聖女子と生贄 その6
「アロン様、気付きました」
この優しい声……俺に安らぎを与える声だ。ああ、そうだ、鈴だ。鈴はエマと違って、俺に嫌みを言ったりして絡んでくることはない。
エマか……エマ……。
はっとして、俺は勢いよく起きあがった。
ごつん、と音がして、アロンが眉間に皺を寄せて額を抑えている。ついでに、俺も頭に当たった衝撃に、思わず「いてっ!」と声に出す。赤くなっているであろう額を抑えながらも、俺はきょろきょろと辺りを見回した。
セイントがいない。ここは、アロンの部屋だ。俺は、どうしたんだ。
そうだ、確かセイントに何かされた後に、気を失ったんだ。その後エマは……――
エマがいない?
「おい、エマは?」
すぐそばにいたアロンに俺は尋ねた。アロンは鈴に差し出された氷を額に当てながら、俺の方に視線を向ける。
「休んでるわ」
「何があったんだ」
「……」
こいつらはよく黙る。この間合いは嫌な物を感じる。
休んでる? 休むということは部屋にいるのか?
俺はベッドから降りると、まだふらつく足にぐっと力を入れる。
くそ、セイント、俺に一体何をしたんだ。まともに立つこともできないじゃねえか。
ふらふらと扉の方へと物を伝って歩いていく。だが、靴音が近づいてくると、俺の目の前にアロンが立ちはだかり「ダメよ」とだけ呟いた。
「何がダメなんだ」
「貴方の体は、セイントから受けた電撃の攻撃のせいで、まだ麻痺しているの」
「そんなのいつか治る。それよか、エマの所に行かねえと」
「ダメよ」
アロンは再びそう言うと、俺の右手に手錠をかけ、アロン自身の左手にもう一方の手錠をかけた。少し長めの手錠だ。
「何だよ、これ」
「貴方は暴走しかけている。正常な判断も怪しいわ。今はエマの所へ行ってはダメ」
アロンは左腕に力を入れると、男の俺をいともたやすくベッドに連れ帰る。
今はそれどころじゃねえって言ってるのがわからないのか。
俺はイライラとした。正常な判断とかそんなのどうでもいい。あの後エマがどうなったのか知りたいだけなんだ。無事なら無事と言えよ。
俺とアロンはしばし睨みあっていた。そんな様子を椅子に座ってしばらく見ていた鈴がおもむろに立ちあがり、俺の前に佇む。
「エマ様の所へ行きたいと言うのなら、私に触れなさい」
「は……」
鈴はじっと俺を見つめていた。また触れればどうなるかわかっているだろうが。同じことの繰り返しだ。こいつは何を言ってるんだ。
「エマ様は、貴方に会いたくないと言っているんです」
「そんな、馬鹿な」
信じられるか。さっきまで普通に会話してたんだ。しかも、あいつから傍にいることを望んできたんだ。それを今度は拒むのか。
拒まれることにショックを受けるよりも先に、俺には疑問しか生じなかった。言っていることが、無茶苦茶なんだ。
「百聞は一見にしかずだろ」
「そう言うと思いました。だから、貴方はどうしてもというなら、私に触れなさいと言っているんです」
鈴は表情を変えず、怒りもせず、笑いもせず俺にそう放つ。できるわけないと、わかって言っているのだ。
エマに一体何が起きたんだ。理由も言わずに、ただ会うなと、彼女達は言っているのだ。理由が言えないのか。それとも言ってはいけないのか。
俺は手錠で繋がれた先の女に目をやる。彼女も相変わらず、俺をじっと見つめていた。
「あいつに、何があったんだよ……」
「……」
そら、まただんまりだ。これが俺を異常に苛立たせる。
エマが無事に帰還したわけではないことはこいつらの反応でわかる。だからこそ、知る権利があるだろう。今回の事件は俺が招いたことだ。
「俺に教えられない理由ってなんだよ……」
この時初めてアロンは俺から視線を外す。彼女が目を反らすことなんてそうあることじゃなかったから、俺は改めて、嫌な予感を増幅させた。
「エマ様は……」
「鈴、ダメよ」
「でも、アロン様。このままではきっと無理にでもエマ様の部屋へ彼は行きますよ」
「それでも今はダメ。わかって鈴」
何か言おうとした鈴を制し、アロンは鈴を部屋から出るように促す。鈴は、一度お辞儀をして、その場を去っていった。
「……」
「……」
ただただ、静寂の時だけが流れた。その間に足のしびれも取れてくるのがわかる。今なら、アロンを無理矢理引っ張っていくこともできるだろう。だけど――
ちらりと右側に座り込むアロンを見た。彼女もまた伏せている。
「ったく、なんだよ。お前らいつも何考えているのかわかんねえよ」
露骨にため息をついてみた。
何か反応するかと思ったが、彼女は何も言わずに、まだ床を見つめている。さすがにこうなると気まずい。俺がいけないのか、これは。
項垂れて、俺も床を見つめる。エマは無事なのだろうか。それだけが頭の中を巡っていた。
刹那、床に映る俺の影に、アロンの影が重なった。見上げると、彼女はすぐ目の前にいて、俺の頬に触れていた。
「儀式の時間よ」
「こんな時にも儀式優先かよ」
呆れた、といった顔をしてやった。だがこれがいけなかった。彼女の瞳にみるみる涙がたまっていくのだ。
おい、馬鹿野郎。お前、こんなことで泣くやつじゃないだろ? どうしたんだよ!
慌てる俺に、彼女のぎりっと奥歯を噛みしめる音が響いた。泣くのを我慢しているのがわかる。
そしてそのまま儀式は遂行された。だけどそれは、いつもより、軽く、だけど長いものだった。触れるだけの唇に、しょっぱい物が流れ込んでくる。
ああ、また泣かせちまった。
今日はやけに泣かせる日だ。別に泣かせたいわけじゃないのにな。
「悪い」
自ら唇を離すと、俺はアロンの顔を見ずに肩に引き寄せ、彼女の頭を撫でた。今できることはこれくらいしかないだろう。
エマの事は気になる。だけど、何が起きたのか一部始終知っているこいつらは、こいつらなりに悩んで、何か我慢しているのだろう。俺には言っていけないと、何かを自制しているようにしかみえない。
手錠のついてない方の手でひとしきりアロンの頭を撫でてやった。その間俺はずっと「悪い」とだけ、言っていた。




