↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/15

第1話:予期せぬ旅立ちと王都の夜


「お父さん、今日もいいお天気ですよ」


小さく澄んだおりんの音が、静かな和室に響き渡りました。

小糸(こいと)は、仏壇に飾られた遺影に向かって、しわの刻まれた手を静かに合わせました。写真の中で微笑んでいるのは、三年前に先立った夫の健三(けんぞう)です。頑固で口下手でしたが、誰よりも情に厚く、料理に対しては一切の妥協を許さない職人でした。


二人は長年、夫婦二人三脚で小さな小料理屋を営んできました。健三が厨房で腕を振るい、小糸がカウンター越しにお客さんの話し相手になる。それは、決して派手ではありませんでしたが、確かな温もりと笑顔に満ちた、小糸にとって何よりも愛おしい時間でした。

健三を見送ってからというもの、店を畳んだ小糸は、七十歳という年齢もあり、一人で静かな余生を送っていました。庭の草花に水をやり、三食の食事を丁寧に作り、一日を平穏に終える。残りの人生は、ただこうして静かに過ぎていくものだと、小糸は疑いもしませんでした。


あの日、足元に眩い光の陣が現れるまでは。


「……えっ?」


買い物に出かけようと、玄関の戸を開けようとしたその瞬間でした。

小糸の足元の床板の上に、見たこともない複雑な幾何学模様が、青白い光を伴って浮かび上がったのです。驚いて後ずさりしようとしたものの、光は瞬く間に小糸の全身を包み込みました。目を開けていられないほどの強烈な閃光と、体がふわりと宙に浮くような浮遊感。

そして次に小糸がそっと目を開けた時、そこは住み慣れた自宅の玄関ではありませんでした。


「おお……! 成功だ! 聖女召喚、成功いたしましたぞ!」


耳をつんざくような歓声が響きました。

小糸の目に飛び込んできたのは、見上げるほど高い天井と、見事な彫刻が施された巨大な石の柱。床には深紅の絨毯が敷き詰められ、まるで西洋の歴史映画にでも出てきそうな、豪奢な石造りの大広間でした。

周囲には、杖を持ち、丈の長いローブを羽織った魔術師のような人々が何人も立ち並び、興奮した様子でこちらを見ています。そして正面の少し高くなった場所には、王冠を被った立派な髭の壮年の男性と、きらびやかな衣装を身にまとった大臣らしき人物が立っていました。


小糸は状況が飲み込めず、ゆっくりと辺りを見回しました。すると、自分のすぐ隣に、もう一人、見知らぬ若い娘が座り込んでいることに気がつきました。学生服を着たその娘もまた、突然の出来事に震え上がり、大きな瞳に涙を浮かべて周囲を見回しています。


「おお、神よ! 聖女様が、お二人も……!」


興奮気味に叫んだ魔術師の一人が、小糸たちの元へ歩み寄ってきました。しかし、震える若い娘の顔を見た後、隣に立つ小糸に視線を移した瞬間、その魔術師の顔からサァッと血の気が引いていくのが分かりました。


