第54章:無塵の剣聖、あるいは騎士の遺物
猛吹雪が吹き荒れる氷刃ひょうじんの谷の最奥。
何百年も人の立ち入りを拒んできた荘厳な氷の神殿の入り口に、一人の小柄な老人が立っていた。
魔導鎧に乗っているわけではない。ボロボロの外套を羽織っただけの、生身の人間だ。
だが、その老人が雪原に立つだけで、谷を吹き荒れる猛烈な風雪が、まるで彼を「避ける」ように軌道を変えている。自然現象すらも服従させる、圧倒的で静かな『気』の奔流。
「……マナを拒絶する、忌まわしき深紅の炎よ」
老人が、腰に下げた一本の古びた剣の柄に手をかけた。
その瞬間、カグツチのコックピットにいるカイの全身の産毛が逆立った。殺気ではない。それは、純粋すぎる『死の予感』だった。
「わしはこの封印の地を守る一族の長、アルベルト。……数百年ぶりに目覚めた鉄屑よ。お前を駆る者の『魂の重さ』、ここで測らせてもらおう」
アルベルトと名乗った剣聖が、雪を蹴った。
速い、という次元ではない。空間が「縮んだ」かのような、世界の抵抗を完全にゼロにする歩法。
「――ッ! リト、右への回避を!」
カイの神童の眼と反射神経が、ギリギリでその踏み込みを知覚する。
カグツチがスチーム・ブーストを吹かして巨体を捻ろうとした、その刹那。
スッ、と。
老人の古びた剣が、カグツチの極厚の脚部装甲を撫でるように滑った。
ギィィィィンッ……!!
「な……!?」
カイは息を呑んだ。
魔導の光など一切まとっていない、ただの鉄の剣。それが、いとも容易くカグツチの装甲をバターのように切り裂き、駆動部ギリギリまで刃を届かせていたのだ。
もしカイの回避がコンマ一秒でも遅れていれば、カグツチの右脚は生身の老人の一振りで完全に切断されていただろう。
(……この、重さ。この、一切の無駄を省いた歩法……!)
カイは、背筋を駆け抜ける戦慄の中で、強烈な既視感に襲われていた。
フリーポートの海の上。自分からすべてを奪い、そして自分をここまで連れてきた、あの白銀の機体が放った圧倒的な『物理の理ことわり』。
「……勇吾と、同じだ……!」
老人の剣理は、間違いなくユーゴー・フォン・シュバルツの『無塵』の源流だった。
それを理解した瞬間。カイの心から、先ほどの姉(澪)の糸に対するような「得体の知れない恐怖」が、嘘のように消え去った。
(勇吾と同じなら。……僕の『速さ』で、絶対に届く!!)
「リト! K-Link の安全装置リミッターを外す! 筋肉の断裂限界まで、同調率を上げろ!」
『カイ!? ダメよ、あなたの生身の右脚が砕けちゃうわ!』
「砕けない! 僕の『0.2ミリの剣理』なら、反動を完全に殺し切れる!!」
カイは操縦桿を強く握り込み、右脚の古傷に全身の神経を集中させた。
カグツチの巨大な駆動音が、まるで一つの心臓のようにカイの鼓動と完全に重なり合う。
「オオオオオオッ!!」
カグツチが、猛吹雪を切り裂いて跳んだ。
右腕の数トンの重りを極限の遠心力で振り回し、その莫大なベクトルを、左腕の漆黒の太刀の切っ先ただ一点へと収束させる。
対する剣聖アルベルトも、静かに古剣を青眼に構え、その巨大な紅蓮の刃を真っ向から迎え撃つ。
生身と巨神。
圧倒的な『重さ(無塵)』と、極限の『速さ(神童)』が、氷刃の谷で激突した。
ガガァァァンッ!!
