9おめでとうが言えない
2台ピアノのコンチェルトは大成功だった。
最後の音が消えた次の瞬間から、ホールは何かを待ちきれないような拍手の渦となった。
彼女の成功は嬉しい。
たとえ僕との共演ではなかったとしても。
今、二人で並んで客席に礼を……するかと思うと、教授は彼女の頬にキスをした。彼女は慣れないドレス姿でよろめき、教授に抱きしめられていた。
客席が歓声でいっぱいになった。
やめてくれ。
そっちを見れないじゃないか!
共演がうまくいっただけ、師弟関係の親愛の情だと、頭ではわかっている。しかし、鳴り止まない拍手の間じゅう、ずっと、そうしていたのだろうか。
実際はどのくらいの時間だったのだろう。
僕はステージ袖から控え室のある廊下を通り過ぎて、誰にも会わなくてすむところに行って一人になりたかった。この悔しさをどうにかしたかった。なのに足が棒のように動かず、見たくないのに目をそらせず、教授の長い抱擁の後、彼女を抱き抱えるようにエスコートして戻ってきた二人に、何も言うことができなかった。口が動かせなかった。
教授は、彼女にわからないロシア語で、
「もっといい男になれ!」
と僕に言った。
彼女には日本語で、
「カオリ!スゴクヨカッタヨ!」
と言ってもう一度肩を抱いて頬にキスをして、奥様のところに行った。さっきまで、彼女に伝えようと思っていた僕の気持ちは、どこかに消えてしまった。
ところが、僕のそんな気持ちとは全然関係ないところで、会場は大変なことになった。
このコンクールは、150分のソロプログラムの審査が予選であり、上位10人が選ばれる。そして2台ピアノのコンチェルト審査に進み、そこからさらに5人がオーケストラとの共演審査で入賞者を決定する。
しかし、150分のソロプログラムでかおりが断トツのトップとなり、2台ピアノのコンチェルト審査でも同じように他者を大きく引き離しての一位だったため、オーケストラとの共演審査なしで藤原かおりを一位と決定された。二位から五位をオーケストラとの共演審査で順位を決定し、審査会議の時間に、藤原かおりが一位受賞者としてオーケストラとの共演コンサートをすることになった。
また、一位の藤原かおりの予選プログラムを聴きたいという声が非常に多く寄せられたため、一位の副賞としてソロリサイタルの権利が与えられることになった。
日程は、オーケストラとの共演審査は予定通り。一位の藤原かおり副賞リサイタルは、後日公開されると発表があった。
異例の展開となった。それには、今年新しく審査会議のメンバーに加わった、フランスのピアニストからの提案によるものだった。
「今回一位となった若いピアニストの演奏は、どの曲も技巧的なものだけではなく、大変素晴らしい音色だった。彼女はもうこれ以上、誰かと競う必要はありません。彼女の演奏を聴きたいという人々に、これまでのプログラムをぜひもう一度聴かせてあげてほしい。できるだけたくさんの方々に聴いていただけるような会場を、すぐに探して準備しましょう。今までの良いやり方はもちろん残して。新しいアイディアがあったらどんどん試しましょう。日本のピアノの発展の為に、私もできる限りのお手伝いをしたい」
コンクール会場のロビーに急遽掲示されたメッセージを見て、教授と、教授の奥様であるピアニストの器の大きさに、僕は胸が熱くなった。
大勢の観客がそれを見てから出口に進んだ。僕は、出演者控え室の方に彼女を促した。二人とも無言だった。
演奏を終えてドレス姿のままの彼女を、控え室に連れてきた。僕は、素晴らしかった彼女の演奏と一位に、おめでとうを言いたい気持ちもあるのに、何も言えなかった。彼女も、僕を見て何も言わない。肩が少し震えているようだ。白い肌に目が離せなくなる……。
だめだ。ここに二人きりではいられない。僕は、できるだけ抑揚なく用件を伝えるのだけで精一杯だった。
「楽屋口に車を持ってくるから。着替えてここにいて」
僕は、控え室に入らないまま外に出た。
彼女は何も言わなかった。
秋の夜風は、冷たかった。
近くに停めた駐車場から車に乗って、ホールの楽屋口の手前に車を停めた。
彼女のいる控え室に戻って荷物を持ち、僕が着ていたトレンチコートを彼女の肩に掛け、そのまま車に乗せて発進させた。
助手席の彼女は、少しの間向こうを向いていたが、そのうちに眠ったようだった。本番の緊張感と、連日遅くまでレッスンの日々だったから疲れただろう。僕のコートに包まれている彼女、僕の車の中で眠っている彼女を見て、僕の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
車が家に着いてからも、彼女はまだ眠っていた。先に荷物を彼女の家に置いた。彼女のお父さんはまだ帰っていなかった。子供の頃から両方の鍵を持たされている、勝手知ったる彼女の家だ。久しぶりに彼女の部屋をのぞいて、ベッドに寝かせられるようにして、もう一度車に戻った。助手席からドアを開けると、寝ている彼女の体が落ちそうになり、僕のコートごと包んで抱いて帰った。大きくなったな。
小さな明かりだけを灯した、彼女の部屋のベッドにコートごと寝かせた。たとえ僕が抱きしめられなくても、今晩はずっと僕のコートが彼女を包んでいてくれたらと願った。顔にかかった髪を撫でて耳にかけたら、彼女の頬に涙のあとがあった。
ごめん。
僕が泣かせたんだ。
僕がずっと無言でいたから、不機嫌に見えただろう。
彼女にはどうしようもないことなのも、頭では解っているのに。
かおり、かおちゃん……。
小さい頃は、かおちゃんと呼んでいた。
かおちゃんが産まれた日、かおちゃんを僕のお膝にだっこさせてもらって『ハッピーバースデー』を歌った。かおちゃんは笑ったように見えたし、かわいくてかわいくて、絶対に泣き顔を見たくないと思ったのに、僕が泣かせたなんて。心が痛かった。
僕はせめてもの償いに、小さな声で『ハッピーバースデー』を歌った。
子供の頃は、ピアノでいうと鍵盤の真ん中のドから歌い始めたのに、今は無理だ。その不可能な事実に、戻れない時間を思い馳せる。
真ん中のドの、1オクターブ下のドの下のラから歌い始めた。
ハッピーバースデートゥーユー
ハッピーバースデートゥーユー
ハッピーバースデー、ディアかおちゃん
ハッピーバースデートゥーユー
眠っているかおちゃんの唇に、僕はそうっと、キスをした。
「……先生……だいすき……」
え……。
え、今、何て言った?