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幻燈館「地獄の世界」  作者: 独蛇夏子
幻燈館「地獄の世界」
13/19

背反連理

即興小説より転載 お題:秋の消しゴム 制限時間:4時間

 向こうに浮かぶ光が、出口に見えたかい?

 それはまだ甘い。あれも地獄の世界に浮かぶ哀れな人の『記憶』の標本に過ぎないのさ。

 地獄の世界には絶望もあった。胸糞悪くなるような奇態もあった。

 だが、中には希望を持った人の光もあった。

 地獄の世界にある希望は、きっとすべて、蝋燭の火のようにふっと掻き消されてしまったものたちさ。

 絶望によって千切れた夢の欠片も、ここには地獄を味わう者たちの幻想夢幻として散っているのさ・・・。



 さて、まるでチープなキネマのような物語がここにあるよ。

 ご覧。二人の男女がいい雰囲気で寄り添っている。


 見ての通り彼と彼女はいい仲なのさ。夜の煌めく繁華街を、寄り添って歩く素敵な恋人たち。そのカップルのひとつさ。

 幸せそうだろ?羨ましいだろ?

 だが、忘れちゃいけない、彼らは地獄の世界の住人。

 彼らも地獄を見た哀れな者たちなのさ。


 赤いコートに赤いリボンの飾りがついた黒い帽子を被った女。洒落ていて、美しいだろ?まるでどこかの御令嬢のよう、綺麗に着飾っている。

 しかしその実態は、年増な娼婦なのさ。とある娼館に長く勤めている、スレた女さ。清貧な童顔だから年下で経験のあまりない女だと勘違いされやすい。都合のよいことにね。

 結構な売れっ子だったようだよ。

 こんな顔して、あんなことをする。

 そんなギャップがたまらないという男は多かったようだ。

 彼女は時折外で男を引っかけて、見事にその懐に入り込み、客をとってくることもした。

 彼に声をかけたのも営業のひとつだったろう。彼は上品な身なりをした、紳士だったからね。案外そういう男こそ下世話な戯れを求めるものだ。彼女は経験上それを知っていた。

 彼女は割り切って、男と付き合い、常に金を貢がせる女だった。

 そのはず、だった。


 それがどうだい?

 頬を林檎のように染めて、目を潤ませて、男を見つめている。

 どうやら、本気で恋に落ちてしまったらしい。


 滑稽なものだ。

 次は紳士についてお話しよう。


 シルクハットに燕尾服、上等そうに見えるステッキを手にしたこの紳士。

 きちっとした身なりをしているが、実は労働階級の貧しい男なのさ。

 男ぶりがよかったし、綺麗好きだったからこんな格好も様になったのだろう。

 彼はある日、掃除夫をしていて、貴族がこの正装一式を捨てるのを見かけたのさ。勿体ないから頂戴した、というわけ。貴族の正装に対する憧れも手伝った。

 正装はぴったりと体に合い、まるでもとから彼のもののように着こなせた。

 鏡で見ると、彼は自分が自分でないかのように見えた。そうなると、外に出かけてみたくなる。彼はその格好のままで、散歩に出かけたのさ。


 言わずもがな、そんなときに彼は彼女と出会った。

 彼女はとても愛らしい、清貧な雰囲気の、令嬢に見えた。


 彼女は横暴で居丈高な反応を予想しながら彼に近付いた。

 いつもだと、わざとぶつかって、ごめんなさいね、あらやだお洋服を汚してしまったわ、お詫びにそこの珈琲店でご馳走させて・・・と男を店に誘う。そこで巧みな話術で男を盛り上げ、男が彼女の話に夢中になったところで、娼館の名刺を渡す。たいてい、それで上手くいった。


