1. 性犯事件、なめんなよ① 因縁の相手
翌日の捜査会議の資料を、ホチキス止めしている時のことだった。
「先輩。まさか、今日って奇跡の日なんじゃ……」
隣に立つ古田一誠が、部数毎に十字に書類を重ねる手を震えさせた。
しばらく前からちらちらと視線を寄こしていた後輩を、あえてシカトしていたが、そろそろ限界らしい。
新見智也はうんざりと溜息を吐いた。
「古田、やめとけ」
ガチ、と打ち損じたホチキスの芯が曲がる。
先端で芯をほじくるが、袖口から覗く時計に目がとられ、手元が覚束ない。
どうやら自分も浮足立っているようだ。
「でも先輩。あと十分っすよ。今日こそ約束のガールズバーに連れてってもらいますからね」
「お前な、そういうこと言うなよ。フラグだろそれ」
「いやいや、今日という日は定時で逃げ切りましょ。
先輩、例の女の子がハシカン似だなんて盛っちゃったから、気まずいんでしょ。
千年に一度の美少女なんて、次現れるのは俺らのひ孫、いや玄孫?
——先輩、千年先の孫の代ってなんて言うんすかね?」
「知らねえよ」
古田を適当にあしらいつつ、奇跡の日とやらもあり得る線かもしれない。と、思い始めていた。
今日は朝から溜まっていた書類仕事に一日を費やした。
警察無線は常時鳴り続けているが、大きな事件を知らせる報はない。
西日の差し込む高輪署の刑事課内には、どこか緩慢な空気が漂っていた。
新見はしぶとく紙束にしがみつくホチキスの芯に苦戦しながら、ガールズバーのメイちゃんを頭に浮かべた。
バーカウンターの奥に立つ、ちょっと太めの橋本環奈。
もうひと月は見ていない。
その屈託のない笑顔に癒されたい。
彼女の作る極端に薄かったり濃かったりするハイボールの味が口内に広がり、思わず喉を鳴らした。
その時だった。
課長のデスクの外線が鳴り、課内の空気が一瞬で張りつめる。
古田が「うわ」と小さく呟き、紙束を抱えたまま固まった。
言わんこっちゃない。
新見は横目で刑事課一年目の若造を睨みつけた。
課長は受話器を取り短く名乗った。その眉が、わずかに動く。
「はい。はい……いえ、そういう事なら仕方ないでしょう。すぐ向かわせますよ」
その言葉を聞くやいなや、課長に集中していた視線が一斉に散った。
思いついたように電話をかけ出す者。
デスクの下段の抽斗を引いて死角に入る者。
キーボードをせわしなく叩く者。
コピー機横の作業台で、新人と並び立つ新見に隠れる場所はない。
受話器を置く音が、やけに重く響いた。
「新見ぃ」
課長が、獲物を見定めた鷹の目でこちらを射抜く。
新見はほじくり出した芯を指先で弾き、気合だけで返事を返す。
メイちゃんが悲しい顔をして、ハイボールを排水溝へ流していった。
「生安《生活安全課》からの要請だ。お前、古田連れて臨場行ってこい」
課長のデスクには、帰り支度を済ませた鞄がちゃっかりスタンバイされていた。
「女子中学生がストーカーに絡まれて、自ら撃退して現行で押さえた。本人が110番入れたらしい」
課長のつるりとした頭頂部が西日を弾き、新見の目を突き刺した。
「そりゃ豪胆な中学生ですね。でも現行で押さえてるなら、生安で処理できるでしょう。なんだって刑事課に?」
ストーカー事案なら生活安全課の担当だ。
わざわざ刑事課に要請するということは、何か裏がある。
「強制わいせつ絡みですか? それとも、被疑者の前歴が重いとか?」
「前半は未遂らしいが、後半は当たりだ。
マル被は、四年前にも未成年相手に性犯の未遂で実刑食らってる。
それに加えて、今月始めに仮釈放で出たっきり所在不明になってたらしい。
役満だろ。生安の手に負えんよ」
課長は面倒くさそうに顎をしゃくり、手元のメモを読み上げた。
「堀 羊司って奴だ」
その名前を聞いた途端、新見の腹の底がかっと熱くなった。
「4年前の事件、覚えてます。俺が——」
「知ってる。現場で状況押さえてこい。調べも任せる。二度と再犯する気も起きねえくらい徹底的に絞ってやれ。……お前も面白くねえだろ」
「はい。もう一度、ぶちこんでやりますよ」
奥歯を噛みしめ力強く頷く。
課長は現場の住所を簡潔に伝えると、さっさと退勤していった。
新見は自分のデスクに急いで戻り、ジャケットを手に取る。
「古田、臨場だ。行くぞ」
古田が肩を落とし「ふぁい」と気の抜けた返事をする。
抽斗の下段をいじっていた別の刑事が顔をあげ、「古田、しゃきっとしろー」と笑った。
定時上がりが約束されたその顔は、嫌に晴れやかだった。