金属と金属が噛み合う、耳を劈くような轟音。
剣聖の刃が、カグツチのコックピット――カイの喉元を正確に捉え、分厚い装甲を紙のように貫こうとした、その寸前。
ピタリ、と。
巨大なカグツチの漆黒の刃が、剣聖アルベルトの細い首筋に、一ミリの狂いもなく触れて静止していた。
相打ち、ではない。
剣聖の剣がカイの命に届くよりもコンマ数秒早く、カイの『最速の一撃』が、老人の命を完全に手中に収めていたのだ。
吹き荒れる雪が、二人の間でピタリと止まった。
「……見事だ」
アルベルトは、首筋に当てられた巨大な刃を見上げ、静かに剣を収めた。
その皺だらけの顔に、深い満足と、どこか懐かしむような微かな笑みが浮かぶ。
「……良い剣だ。かつてわしの元を去った不器用な弟子とは対極にある、凄まじい『速さ』。……マナを持たぬ者が、まさかその領域にまで至るとはな」
「……あんたの弟子って、勇吾……ユーゴー・フォン・シュバルツのことか」
カイが排気音を荒く鳴らしながら尋ねると、アルベルトは小さく頷いた。
「左様。あやつは、わしの教えた『無塵』の剣理を、ただひたすらに重く、愚直なまでに叩きつけることしかできん不器用な男であった。……だが、お前の剣は違う。重さを捨て、世界の抵抗の『隙間』を縫うような、極限の速さ。……まさか、相反する二つの極致を、生きている間に拝めるとはな」
アルベルトはカグツチから一歩下がり、背後にある神殿の重い氷の扉へと手をかざした。
「通れ、深紅の騎士よ。お前のその魂の速さなら、あの忌まわしき『翼』の重みも背負えるやもしれん」
ゴゴゴゴゴ……。
地鳴りとともに、数百年の眠りについていた神殿の扉が開く。
カイはカグツチから降り、生身の足で雪を踏みしめながら、アルベルトと共に神殿の最奥へと足を踏み入れた。
実体化したリトも、警戒を解いてカイの隣をふわりと歩く。
薄暗い氷の祭壇。
その中央に、周囲のマナを喰らい尽くすように禍々しく脈打つ、巨大な『鋼の翼』が封印されていた。
『……カイ。あれが、私の三つ目のピースよ』
「ああ。……でも、リトの本来の力(演算)を取り戻すには、まだ足りないんだよね」
カイの問いに、リトは静かに頷き、遥か西方――教国の方角へ視線を向けた。
『ええ。私の本当の頭脳……メインの演算コアは、あそこにある。あの怪物が玉座に座る、教国の中枢に。……この翼は、その最終決戦へ向かうための「力」よ』
「……その通りだ」
アルベルトが、氷の祭壇の前に立ち、厳かに口を開いた。
「この翼は、その機体の出力バランスを劇的に変える代物。だが、それを制御するメインコアが欠けた今の状態では、お前の機体はその強大な推力と右腕の重量に耐えきれず、自壊するだろう」
「自壊……!?」
「だからこそ、一度『眠る』必要がある」
アルベルトは、祭壇の横に鎮座する、氷漬けにされた「三つの巨大な石像」を見上げた。
「翼を取り込んだ瞬間、その深紅の機体は、自己のフレームと出力を最適化するために、分厚い繭を張って深い眠りにつく。……その間、お前は一切の身動きが取れなくなる」
「……繭になる。でも、今このタイミングで動けなくなるのは……!」
カイは唇を噛んだ。
姉・澪が教国を掌握し、自分の命を狙って軍勢を差し向けてきているのだ。悠長に眠っている時間などないはずだ。
「案ずるな、若僧。……『王』が眠る間、その寝所を護るのが、騎士の役目であろう」
アルベルトが三つの巨大な石像を指し示す。
「これらは、かつてその深紅の巨神(王)を護衛するために作られた『騎士のレガリア』。マナを魔法として放つのではなく、物理的な力や装甲強度に強制変換する……お前の機体と同じ異端の設計思想で作られた、古代の遺物だ」
カイとリトは、氷越しに眠るその三つの機体の威容を見上げた。
「それぞれが極限の『剛』『聖』『射』の理ことわりを体現し、王が羽化するまでの間、あらゆる外敵から玉座を死守するための無敵の盾となる。……だが、これらを起動できるのは、機体の強大な反動に耐えうる、それぞれの理を極限まで高めた者のみだ」
「……起動できる人間が、いるのか?」
「フッ。……お前がこの絶対零度の谷まで『誰』に背中を押されてやってきたのか、思い出すことだな。相応しい乗り手は、すでに運命の糸に引かれておるわ」
そう言って剣聖がニヤリと笑う。
「直に、たどり着くであろう。それまでもう少し年寄りの茶飲み話に付き合っても罰は当たらんよ」
2人はうなづくしか無かった。




