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真澄の友人

 秋も深まり、肌寒さすら感じるようになった十一月の月曜日。

 あたしは、いつものように、週に一度の聖地巡礼へと向かっていた。

 手にはもちろん、新作の焼き芋フラペチーノと、室長用のホットコーヒー。いくらなんでも、アイスの季節は終わりだ。


 コツ、コツ、コツ。


 軽快なヒール音を響かせ、感染対策室のドアの前に立つ。

 よし、今週はどんなネタで、あのクールな室長を笑わせてやろうか。

 先日の『BL小説読書事件』以来、あたしたちの関係は、さらに一段階深まった(と、あたしは思っている)。

 もはや、ただの営業と顧客じゃない。あたしたちは、ズッ友なのだ。


「しつちょー! 今週も、元気に営業に来……」


 あたしは、いつものように威勢よくドアを開けようとして、ぴたり、と動きを止めた。

 ドアが少しだけ開いていたのだ。

 そして、その隙間から聞き慣れない穏やかな女性の声と、それに応える室長のいつもより少しだけ弾んだ声が、漏れ聞こえてきた。


「……だから、あの時のオペは本当に大変だったのよ。大河原先生ったら、急に術式を変更するんだもの」

「あはは、あった、あった! 『神の手を持つ暴君』ね。でも、それを涼しい顔でさばいてた真澄も、大概すごいけどね」

「やめてよ、美加子。あなたこそ、あの状況で的確に必要な器材を揃えてくるんだから。さすがだわ」

「まあね。それが、私の仕事だったから」


 ……誰?

