第35章:不揃いな翼、あるいは整備士の意地
「沈黙の回廊」の入り口、ガンドック号の鋼の巨体は、霧の向こう側で霞んでいる。
祭壇の静寂を切り裂いていたのは、悲鳴のような電子音と、狂気じみた「図画工作」の音だった。
「ロキ、右側の油圧ラインを強引にバイパスさせて。規格が合わない? そんなこと、今の私には何の意味もない言葉よ。ボルトで打ち抜いてでも固定しなさい!」
シエラの声は、いつになく鋭く、けれどどこか潤んでいた。
彼女の膝の上では、解析端末がマナの逆流を示す真っ赤な警告図形を吐き出し続けている。それは「この換装は不可能だ」と、冷酷な数学の真実を突きつける死の宣告だった。
「無茶言わないでよシエラ姐さん! 腕側の要求出力は本体の十倍を超えてるんだ。こんなの繋いだ瞬間に、カグツチの心臓がパンクして、リトまで消えちまう!」
ロキは泥とオイルにまみれ、カグツチのハッチに半身を突っ込んでいた。足元には、先ほど封印を解かれたばかりの《深紅の右腕》が、主を拒むかのように冷たく、重々しく横たわっている。
物理的な接合こそガチリと噛み合った。だが、肝心の動力伝達が死んでいる。右腕は、ただの「数トンの鉄塊」としてカグツチの右肩にぶら下がっているだけだった。
「……リト、無理はしないで。もう、いいんだ」
カイがコクピットの中で、震える声で語りかける。
隣に座るリトの姿は、逆流する膨大なデータノイズに晒され、今にも消えそうなほど透き通っていた。
『……嫌よ、カイ。……お願い、これをつけて。……繋いでちょうだい……!』
それは、リトが初めて見せた、理屈を投げ出した「ワガママ」だった。
『この腕があれば……あなたがもう、右脚を犠牲にして踏み込まなくて済む。あなたが、あの日みたいに壊れなくて済む。……だから、お願い! 消えたっていい。わたしを、この腕の「クッション」にして!!』
「リト……お前、何を言ってるんだ! お前が消えたら、俺が戦う意味なんて――」
『意味なら、これから作ればいいわ! わたしたち、二人で一人なんでしょう!?』
リトの叫びに呼応するように、カグツチのメインモニターが、これまでにない眩い光を放った。
演算負荷でシステムが悲鳴を上げているのではない。リトという人格が、自らの構成データを「緩衝材」として右腕の奔流に差し出し、カイを、カグツチを、無理やり繋ぎ止めようとしているのだ。
「……この子、正気じゃないわね。演算の天才が、一番算数のできない答えを出しているわ」
シエラが自嘲気味に、けれど愛おしそうに微笑んだ。彼女は解析端末のセーフティを親指で跳ね除けた。
「ロキ、聞きなさい。リトがああ言っているのよ。……副長《私》の命令。無理を通しなさい。……責任は、全部私が取るわ」
「……あーあ。……もう、どいつもこいつも! 分かったよ、やってやるよッ!!」
ロキは絶叫しながら、巨大なハンマーで物理ロックの楔を叩き込んだ。
カグツチの右肩から、不快な電子音と激しい火花が散る。強引な接合。右腕は接続されたが、それは「腕」としての自由を奪われたままの、不格好な重りとなった。
「――あー。……やっぱり、ここの連中は算数が得意らしいな。……いや、今は図画工作か」
背後で、ギリアスが愛銃を拾い上げ、気怠げに、けれど確かな期待を込めて呟いた。
「おい、整備士。その重荷を動かそうとするな。……今はただの『死体』を繋いだと思っておけ。その不格好な姿のまま、ガンドックまで逃げ切るぞ。……あそこの野犬共が、涎を垂らして待ってるからな」
シエラはガンドック号の通信回線を開いた。声は再び、冷静で凛とした「副長」のものに戻っていた。
「バルガス、聞こえる? こちらシエラ。……最悪で最高に『不器用』なプレゼントを拾ったわ。今すぐ回収の援護を。……亡霊が、もうそこまで来ているわ」
『おう、任せな副長! 宴会の準備はできてるが、花火の準備も万端だぜ!!』
バルガスの豪快な声がノイズ混じりに響く。
だが、その声が途切れるよりも早く、森の霧が、生き物のように異常な密度で膨れ上がった。
それは、亡霊が実体を持つ前の、氷のような予兆だった。