 しかし、彼女にぶつかられた彼は、大いに慌てたんだね。

 見惚れていた女とぶつかってしまったのだから。

 彼女が口を開くより前に、ごめんなさい、お怪我はしませんでしたか、と聞いた。


 彼女は彼の実に親切な口ぶりに面食らった。

 大体の男は、まずぶつかられたら、怒り狂うからね。


 彼は見惚れてぼんやりしていたが、繁華街で、綺麗な御嬢さんが一人で歩いた事実に気付いて驚いた。

 親切な彼が、夜更けだから送ってあげようと考えるのは、自然なことだった。


 彼は面食らっている彼女に言ったのさ。

 家に送ってあげよう、家はどこだい、と。


 こういうことを言う男は時にいる。甘言で女の部屋に忍び込もうとする輩さ。騙されまいと思った彼女だったが、何故だろうね、つい、嘘を吐いてしまった。

 彼の滲み出る人のよさを、百戦錬磨の女は無意識に見抜いていたのだね。

 しかしそれが幸福だったのか、災厄だったのか分からない。

 彼女は高級住宅街の嘘の住所を告げ、彼に連れて行ってもらうことにした。


 二人で歩きながら、彼も彼女に嘘を吐いた。

 金持ちで、高貴な紳士だと彼女が思うようなことばかりを言った。

 素敵な女性に会えば、虚勢をはりたくなりものさ。


 これが二人の出会い。

 嘘を吐き合って、それでいて恋に落ちた瞬間さ。


 彼女はそれ以後、客引きに街をぶらぶらしながら、彼の姿を目で探すようになった。

 彼も、度々正装して、彼女を探しに街に行くようになった。


 彼女と彼は出会うと、まるで貴婦人と紳士がするように、優雅な挨拶をした。

 彼女はなるべく装った。高価に見えそうな金のイヤリングをして、安い天然石のネックレスをつけ、娼館の女将から拝借した高い香水をつけた。

 彼もなるべく装った。彼女と会っても大丈夫なよう、一生懸命働いて金を作り、服は綺麗に整えておいて、また自分自身も清潔にした。

 不思議とバレなかった。

 お互い、いつバレるかと緊張していたんだろうね。


 滑稽な茶番さ。

 ただの娼婦と薄汚い労働者が、貴族の真似事をして、薄っぺらい嘘の舞台の上で出会う。

 安っぽくて、脆いキネマさ。


 彼は彼女と会うと、珈琲店やキネマに誘った。彼女は微笑みを浮かべ、同意して彼に寄り添った。

 二人は楽しく話をしたよ。

 二人とも、会っている間は自分が誰なのかを忘れた。


 春、夏、と彼らは度々会って共に過ごし、互いに嘘を隠し通しながら、お芝居を続けたのさ。

 花咲く季節に共に花を愛で、知りもしない花の名前を造語しては教え合う。

 湖畔の舟遊びは、どんな景色がいいかでっちあげの風景論。

 すべては虚構で成り立ち、帰れば弾けて散る泡沫のような日々。

 しかし彼女は別の男に抱かれながら、彼は薄汚い寝床にもぐりこみながら、夢を見ることができた。

 不透明な生活の中で、彼女と彼、お互いが唯一の希望だったのさ。

 嘘だろうと、幸福は本物だった。


 だが、こんな日々は長くは続かない。

 二人は本物の貴婦人・紳士ではないし、すべては嘘から成り立っている・・・。

 すれ違うことは、最初から予測されたことだったさ。

 悲劇は想像よりも悲惨なものだがね。


 木枯らしが吹き始めたある日、彼は正装して繁華街に行ったが、彼女は待ち合わせの時間に来なかった。

 春物の正装は身に沁み、寒かったろうね。

 それでも彼は彼女を待った。彼女を探して歩き回った。

 しかし、彼女は遂にやって来なかった。

 彼は絶望した。家にふらふらと歩いて帰り、大事にしていた燕尾服のまま薄汚い寝床に倒れ込んだ。目の前の景色が灰色に見え、崩れ去っていくかのように感じる彼・・・哀れだろう?


 彼女はどうして来なかったか?