 あたしの知らない、女の人。

 そして、あたしの知らない真澄さんの顔。

 彼女が誰かを下の名前で呼ぶなんて。

 誰かにそんな気を許したような、柔らかい声で話すなんて。

 あたしは、ドアノブにかけた手をそっと下ろした。

 心臓が、どきり、と嫌な音を立てる。

 なんだろう、この感じ。胸がざわざわする。


 あたしが知っている真澄さんは、いつもクールで、たまにお茶目なところもあるけれど、基本的には誰に対しても、一枚壁を作っているような人だ。

 あたしは、その壁を毎週、毎週ノックし続けて、ほんの少しだけ中に入れてもらえるようになった、と、そう思っていた。

 なのに。

 今、目の前にいるのは、あたしの知らない別の人みたいだ。


「……で、その文献、今日、借りていってもいい?」

「ええ、もちろん。持っていきなさい」


 どうやら、話は終わりそうだ。

 あたしは、とっさに廊下の角に身を隠した。

 何をしているんだろう、あたし。まるで、不審者じゃないか。

 でも、今このまま中に入っていく勇気はなかった。

 あたしなんかが、彼女たちのあの特別な空間に踏み込んでいいわけがない。


 やがて、ドアが開き、知的な雰囲気の綺麗な女性が出てきた。ロングヘアがよく似合う、白衣の似合いそうな人。きっと、お医者さんか、研究者さんか、そんな感じだろう。

 彼女が、廊下の向こうに消えていくのを見届けてから、あたしはもう一度ドアの前に立った。

 どうしよう。今日は、もう帰ろうか。手の中のコーヒーがやけに重い。


 あたしがうじうじと悩んでいると、中から声がかかった。


「……そこに、いるんでしょう、小日向さん。いつまで、隠れているつもり?」


 バレてた。

 あたしは観念して、おそるおそるドアを開けた。


「……ち、ちわーす」

「いつから、いたの?」

「……今、来たとこです」


 分かりやすい嘘をつくと、真澄さんは大きなため息をついた。

 その顔は、いつものクールな室長の顔に戻っている。

 さっきまでの、あの、柔らかい表情はどこにもない。名前でも呼んでくれない。

 それが、なぜか少しだけ寂しかった。


「まあ、いいわ。入りなさい」


 促されて、あたしはパイプ椅子におとなしく座った。

 でも、何を話していいか分からない。

 いつもみたいに、バカな話をして真澄さんに呆れられるのが怖かった。

 さっきの知的な女性。

 彼女とあたしは、あまりにも違いすぎる。

 あたしなんかが、馴れ馴れしく真澄さんと親しくしていると彼女に知られたら、真澄さんもきっと迷惑だろう。


「……これ、差し入れです」


 あたしは、静かにコーヒーを差し出した。


「ありがとう」


 真澄さんはそれを受け取ると、静かにパソコンに向き直ってしまった。

 重い、沈黙。

 いつもなら、あたしがこの沈黙をマシンガントークでぶち壊すのに。

 今日はその言葉が一つも出てこない。


「……あなた、今日どうしたの? やけに、おとなしいじゃない」


 沈黙を破ったのは、真澄さんの方だった。


「いえ、別に……ちょっと、営業で疲れちゃっただけです」

「そう」


 会話が続かない。

 気まずい。居心地が悪い。

 もう、帰ろう。そう思った、その時だった。


「ごめんなさい、真澄! 忘れものしちゃって!」


 さっきの知的な女性が、息を切らしながら部屋に戻ってきた。

 彼女は、あたしの存在に気づくと、少しだけ驚いた顔をした。

「あら、お客様? ごめんなさい、お邪魔しちゃって」

「い、いえ! とんでもないです! あたしの方こそ、お邪魔してますんで! あの、私、モリノコーポレーションの小日向ひまりと申します」


 あたしは、慌てて椅子から立ち上がり、名刺を差し出した。完璧な営業スマイルで。


「……小日向さん、あなた、営業らしいことできたのね」


 真澄さんが、呆れたように呟く。


「あ、当たり前じゃないですか。三上室長」

「三上室長? あなた、私のこと、そんな風に呼ばないでしょ?」

「い、いえ、呼んでましたよ。えっと、少なくとも心の中では……」

「は? あなた、今日どうしたの?」


 美加子さんは、そんなあたしたちの、ちぐはぐな様子を面白そうに見比べている。


「ふふ。あなたが、噂の?」

「噂?」

「ええ。真澄が、最近、楽しそうに話してくれるのよ。『週に一度、嵐が来る』って」

「……ちょっと、美加子!」


 真澄さんの顔が、少しだけ赤くなる。

 美加子さんは、あたしに向き直ると、優しく微笑んだ。


「あなたが小日向さんね。はじめまして、清瀬看護大学の南條美加子です」


 そう言って、差し出された名刺には、『清瀬看護大学看護学部准教授 南條美加子』と書かれていた。

 思ったとおり、学者先生だ。


「それで、小日向さんは真澄とどういったご関係? 見た感じ、単なる営業と顧客って訳じゃなさそうだけど」


 その質問に、あたしは言葉に詰まった。


 どういう関係?


 ただの、営業と顧客。それだけだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 あたしが勝手に懐いて、馴れ馴れしくしているだけ。


「えっと……あたしは、こちらの病院を担当させていただいている、ただの、業者でして……」


 あたしが、しどろもどろに、そう答えようとした、その瞬間だった。


「友達よ」


 凛、とした声が部屋に響いた。

 声の主は、真澄さんだった。

 彼女は、あまりにも事も無げにそう言ったのだ。


「え……?」


 あたしは、自分の耳を疑った。

 友達? あたしが? この、三上真澄さんの?


「だって、そうでしょう?」


 真澄さんは、戸惑うあたしを見て、少しだけ意地悪そうに笑った。


「毎週、毎週、仕事でもないのに、わざわざ顔を見に来て。他愛もない話をして、一緒に笑ったり、泣いたりする。そういうのを、世間一般では、友達、と言うんじゃないかしら」


 その言葉が、すとんと、あたしの胸に落ちてきた。

 じわじわと、温かい何かが広がっていく。

 視界が滲む。

 ダメだ、泣いちゃ。


「……ず、ズルいっすよ、真澄さん……」


 あたしは、鼻をすすりながら言った。


「そんな、不意打ちで、そんなこと言うなんて……」

「あら、不意打ちかしら?」

「不意打ちです! もう、最高にキュンとしちゃったじゃないすか!」


 あたしは、涙を、ごしごしと乱暴に拭うと、いつものあたしに戻った。

 そうだ、何をうじうじしてたんだ。

 あたしたちは、ズッ友、なんだ。


「いやー、美加子さん! はじめまして! ひまりって言います! 真澄さんの親友です!」


 あたしは、美加子さんの手を両手でがしっと握った。


「まあ、よろしくね、ひまりちゃん」


 美加子さんは少しだけ驚きながらも、楽しそうに笑ってくれた。


「ていうか美加子さん、めっちゃ綺麗ですね! 肌とか、つやつや! どんな、スキンケア使ってるんすか!? 」

「ちょっと、小日向さん! 初対面の人に、馴れ馴れしいわよ!」


 真澄さんの、いつものツッコミが飛んでくる。

 ああ、これだ。これが、あたしたちのいつもの空気だ。


「てか、美加子さん。真澄さん、いつまでたってもあたしの事を下の名前で呼んでくれないんすけど」

「ああ、昔からそうなの。私も下の名前で呼ばれるまで丸一年かかったわ。大丈夫、照れてるだけだから」

「ちょっと、美加子。そんな訳ないわよ」

「へえ、じゃあ、あたしのこと『ひまり』って呼んでくださいよ」


 あたしは、わざと意地悪く言ってやった。

 真澄さんのことだ、きっと顔を赤くして「ひ、暇じゃないのよ」とか言うに違いない。


「ひ……ひ、暇じゃないのよ。私は。用がないなら帰りなさい」


 真澄さんは、顔を赤くしてパソコンに向き直した。

 想像通りのその反応が可愛くて、おかしくて、あたしは美加子さんと見合って笑った。


「な、何がそんなにおかしいのよ」


 むくれながら真澄さんが振り向くが、やがて、うちらにつられてクスクスと笑い出した。

 その日の感染対策室は、三人分の楽しそうな笑い声で満たされていた。

 あたしの知らない、真澄さんの世界。

 その扉が、ほんの少しだけ、あたしのために開かれたようなそんな気がした、特別な月曜日の午後だった。


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