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君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一


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94講師時代〜決心


 如月さんに見つかった……如月さんに初めて出会った日。大学の図書館ではなく、わざわざターミナル駅にある大型書店に出向いてまで僕が読んでいたのは、妊娠と出産に関する本だった。


 新しい本で、妊娠に関することを知りたかった。




 妻は、あれだけピアノが上手くても、ピアニストを目指していたわけではない。同じ社宅で、両親共に交流のあった僕の家で過ごし、ピアノが好きで遊んでいただけだった。


 小さい頃の妻は、僕の膝の上で僕が弾くピアノを聴くのが好きだった。自惚れではない。降ろそうとするといやがり、膝にのせると静かにおとなしくなった。かわいくてかわいくてたまらなかった。


 教え始めてすぐに、僕より上手くなる子だとわかった。もちろん、ほぼ5つも年上の僕をすぐに抜かす訳ではない。でも、わかったのだ。そんな僕に才能だとか感性だとかいう言葉で悩ませ、羨ましさすら感じる相手だった。


 それなのに、素直で純粋なその子は、僕の全てを見て、全てを聴くかのように吸収して成長し、『僕のピアノが好き』と僕の目を見て真っ直ぐに言ってくれた。不思議なことに、それは『僕のことを好き』と言われるよりも嬉しいことだった。演奏者なら共感が得られるだろう。演奏は人間性の全てが出てくるものである。




 そんな妻は、女子大附属の幼稚部から内部推薦でそのまま女子大に進学した。その頃、ピアノに対して何か悩んでいるなとは感じていた。


 妻は、

「慎一さんの赤ちゃんがほしい。ママになりたい」

と僕に言った。


 少女だった妻も、いつかは母親になるだろう。勿論僕もそれを望んでいた。しかし今?本気で?妻は冗談を言うタイプではない。それでも、信じられなかった。18歳になったばかり、大学に入学したばかりだ。僕だって、社会人になったばかりだ。まだまだ二人でいたかったし、一緒に留学したり演奏活動をしたりしたかった。


 何度か仄めかされるうちに、僕は妻の真剣な気持ちに応えてやりたくなった。何しろ、妻はそれ以外のことに興味を失っていたように見えたのだ。生きていく意味、意義というのだろうか……。


 僕は逡巡していた。

 「あなたの子供が欲しい」、そう言われて嬉しくない男がいるだろうか。まだキスしかしていない頃、「僕に似た男の子が欲しい」と言われた時には、本当に理性が何処かに飛びそうになった。何をしたら子供ができるかも判っていない相手にそんなことを唐突に言われ、崩れ落ちそうになった。


 しかし、もう判っている。結婚し、子供ができる行為をしていることも。ただ、僕が避妊していることは判っていないような気がするが……。





 結婚してから、妻が生理になった日は知っていた。妻は昔から健康で、具合が悪かったことはほとんどないし、いつも決まった周期だと言った。そして、僕は次の生理予定日から逆算し、妊娠しやすい日、妊娠しにくい日を、本で確かめたのだ……。







 そう、今は試演会だった。

 三人がそれぞれ感想などを言い合っているのを、いけないと思いつつ、ぼんやりと聞いていた。平山にも、まだ話していない。話せる段階でもない。妻のことが心配で、何より僕自身がこの先どうなるのだろうかと、そんなことばかり考えていた。



「お帰りになった、平山さんの伴奏者ってどなたですか?何年生?」


 小林さんの声に僕はハッとした。えっと妻の名前?学年?……頭が回らない。


「僕が個人的に頼んだ人だよ」

 平山が、短くそう答えると、皆それ以上は追及しなかった。


 助かった……。平山のフォローに感謝した。僕は今更ながら会話に加わった。


「そうだな。まだ期間はある。僕がアドバイスするまでもなく、各々の課題を克服していくこと、それはコンチェルトに限らずだ。一曲とはいえ演奏時間も長い。二台ともなれば体力の消耗の仕方もソロとは違う。僕は学生こそ卒業したが、まだ勉強していることに変わりない。当日までどこまでできるか、期待している。僕は当日、進行とタイムキーパーを担当する。オケパートの譜めくりの依頼があれば対応する。あと……あまり想定していないし、規定にもなかったと思うが……伴奏者が当日急病の際には、オケパートを代奏するつもりで、全ての演奏者のプログラムをさらっている。コンチェルトは課題曲ではない。緊急時にすぐに代わりの伴奏者が見つかるとは思えない」


「槇先輩……」

 平山が声を出した。如月さんも小林さんも驚いていた。


「講師の伴奏は不可とあったが、不可抗力の際には力になれたらと……特に公にするつもりはないが、そういう応援をしている。滅多にない機会だ。ソリストとして、不安なく全力で向かってくれ」



「ありがとうございます」


 三人に、揃って礼を言われた。


 そのくらいするさ。

 オケパートは暗譜するわけではない。



 僕はソリストだけして生きていくピアニストではない。

 ソリストだけで生きていけるピアニストではない。

 何でもやっていくつもりだ。




 子供を育てていくのだから。


 僕は、妊娠も出産も代わってやれないのだから。












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