 彼の頭の中では、その疑問ばかりがこびりつく。

 だが彼は自分が彼女と結ばれるわけがなかったと分かっていた。

 彼女は正真正銘の、貴婦人なのだから。

 本当の自分なら、最初から付き合えるわけがない。釣り合うわけがないのだ。

 彼は絶望の淵に沈み、大変落ち込んださ。

 綺麗な貴婦人を、夢に見ながら、彼は叶わない思いに引き裂かれそうになった。



 本当は、彼女はどうなっていたと思う?

 その前の晩、とった客に残虐なサービスを求められて、虫の息になっていたのさ。


 彼女は客の暴力に耐えて耐えて、ひたすら彼のことを考えていたさ。

 明日になれば彼に会えるのだと。

 夢でも馬鹿でも自分の噓であっても、貴婦人として大切にしてくれる、優しい彼に会えるのさ。

 それならどんなことだって、耐えられる気がしたのさ。


 しかし彼女は歩けないまで傷付けられた。

 翌日、出歩けるわけがなかったのだよ。見るも無残な姿になってしまったからね。

 それでも、また彼に会える可能性があったら、よかったかもしれない。

 運命は残酷だった。

 悪いことに、どこまでも暴力に耐える彼女を気に入った客はね、彼女を娼館から買い上げてしまったのだよ。


 彼女のその時の絶望は推し量るべし。

 辛いことも彼に会えることを夢見て耐えた、そのことが仇になって、自分は他の男のものとなってしまったのだ。

 鬼畜で、悪い男のねえ。


 もともと嘘をついていた。

 いつかは破局の訪れがある関係だったといえよう。

 それでも、ある日突然、断絶された悲しみは、彼女の想像以上のものだった。


 彼女は娼館の屋上から身投げして、死んでしまった。

 愛しい愛しい紳士を思いながらね。



 彼は娼館の女が屋上から身投げした、ということは新聞で知っていたかも知れない。

 だが、彼が求めるのは綺麗な貴婦人で、決して娼館の娼婦ではなかった。

 秋のある日に、彼が夢想した貴婦人の存在そのものが消えてしまったことも、彼は知らなかったのさ。


 現れなくなった彼女のことを思いながら、彼は労働者にとって最も危険な仕事といわれる鉱山の採掘場に働きに出ることにした。彼女への思いを振りきるために、二度と街には戻らないつもりで、命を削るような気持ちで。

 幻想の貴婦人を忘れよう、という試みは、うまくいかなかったようだね。

 まあ、紙に描いた鉛筆の絵だって、消しゴムで消そうとしても完全に消えないものさ。

 彼は無我夢中で働いて、体を酷使したせいで、コロッと死んでしまった。


 救いようのない、愚かな二人さ。


 『記憶』の標本になっているのは、幸せそうな恋をした二人。

 彼らがそれぞれ最期に思い浮かべたのは、本当は大切にされたい娼婦の女でも、見栄っ張りだが優しい労働者の男でもないのさ。

 清らかな貴婦人。

 貴族にしては優しい紳士。

 虚構が作り上げた自分の恋人なのさ。


 彼女は辛いこれからの人生を捨てて、叶わない恋に絶望しながら最期を迎えた。

 彼は嘘をついた罪悪感を抱え、自分の生活に絶望しながら、愛しい彼女を夢想して最期を迎えた。

 恋をした二人は、それぞれの真実の恋人を知らぬまま、それぞれ嘘で作り上げた恋人だけを思い浮かべながら、死んでいったのさ。



 ・・・この、幸せそうに寄り添う恋人たちが、不幸の産物なのか、それとも幸福なのか、解釈次第だと思うねぇ。

 だがね、もしも二人が真実の姿で出会っていたら?

 気取らず、嘘もなく、二人は恋をしたのではなかろうか。

 互いに、叶わない相手だと思いながら、ふっと息を吹きかければ消えてしまう蝋燭の火のような一瞬の夢として、二人の時間を扱ったりしなかったのではなかろうか。

 二人の寄り添う姿は、さまざまな、もし、という思いを抱かずにはいられない哀しい恋人たちの姿なのさ。


 こうして千切れてしまった幸せな夢だけが、この地獄の世界で生き続けている。

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