「な、なぜ……このような、老婆が……?」


魔術師の呟きを皮切りに、大広間は水を打ったような静寂に包まれました。王座に座る王も、隣に立つ大臣も、目を白黒させて小糸を見つめています。

無理もありません。異世界から国を救うために喚び出された存在が、白髪混じりの髪を後ろでひっつめ、地味なカーディガンを羽織った七十歳の老女だったのですから。


「と、とりあえず、お二人のスキル鑑定を! 聖女様としての力をお持ちかどうか、確認するのだ!」


大臣の慌てた声に促され、立派な台座に乗せられた透明な水晶玉のような道具が運ばれてきました。

まずは、隣の若い娘が恐る恐る水晶玉に両手を触れます。すると、水晶玉は神々しい黄金色の光を放ち、空中にいくつかの文字が浮かび上がりました。


「おお!『聖光魔法』に『特級治癒』! 間違いありません、この娘さんこそ、我がルミナス王国を救う本物の聖女様です!」


大広間が再び割れんばかりの歓声に包まれました。若い娘は困惑しながらも、メイドたちに優しく手をとられ、王座の方へと案内されていきました。

残されたのは、小糸一人です。

「さ、さあ、御老人も……念のため、その水晶に触れてみてください」

魔術師に促され、小糸は落ち着いた足取りで進み出ると、しわだらけの手をそっと水晶玉に置きました。

しかし、先ほどのようなどよめきは起きませんでした。水晶玉はほんのわずかに、ぼんやりと温かい橙色の光を放っただけです。そして空中に浮かび上がった文字を読み上げた魔術師は、ひどく困惑した声を漏らしました。


「す、スキル……『おばあちゃんの知恵』……?」


広間が再び静まり返りました。

「おばあちゃんの知恵、だと? 攻撃魔法でもなく、治癒魔法でもないのか?」

「はい……そのようなスキル、古文書にも記されておりません。恐らくは、戦闘にも国政にも、何の役にも立たない無用のスキルかと……」


魔術師と大臣がヒソヒソと話し合う声は、静かな広間の中で小糸の耳にもしっかりと届いていました。

どうやら、自分は何かの手違いで、あの若い娘の「おまけ」としてこの見知らぬ世界に巻き込まれてしまったようです。七十年の人生で、数々の苦労や理不尽を経験してきた小糸にとって、慌てふためくようなことではありませんでした。むしろ、申し訳なさそうにこちらをチラチラと見る大臣の様子に、小糸の方が気を遣ってしまうほどです。


やがて、重い足取りで大臣が小糸の前にやって来ました。

「あの……誠に、申し訳ございません。どうやら召喚の儀式の際、手違いであなた様まで巻き込んでしまったようです。ここはルミナス王国という国なのですが……現在の我が国には、聖女様でない方を城で手厚くお養いする余裕がなく……」

大臣は言葉を濁しながらも、要するに「お城から出ていってほしい」ということを、ひどく遠回しに伝えてきました。


「ええ、分かっておりますよ。私のようなおばあさんがお城にいても、お邪魔になるだけでしょうから」

小糸が穏やかな声でそう答えると、大臣はホッとしたように息を吐き、後ろに控えていた従者に合図を送りました。

「追い出すような形になってしまい、王国の者としてお恥ずかしい限りです。これは、せめてものお詫びと、当面の生活資金です。どうかお受け取りください」


従者から差し出されたのは、ずしりと重い革袋でした。中を開けると、鈍く光る金貨が十枚入っていました。大臣の言葉によれば、この国ではかなりの大金であり、これがあれば当面の間は裕福に暮らせるだろうとのことでした。

小糸は静かに頭を下げ、革袋をしっかりと胸に抱きました。

「お気遣い、ありがとうございます。それでは、私はこれでお暇させていただきますね」


誰を責めるでもなく、取り乱すこともなく、背筋を伸ばして静かに一礼する小糸の姿に、大広間にいた者たちはみな、どこか気圧されたような表情で見送りました。


城門を抜け、ルミナス王国の城下町へと足を踏み入れた小糸は、目の前に広がる光景に思わず息を呑みました。

石畳の真っ直ぐな大通り。立ち並ぶレンガ造りや木組みの家々。荷馬車を引く馬のいななき。そして、すれ違う人々の中には、剣や盾を背負った鎧姿の者や、頭に獣の耳が生えた不思議な人々の姿もありました。

市場からは、香ばしく焼けたパンの匂いや、鼻を突くような強い香辛料の香りが漂ってきます。活気に満ちたその熱気は、小糸が住んでいた静かな日本の住宅街とは、まるで違うものでした。


「本当に、見知らぬ遠い所へ来てしまったんだねぇ……」


小糸は、ぽつりと呟きました。不安がないと言えば嘘になります。言葉はなぜか通じるようですが、右も左も分からない異世界で、七十歳の老女が一人で生きていかなければならないのです。

