96講師時代〜本番
五月最終日の二日間。
ピアノコンチェルトのソリストオーディションの日がやってきた。
オーディションは大学一年から大学院生までの自由参加で、今年の応募者は20人。全ての楽章を演奏するから時間がかかる。朝から一日がかりで10人、二日目にまた10人。平山の出番は20番。二日目の最終演奏者だった。
僕は新人講師なので、一日めは朝からずっとステージ袖にいて、タイムキーパーと進行をしていた。要請があれば、オケパートの譜めくりをすることもあった。率先してやっているのは、やはり演奏に関わる仕事がどれも好きだからだ。
平山は、この難易度の高いコンチェルトを、相当テンポを上げて弾けるようになっており、当初予定していた速度であれば余裕といったところだ。妻も、どんなテンポでもついていくことができるし、それを一緒に楽しむこともできるレベルに仕上げてある。
考えたくないが、もし妻の具合が悪くなってもオーディションに支障をきたさないよう、僕が代奏することができる。幸い、これまでに具合が悪くなるとか、今まで好きだったものが食べられないといったことはないようだった。眠くなるとかならないとか…………そういうこともなさそうに見えた。
まだ僕は誰にも話していないが、妻がマヤちゃんだけには話したというので、夫である平山は知っているのだろう。しかし、平山は僕と二人になった時でも、特にそのことを話題にしたことはなかった。
妻の体調は心配だったが、妊娠が判ってから今までに何もなかったし、直前までレッスン室で平山と確認練習をしてから来ると言っていた。
19番……平山の前の演奏が始まってしばらくした頃、平山と妻が静かにステージ袖に現れた。二人とも、程良い緊張感で落ち着いた表情をしていた。
平山はグレーに近い、明るい色のスーツだった。妻は墨染に近い、腕を動かしやすそうなワンピースを着ていた大変少しだけ襟ぐりが開いていて、胸のすぐ下を軽く絞った、腹部を締め付けない、柔らかい素材のワンピースだった。ハイヒールではなく、踵の低い、プレーンなバレエシューズ。まだお腹も目立たないし、見た目は妊娠しているなんてわからないだろう。だからこそ、尚更注意して、おとなしくしていてもらわなければ。いや、妻はもともとおとなしいのだが、おっとりしすぎだ。妊娠中なのを忘れて重い物を持ったり走ったりしないか、僕は父親のような気持ちだった。
だが、妻がママとして意識した生活をしているのは伝わってくる。幸せそうなのだ。それは、その姿は僕の幸せ。とても愛しかった。
背の高い平山の隣に並んだ妻は、ビジュアル的にもなかなか綺麗で、僕の知らない妻のようでもあった。
「大丈夫?座って。具合は悪くない?」
妻にそっと声をかけて椅子を勧めた。
「ありがとう。大丈夫です」
そう、妻はいつも本番前はステージ袖で集中している。その横顔。大丈夫だ。僕は黙って見守るだけでいい。今日は例え何かあっても、ずっと側にいられる。
いつの間にか平山がすぐ側に来ていて、小さい声で僕に言った。
「ご心配でしょうに、申し訳ありません。一月とか…………」
やはり知っていたか。知っていて、今まで何も言わずに心配してくれていた。
「あぁ。こちらこそプライベートで気を使ってもらって申し訳ない。まだマヤちゃんにしか言ってなくて」
「わかりました」
「今日は、いいリストを聴かせてくれ」
「ありがとうございます」
平山は礼をしてから再び妻のところに行った。
「藤原さん、よろしくお願いします」
平山のコンチェルトは、どの出場者よりもレベルの高い演奏だった。難易度の高い技巧的な場所でも余裕を感じる程に安定感のある仕上がりで、オーケストラパートの妻が弾く、華やかで豊かな伴奏と相まって、文句なしの共演となった。満場一致は間違いない。二位にあたる、もう一人のソリストは誰になるか、多少審議になるかもしれないが、おそらく…………見当はつく。ひと学年下で突出している男子学生二人のうちのどちらかだろう。
妻が、笑顔で僕のところへまっすぐに戻ってくる。腕を広げて待ち構え、抱きしめたいが、ここは大学だ。僕は充実感でいっぱいだった。
平山は、秋のコンクールでも安心してこのコンチェルトを持っていけるだろう。
妻が去年グランプリだったコンクール。
僕が一昨年グランプリだったコンクールに。




