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第53章:氷刃の死闘、あるいは雪原に立つ影

シュバルツ領の最北端、バベルの荒野すらも拒絶する絶対零度の死地――『氷刃ひょうじんの谷』。

 吹き荒れる猛吹雪は、文字通り無数の氷の刃となって、深紅の巨神の装甲を容赦なく削り取っていた。

『……カイ、外部装甲の温度がマイナス四十度を下回ったわ。関節部のオイルが凍結し始めている。スチーム・ブーストの熱を循環させているけれど、長くは保たないわよ!』

 カグツチのコックピットで、実体化したリトが凍えるように肩を抱きながら警告する。

 だが、操縦桿を握るカイの瞳に迷いはなかった。

「分かってる。でも、止まるわけにはいかない。……姉さんの『糸』から完全に逃げ切るためには、絶対に翼が必要なんだ」

 右脚の K-Link が軋みを上げ、カグツチが深く積もった雪を強引に掻き分けて進む。

 ウラジミールの口から『一条澪』の名を聞いた時の、あの心臓を鷲掴みにされるような恐怖。息ができなくなり、視界が泥のように濁るあの感覚は、今もカイの骨の髄にへばりついている。

 怖い。今すぐにでも逃げ出して、暗い部屋の隅でうずくまりたい。

 だが、背中から伝わるリトの温もりと、ガンドックの泥臭い大人たちが教えてくれた「前に進む意志」が、カイの心をギリギリで支えていた。

『――熱源探知! カイ、前方から来るわ!』

 リトの叫びと同時だった。

 猛吹雪の白いカーテンを切り裂き、三筋の青白い魔導砲の閃光がカグツチへと殺到した。

「ッ! サブコア、最大吸水!」

 カイは咄嗟に周囲の雪を吸い上げ、超高熱の蒸気として胸部から噴射した。

 分厚いスチームの煙幕が魔導の光を拡散させ、直撃を免れる。だが、蒸気が晴れた先、氷柱の立ち並ぶ谷の広場に、教国の白亜の魔導鎧『アームド・メイジ』三機が、亡霊のように音もなく立っていた。

(先回り、されていた……!?)

 カイは息を呑む。

 彼らは、感情の一切ない単眼センサーを深紅の機体へ向けていた。

 一切の雄叫びも、警告もない。ただ、焦点の合わないパイロットの瞳から血の涙を流し、極彩色の糸に操られるまま、完璧な包囲陣形を敷いてジリジリと距離を詰めてくる。

 その、一ミリの無駄もない冷徹な足捌き。

 まるで、盤面のチェスを動かすような、姉の白磁の指先が透けて見えるようだ。

「……ッ、ハァ、ハァ……!」

 カイの呼吸が再び浅くなる。古傷の右膝が、幻痛に焼かれて痙攣しそうになる。

『カイ! 飲まれないで! 相手はただの機械よ!』

「……分かってる! 僕はもう、あの鳥籠には戻らないッ!」

 カイは操縦桿を限界まで倒し、左腕の漆黒の太刀レガリア・ゼロを抜き放った。

 雪を蹴り上げ、教国機の一角へと一直線に突撃する。

 だが、教国機はカイの突撃に対して、回避行動すら取らなかった。

 一機が自ら盾となってカグツチの太刀を受け止め、その間に残る二機が、完全に同期した動きでカグツチの死角――背部のスラスターと、駆動の要である右脚へと、無慈悲な刺突を放つ。

 完璧な連携。自己犠牲すらも「効率的な手駒の消費」として計算に組み込む、一条澪の最適化戦術。

 以前のカイなら、この予測不能な異常な殺意の前に、恐怖で完全に動きを止めていただろう。

「――読まれてるなら、計算ごと叩き潰す!!」

 カイは、太刀を振り抜くのをやめ、カグツチの機体を強引に『左』へと傾けた。

 そして、これまでただの重荷だった右腕の「数トンの鉄塊」のロックを解除する。

 機体の傾きと、右脚の K-Link が生み出す強烈な捻り。

 数トンの重りが、凄まじい遠心力を伴った『振り子』となって、死角から迫っていた教国機の一体を横殴りに叩き飛ばした。

 メシャァァァンッ!!

 魔導障壁ごと上半身をひしゃげさせ、吹き飛ぶ白亜の騎士。

 その反動を利用して、カイは機体を独楽こまのように回転させ、太刀に《クリムゾン・コア》の熱を叩き込む。

 漆黒の刀身が、すべてを焼き斬る『紅蓮のレガリア』へと変貌する。

「消えろォォォッ!!」

 横薙ぎの紅蓮の刃が、盾となっていた教国機と、残るもう一機を、極彩色の糸ごとまとめて両断した。

 凍てつく谷に、二つの巨大な爆発の華が咲き乱れ、やがて黒煙となって猛吹雪の中へ消えていく。

「……ハァ、ハァ、ハァ……ッ」

 カグツチは太刀を氷の地面に突き立て、荒い排気を吐き出した。

 全身から噴き出す泥臭い蒸気が、吹雪の冷気と混ざり合って白く立ち昇る。

 勝った。

 姉の操る「完璧な計算」を、自分の泥臭い物理の重さで、確かに打ち破ったのだ。

「……リト。大丈夫、僕の足は、ちゃんと動いてる」

『ええ。見事だったわ、カイ』

 カイは一つ深く息を吐き出し、コックピットのモニターを前方へと向けた。

 教国の追手は退けた。この先に、目指す古代の遺跡があるはずだ。

 猛吹雪が、一瞬だけ不自然に凪いだ。

 視界が開けたその先。切り立った巨大な氷の壁の奥深くに、何百年も人の立ち入りを拒んできたであろう、荘厳な神殿の入り口が見えた。

 だが。

 カイの神童の眼は、その神殿の入り口に佇む『一つの影』をはっきりと捉えていた。

 白亜の魔導鎧ではない。巨大な防衛兵器でもない。

 それは、ボロボロの外套を羽織った、一人の小柄な『老人』だった。

 雪原にぽつんと立つ、生身の人間。

 しかし、その老人が腰に下げた一本の剣から放たれる『気』は、先ほどの教国の魔導鎧など比較にならないほどの、途方もない質量と静寂を伴って、谷全体を支配していた。

「……人間……? こんな極寒の死地に……?」

 老人が、ゆっくりと顔を上げる。

 猛吹雪の中でも決して揺らぐことのない、深く、静かな瞳が、深紅の巨神を真っ直ぐに射抜いた。

 その視線が交差した瞬間、カイの背筋に、姉のトラウマとは全く質の違う、純粋で圧倒的な「死の予感」が走った。

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