しかし、不思議と絶望感はありませんでした。こんな時、決まって小糸の脳裏に蘇るのは、生前の健三の言葉です。


『いいか小糸。人間、どんなに切羽詰まった状況でも、パニックになっちゃ駄目だ。迷った時は、まずは美味い飯を食って、安全な寝床を確保する。腹が膨れてしっかり眠れれば、大抵のことは何とかなるもんだ』


「ふふっ、そうだね、お父さん。まずは、今日泊まる場所を見つけないとね」


小糸は顔を上げ、街の広場の中央にあった「街の案内所」らしい雰囲気の建物へと向かいました。案内所にいた中年の職員は、見慣れない服装の小糸を不思議そうに見ましたが、小糸が「安全で、親切な女将さんがいる宿を教えてほしい」と頼むと、快く一つの宿を教えてくれました。


「それなら、西通りにある『風見鶏の宿』がいい。あそこの女将のマーサは、お節介なくらい面倒見がいいから、あんたみたいなよそから来た人にはぴったりだよ」


教えられた道を歩くこと十数分。屋根の上で木彫りの風見鶏がくるくると回る、こぢんまりとした二階建ての建物の前に着きました。

重い木の扉を押し開けると、「カランカラン」と明るい入口の鐘の音が鳴り響きます。


「いらっしゃい! あら、見ないお顔だね。お客さん、お一人?」


厨房の奥から顔を出したのは、ふくよかで恰幅が良く、太陽のような明るい笑顔を浮かべた女性でした。彼女が案内所で聞いた女将のマーサでした。


「はい、一人です。遠い異国から参りまして、右も左も分からないものですから……しばらくの間、お世話になれませんか?」

小糸が丁寧に頭を下げると、マーサは小糸のきちんとした立ち振る舞いと、その穏やかな雰囲気に好感を持ったようでした。

「もちろん大歓迎さ! 遠い所からわざわざよく来たね。おばあちゃん、長旅で疲れただろう。まずは温かいスープでもお飲み。話はそれからゆっくり聞くからさ」


マーサの言葉に甘え、小糸は食堂の木のテーブルに腰を下ろしました。

すぐに出されたのは、ゴロゴロとした根菜がたっぷり入った、湯気を立てる塩味のスープと、少し硬めの黒いパンでした。一口飲むと、野菜の素朴な甘みが疲れた体にじんわりと染み渡っていきます。


「美味しい……。体に優しい味がします」

小糸が微笑むと、マーサは嬉しそうに自分の腰に手を当てました。

「そうだろう? うちのスープは冒険者たちにも人気なんだ。さあさあ、遠慮せずにパンも浸して食べな」


食事を進めながら、小糸はマーサに色々なことを尋ねました。

自分が遠い異国から来て、ここの常識を何も知らないこと。この国、ルミナス王国がどのような国なのか。街の外には魔物という恐ろしい生き物がいて、それを退治する「冒険者」という仕事があること。

マーサは嫌な顔一つせず、まるで自分の母親に教えるように、身振り手振りを交えてこの世界の基礎知識を丁寧に教えてくれました。


小糸は、手元にある金貨の価値についても、それとなく確認することができました。城で渡された金貨十枚という額は、マーサの宿に何年も泊まり続けることができるほど、確かに多額の金額でした。大臣の言葉に嘘はなかったのです。


その夜。

小糸は、マーサが用意してくれた清潔でふかふかのベッドの上に座り、ランプの灯りに照らされた革袋を見つめていました。

「当面のお金はある。でも……」


このまま何もしなければ、お金はいずれ底をつきます。それに、ただお金がなくなるのを待って、この見知らぬ部屋でじっと老いていくような生き方は、小糸の性に合っていませんでした。

