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第55章:嵐の前の茶飲み話、あるいは妖精の決意

アルベルトは祭壇の階段の脇に腰を下ろすと、手際よく火打ち石を鳴らし、乾いた木片で小さな焚き火を起こした。魔法で生み出した炎ではない。純粋で泥臭い、物理の炎だ。

 小さな鉄瓶で雪を溶かし、淹れた温かい茶の入った杯をカイに手渡す。

「……ありがとうございます」

 カイは凍えた両手で杯を包み込み、一口啜った。冷え切った内臓に、熱い茶が染み渡っていく。

「マナを魔法として放つことを良しとせず、あえて内燃機関の熱や物理的な重さに変換する……カグツチや、あそこにあるレガリアたち。なぜ昔の者たちは、こんな不格好な機体を造ったか分かるか?」

 アルベルトは、揺れる炎を見つめながら静かに問うた。

「……魔法は、便利すぎるからだ。指先一つで現象を起こせる万能の力は、人の魂から『重さ』を奪う。己の足で大地を踏みしめ、泥に塗れ、鉄の重みに骨を軋ませながら前に進む。その『物理的な痛み』を知る者でなければ、本当に大切なものを護ることはできんのだ」

 カイは、自分の不自由な右脚を見下ろした。

 姉・澪の創り出す、すべてが計算された完璧で無痛の世界。そこには痛みも重さもない代わりに、自由もなかった。

「……僕は、もう逃げません」

 カイは、杯を強く握りしめて顔を上げた。

「どんなに不器用でも、痛くても……自分の足で大地を踏みしめる重さの方が、あの息の詰まる鳥籠よりずっといい。……アルベルト様、僕にあの『翼』を背負わせてください」

 迷いのない、真っ直ぐな黄金の瞳。

 アルベルトは満足げに頷き、杯を置いた。

「良い覚悟だ。行け、深紅の騎士よ」

 カイは立ち上がり、カグツチのコックピットへと飛び乗った。

 深呼吸を一つし、カグツチの巨大な左腕を、祭壇の『鋼の翼』へと伸ばす。

 機体の指先が、脈打つ古代の翼に触れた瞬間。

 バチィィィンッ!!

 カイの視界は、爆発的な閃光と、内臓を煮沸されるような凄まじい「熱」に白く塗り潰された。

「ぐっ、あああああああッ!!?」

 カイの口から、悲鳴が爆ぜる。

 右脚の K-Link を通じて、カグツチの《クリムゾン・コア》の暴走的な熱量と、新たに接続された『鋼の翼』の莫大な推力データが、濁流となってカイの生身の神経網へと雪崩れ込んできたのだ。

『カイ! リンク率を下げて! このままじゃあなたの神経シナプスが焼き切れるわ!』

 コックピットのモニターが異常なレッドアラートで染まり、実体化したリトが必死にカイの身体にすがりつく。

 だが、カイは操縦桿から手を離すことができなかった。いや、強すぎるマナの奔流によって、機体と肉体が半ば強制的に癒着させられているのだ。

「……離れ、ない……ッ! リト、機体のバランスが……!」

『……ダメ。私の本来の頭脳メインコアが教国にある今の状態じゃ、この「翼」と「右腕の重り」、そして「コアの熱」の三つの出力を、リアルタイムで御しきれない……ッ!』

 リトの顔に、苦渋の色が浮かぶ。

 このままでは、カイの脳がショートするか、カグツチの装甲が内部から自壊する。

 それを防ぐ方法は、ただ一つしかなかった。

『……カイ、ごめんなさい。強制同調睡眠ディープ・スリープに移行するわ』

「睡眠……!? 待って、ダメだ、外には敵の軍勢が……アルベルト様が一人で……!」

『大丈夫。信じて、カイ。……あの剣聖の言葉通り、あなたの背中を押してくれた「大人たち」が、必ず護ってくれるから』

 リトは、限界を越えて痙攣するカイの身体を、その小さな両腕で強く、優しく抱きしめた。

 彼女の身体から放たれる淡い光が、カイの過熱した神経をクールダウンさせるように包み込んでいく。

「……リ、ト……」

『おやすみなさい、私の騎士様。……次に目覚める時は、私があなたの完璧な「翼」になってみせるわ』

 その優しい囁きを最後に、カイの意識は、深く、温かい暗闇の底へと急速に沈んでいった。

 ◇

 氷刃ひょうじんの谷の最奥、氷の神殿。

 外部から見れば、カグツチが『鋼の翼』に触れた瞬間、凄まじい熱量とともに噴き出した濃厚な赤い蒸気は、瞬く間に深紅の巨神を包み込み、巨大な**『赤い繭』**を形成していた。

 ドクン、ドクン。

 分厚い蒸気の壁の向こうから、巨大な心臓の鼓動のような、静かで力強いエンジン音がリズミカルに響いている。

 機体とカイの神経を最適化し、完全な肉体へと再構築するための、羽化の眠り。

 その巨大な赤い繭の傍らに、ふわりと、光の粒子が集まってリトの姿を形作った。

 機体の制御を自動の再構築プロセスに任せ、彼女の意識だけが外部アバターとして実体化したのだ。

 彼女は、高熱を発する繭の表面にそっと触れ、愛おしそうに目を伏せた。

「……痛くない? 苦しくない? カイ」

 リトの小さな呟きは、鼓動音に掻き消されて誰にも届かない。

 パチッ、パチパチ……。

 祭壇の脇では、アルベルトがまだ焚き火の前に座り、静かに茶を啜っていた。

「……聞いたであろう、お嬢さん」

 アルベルトは炎を見つめたまま、繭に寄り添うリトへ向けて静かに語りかけた。

「あの小僧は、自分の足で痛みを伴う『重さ』を選ぶ覚悟を決めた。もはや誰の鳥籠にも囚われはせん。……ならば、共にその重さを背負うお前は、どうする?」

 リトは、アルベルトの問いに、ギュッと小さな両手を握りしめた。

「……私のメインコアは、教国の中枢にあります。おそらく、今はあの怪物(澪)の演算領域の一部として、利用されているはず」

 リトの瞳に、強い光が宿る。

「でも、負けません。私は、カイが大地を踏みしめるための足であり、自由に空へ跳ぶための『翼』です。……カイがどれだけ不器用な重さを背負おうとも、私がその熱をすべて推進力に変えてみせる。二度と、彼にあの鳥籠の空気を吸わせはしない!」

 決意に満ちたAI妖精の宣言。

 アルベルトは満足げに頷き、鉄瓶を火から下ろした。

「良い覚悟だ。ならば、その羽化の時まで、心安らかに待つがいい」

 アルベルトは立ち上がり、猛吹雪が吹き荒れる神殿の入り口へと視線を向けた。

 教国の本隊がこの氷刃の谷へと到達するまで、まだ何日かの猶予がある。だが、戦いの気配は確実にこの死地へと近づいていた。

「……ほれ。どうやら、年寄りの茶飲み話の『客』が、間もなく泥だらけの足で上がり込んでくるようだぞ」

 猛吹雪の風鳴りに混じって。

 遥か遠く、谷の入り口の方角から、荒々しいキャタピラのエンジン音が、微かに、だが力強く響き始めていた。

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