑仕事もしとる。この前なんぞ、熊を猟銃で仕留めてきたぞい」
「……やっぱり遠慮しときます」
あたしは、その場にしゃがみ込み、何気なく周囲を見回す。すると――
ビルの隙間に、『ジャパン…アカデミー』の看板が見えた。
「あれじゃないっすか、おばあちゃん!」
「おー、そうかもしれん」
ようやくたどり着いたのは、きらびやかなネイルスクール――『ジャパンネイルアカデミー』。日本で最大手のネイルスクールだ。
中には、あたしと同じくらいの年頃の学生たちが笑い合い、まぶしいほどの熱気と希望に満ちていた。
その空気に触れて、ふいに、自分が場違いな存在に思えてしまう。
(お姉さん、ネイリストになればいいのに)
この前、ゆずはちゃんが言った言葉が、胸の奥でちくりと疼いた。
「じゃあ、おばあちゃん、あたしはここで……」
「いや、待ってけれ。孫の顔、見ていってくれ。わしの自慢の孫だ」
「いやいや、いいですよ、そんな! あたし、急いでるんで!」
「まあまあ、そう言わずに。せっかくだから」
がっちり腕を掴まれ、ロビーのソファに座らされる。
「すぐ来ると思うから、ここで待ってな」
おばあちゃんは、辺りをキョロキョロ見ていたかと思うと、階段を降りてきた学生の集団に向かって手を振った。
「いたいた! おーい、美咲! こっちだ!」
「おばあちゃん!? なんでここにいるの!? 駅に着いたら電話してって言ったでしょ!」
美咲さんは、驚きと喜びと、少しの呆れが混じった表情をしていた。
「この綺麗な娘っ子が、わしを助けてくれたんよ」
「え、そうなの!? まあ、ありがとうございます。祖母が、ご迷惑おかけしたみたいで……」
ぺこりと頭を下げる美咲さんは、あたしより少し年上で、優しく、芯のありそうな人だった。
聞けば、彼女は一度就職したけれど、どうしても夢を諦めきれず、会社を辞めて、この学校に入学したという。
その話に、あたしの胸が、またずきりと痛んだ。
ふたりに何度もお礼を言われながら、あたしはその場を足早に後にする。営業車に戻り、シートに身を預けた。
無意識にスマホを取り出し、検索窓に打ち込む。
『ジャパンネイルアカデミー 学費』
表示されたゼロの数に一瞬、めまいがする。
でも、諦めずに電卓アプリを開く。学費、貯金、今回のボーナス、入学金……。
(……あれ? なんとか、なるかも……?)
節約すれば。遠征を我慢すれば。
その気になれば、きっと……。
心臓が、ドクン、と跳ねた。
可能性がゼロじゃないと知ってしまった――それだけで、世界が少し変わる気がした。
あたしは、スマホの画面をそっと閉じ、車のドアを開けた。
感染対策室の前に立つ。ドアの向こうに、真澄さんがいる。
『あたし、やっぱり夢、諦めきれないかもしれないんです』
そう伝えたい気持ちはある。でも、まだ言えない。覚悟も、決まっていないから。
あたしは、大きく深呼吸をした。そして、いつもの私に戻る。
――よし。
スマホをバッグの奥にしまい、太陽みたいな笑顔で、ドアを開けた。
「しつちょー! ちょっと遅くなっちゃいましたけど、今週も来ましたよー! 面白い話しがあるんすよ!」




