13.正義の逆さまの世界には
空が回転する。
オレンジのバーが脇腹を擦った。
わずかに揺れたバーに翻った足が引っかかり、乾いた音を立てて落ちる。
遅れて背中がマットに沈み、澄んだ青空が逆さまに広がった。
「イーオ君。ナイスジャンプ」
五百旗頭正義の逆さまの世界に、不条理なほど美しい影が差し込む。
「バー、落ちたけど。どの辺がナイスジャンプだった?」
「うーん、芸術点?」
「なら茉莉奈の短距離走も、僕に言わせれば、例えドベでもぶっちぎりの一位だ」
正義を見下ろした茉莉奈が、太陽を背負って笑った。
青空と彼女のコントラストが目に染みる。
「ねえねえ、今日どこで会うの?」
茉莉奈が正義の手を引き、立ち上がらせる。
ポニーテールが左右に揺れて、ほんのり甘い匂いがした。
「何の話?」
以前より、少し見下ろす位置にある彼女の顔。
170センチ近くある茉莉奈を追い越したのは、今年に入ってからだった。
もう、伸びなければいい。
体が「男」に近づけば近づくほど、茉莉奈が遠ざかる気がした。
「とぼけないでよ。新見さん。電話で話したんでしょ?」
ニーミサン。
茉莉奈の口からその言葉が紡がれる度、奥歯に苦いものを感じる。
初等部の時から、ずっとそうだ。
「駅前のカラオケだよ。人目を気にしなくていいし、都合がいい」
「ふーん。……着いてっていい?」
茉莉奈を一瞥して、床に落ちたバーを拾い上げる。
「だめだ。聞き取りは基本に単独でするものだよ。4人で近くのマックに控えて、順番に呼ばれる予定。茉莉奈だって昨日やったばかりなんだから、分かるだろ。……そんなにニーミサンに会いたい?」
しなるバーを片手に、正義は支柱の受け金具を4センチ下げた。
もう片側の支柱に向かうと、茉莉奈が追ってくる。
「会いたいって言うか、三十路の人ってなに歌うのかなーって」
「なんで刑事と仲良くカラオケすると思ってんだ」
相変わらずの天然ボケっぷりに、正義は呆れ返る。
カチカチと受け金具がメモリを滑る音。背中には茉莉奈の視線。
だめだ、このままだと本当に着いてきそうだ。
「茉莉奈。そっち持って」
バーの片側を持たせて物理的に距離をとる。
無言でタイミングを合わせ、バーを戻した。
「僕、もう一回跳ぶから。茉莉奈もトラック帰りな」
突き放した言葉に、茉莉奈は頬を膨らませた。
「もう! なに歌ったか、あとで教えてよね」
そう言って、トラックへ駆けていった。
「だから、歌わないって……」
正義は疲れた声で呟いた。
けれど結局、茉莉奈への土産話に、刑事に一曲歌わせることになるのだろう。
そんな自分が容易に想像できた。
毎週日曜日。
陸上部は外部の施設を借り上げて練習を行う。
高輪清真学園中等部には、屋上に申し訳程度に敷かれた運動場しかないからだ。
狭い空間から解き放たれて、みんな水を得た魚のように生き生きと外周を走り回っている。
トラックの中央で、正義は跳躍した。
踏み込みの瞬間、足首に鋭い痛みが走る。
体が浮き上がらず、今度は背中からバーに直撃した。
そのままマットに沈み込むと、背で押し込んだバーが体にまとわりついて落ちてきた。
「イオ、調子悪そうだな」
同じく走高跳を種目とする小岩井涼が、鼻をいじりながら近寄る。
張り出した鼻翼を気にするこいつの癖だ。
「いまの跳んだっつーより、倒れにいってたじゃん」
木吉虎太郎が茶化す。
つま先だけで跳ね歩く姿はカンガルーを思わせる。
趣味の登山で染みついた歩行法らしいが、極端に低い身長を誤魔化すためだと正義は思っている。
「きべっち。怪我? もしかして昨日のあれのせいじゃ……」