「働かなくちゃね。私にできることで、誰かの役に立てること……」


目を閉じると、再び健三の背中が浮かびました。

出汁の香りが漂う、小さな厨房。湯気を立てる肉じゃが、黄金色に輝くだし巻き卵、じっくりと味の染みた大根の煮物。

「美味しいねぇ」と笑い合う常連客の顔。

カウンター越しに交わされる、他愛のない世間話。


『小糸。俺たちの料理はな、ただ腹を満たすだけじゃない。仕事で疲れた奴、落ち込んでる奴の心をほぐす、魔法みたいなもんだ。だから、絶対に手は抜けないんだよ』


健三のその言葉を、小糸は生涯忘れたことはありません。

自分には、あの若い娘のような華やかな「聖女の魔法」はありません。でも、七十年生きてきた経験と、健三と共に培ってきた料理の腕、そして「おばあちゃんの知恵」があります。


「……お父さん。私、この世界でもう一度、お店をやってみるよ。『こいと』みたいな、小さな小料理屋を」


温かいご飯を作り、疲れた人の話を聞き、笑顔になってもらう場所を作る。それができれば、異世界だろうとどこだろうと、自分はしっかりと地に足を着けて生きていける。小糸の心の中に、静かですが、決して消えることのない確かな炎が灯りました。


翌朝。

爽やかな朝の光が、木枠の窓から差し込んでいました。

王都の西通りにある「風見鶏の宿」。その一室で目を覚ました小糸は、手際よく布団を畳み、身支度を整えました。鏡に映る自分の顔は、しわも増え、髪には白いものが目立ちますが、その表情は昨日のような戸惑いではなく、どこか晴れやかな決意に満ちていました。


一階の食堂に降りると、すでに香ばしいパンの焼ける匂いと、スープを煮込む温かな香りが満ちていました。


「おはよう、おばあちゃん! よく眠れたかい?」

厨房から顔を出した女将のマーサが、太陽のように明るい声で出迎えてくれます。

「おはようございます、マーサさん。ええ、お布団がふかふかで、一度も目を覚まさずにぐっすり眠れましたよ」

「それは良かった! さあさあ、朝ごはんができてるよ。しっかり食べて、今日一日を元気に過ごさなくちゃね」


マーサが運んできたのは、こんがりと焼けた厚切りのパンと、卵とトマトによく似た赤い野菜がたっぷり入ったスープでした。小糸が両手を合わせて「いただきます」と静かに呟いてから食べ始める姿を、マーサはカウンター越しに嬉しそうに見つめていました。


「マーサさん、昨日は本当にありがとうございました。おかげで、ぐっすりと眠れました。……実は、私、この街で働こうと思うんです」

「働くって、おばあちゃんがかい? まだ来たばかりだし、急がなくても……」

「いえ、元気なうちに、少しでも人の役に立ちたいんです。小さくてもいいから、お酒と温かいご飯を出して、ゆっくりお話しできるような、そんなお店をやりたいんです。どこか、相談に乗ってくれるような場所はありませんか?」


小糸の静かですが芯の強い言葉に、マーサは一瞬驚いたように目を丸くしましたが、やがてその顔にパッと明るい笑みを浮かべました。


「そういうことなら、商人ギルドに行くといいわ! あそこなら、空き店舗の紹介からお店の開き方まで、何でも相談に乗ってくれる。この宿から歩いて五分くらいだから、道を教えてあげるわ!」


「ありがとうございます。マーサさん」


窓の外からは、朝陽に照らされた王都の活気ある音が聞こえてきます。

異世界に聖女召喚の「おまけ」として巻き込まれた、七十歳の老女、小糸。

魔法も力もない彼女の、長年培った「おばあちゃんの知恵」と美味しい料理で人々の心を救っていく、新たな人生の第二幕が、今、希望と共に静かに幕を開けようとしていました。


はじめまして。

お読みいただきありがとうございます!

もし「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、

ブックマークの登録や、

ページ下部にある【☆】を【★】にポチって応援していただけると、

とてもうれしく、執筆の大きな励みになります!

次回も小糸の活躍をお届けしますので、どうぞお楽しみに!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。