線の細い櫻田晴翔から、これまた弱弱しい声が飛び出す。
同級生がみんな「イオ」「正義」と呼ぶ中、こいつだけは「きべっち」と苗字の下半分をとって呼ぶ。
「あいつの体、ぶ厚いタイヤみたいだっただろ。蹴った時に足首を捻ったみたいだ」
足首を回しながら他人事のようにいうと、三人がどよめく。
「大会大丈夫? きべっち選抜だよね」
「別に問題ないよ、元々上位に食い込める成績でもないし。大会なんかより、僕らには気にしなきゃならない事があるだろ」
3人が黙り込んだ。
「……でも、織部はめっちゃ張り切ってるぞ」
虎太郎が呟き視線を流した先から、電子ホイッスルの高い音が青空を裂いた。
スターティングブロックを蹴る音が一斉に鳴る。
遠くのトラックで、赤いゴムチップの地面を駆け抜ける影。
正義たちの視線が自然と吸い寄せられた。
茉莉奈は先ほどまで羽織っていたウインドブレーカーが脱ぎ捨て、本番同様の競技ウェアに身を包んでいた。
躍動する体に張りつく薄い布地。正義は思わず目を逸らした。
「邪魔そうだなー、あれ」
涼が両手で胸を持ち上げる仕草をする。
「で、でも織部さん、さっき自己新だしてたみたいだよ」
顔を赤らめ視線を剥がさない晴翔に、虎太郎が野卑な笑みを浮かべる。
「おい、ムッツリはるちゃん。かわいい顔しておかず見定めんなよ」
正義の腹が重たく沈みこむ。
足元のバーを手に取ると、方向転換のふりをして三人にぶつけた。
「あ、悪い。でもそこに突っ立ってると邪魔なんだけど」
驚くほど冷えた声が出る。鼻白む三人に苛立ちがつのった。
こいつらは昨日の事も忘れ、のんきに日常に戻ろうとしている。
あまつさえ、守護した対象に邪な視線を投げる事自体、正義には到底許せなかった。
自分達がなぜ彼女に選ばれたのか。
それに気づいていないのは、滑稽を通り越して哀れですらある。
この四人に共通するのは、二次性徴の遅れだ。
女子の平均よりも背の低い虎太郎を始め、中性的な晴翔は声変わりすらまだだ。
涼は身長こそ高いが、体毛は薄くひょろっとしている。
そして正義もまた、未成熟な雄の群れの一員なのだ。
おおよそボディガードとしては心許ない人選に、こいつらはなにも疑問を感じなかったのか?
「お前らさ、分かってる? 全部バレたら正当防衛は通用しないんだよ。僕らがやったことは集団暴行。気を引き締めてもらっていいかな、苛々するから」
とげとげしい正義の言葉に、涼がぶすくれて口を開く。
「でもよ、だからイオがいるんだろ? お前の親父がもみ消してくれるらしいじゃん」
「まあね。でもそれば最悪のシナリオに進んだってことだ。だから今日、刑事との対面はちゃんとしてくれないと困る」
「えっと、その刑事さんは全部知ってて協力してくれるんだよね? きべっちがあの場にいたことは絶対に喋りませんって言えば、それでいいんだよね?」
晴翔が不安そうに確認する。
「うん、お前たちはそれでいい。あとは今後どう動くか、僕が刑事と話すつもり」
「えー? なんか正義だけずるくね? もし裁判なってもお前だけ安全圏かよ。一番あいつをボコボコにしたのお前だろ。殺す勢いだったのを俺らが止めたんじゃん」
虎太郎の発言に場が凍る。
——そうさ、殺してやりたかった。
「……何度も説明しただろ。僕が居たことになると、全員厳しく追及されることになるんだ。罪が重くなっても構わないって言うなら、僕の名前を出せばいい」
「なんか、ややっこしいなー。あーもういいよ、わかったよ」
虎太郎が不承不承に頷く。
走り終えた遠くの茉莉奈が視界の端にうつる。
ポニーテールを解いた髪が流れ落ち、その香りがこちらまで漂ってきそうだった。




