10ようやく言えた、好き
僕が音大ピアノ演奏科二年になった時のこと。
来年は『日本ピアノコンクール』に出場したい。
今年は大学院一年の先輩が出場している。去年、僕が前期試験の優秀者演奏会に出演した時に、最後に演奏したのがその先輩だった。具体的にいつからとは聞かなかったが留学する予定だそうだ。恐らくこのコンクールを練習……良い機会にするだろう。
予選は三回あり、公開されるので聴きに行くつもりだ。二次予選の2台ピアノと本選のオーケストラ共演は有料でチケットが必要だが、予選は無料だ。
先輩のことを尊敬しているし、応援しているが、学内トップの先輩はそこで何位くらいに該当するのか知りたかった。
そして、それらの全てを僕と同じように勉強してもらいたい人がいた。僕の生徒であり、幼なじみの藤原かおりだ。高等部の一年生になった。中等部と高等部の制服は同じだが、襟元に結ぶリボンがスカーフになった。初めてその姿を僕に見せてくれた時の、恥ずかしがるような表情……。可愛くて忘れられない……と言ったら綺麗な話になりそうだが、本当はスカーフの結び方が慣れていないからか、少し斜めで残念だった。直してやりたかったがやめておいた。リボンだってろくに結べていなかった彼女だ。無理もない。
僕は、三回の予選の日程と場所と時間を先輩に聞き、それを彼女に伝えた。
「この日程で、都合のつく日がある?」
彼女は鞄からスケジュール帳を出して確認した。制服と同じグレーの革製の手帳、学校の生徒手帳だ。
「……この日は、学校がお休みです」
「平日だけど、自宅学習日?」
「はい。何らかの学習であれば、自宅ではなくても大丈夫です」
「ピアノの勉強ってことで時間をつくれる?」
「はい」
「じゃあ、一緒に勉強しに行こう。来年僕が出場したいコンクールだ。……いずれ、かおりにも挑戦してほしいと思っている」
「……はい」
彼女は少しだけ驚いたような表情をしたが、それはまだ先のことだと理解したようだ。おとなしくて素直で、ピアノのレッスンでも僕の言うことをよく聞いてくれる。もちろん、無理なことは要求しないし、できるだけ自由に表現してほしい。僕は彼女のことが好きだが、まだ気持ちを伝える時期ではないと自分に言い聞かせている。
一位を獲るまではと。
約束した日。5月の中旬にしては、気温も高く、湿度も感じる暑さだった。5月を待たずとも、4月でも暑い日があったくらいだ。暑がりな彼女には夏のように感じるだろう。
同じ社宅の一階と二階の僕たちは、支度をしたらどちらからともなくお互いを訪ねる。その日は階段で会えた。
既に日差しも強く、二階から降りてきた彼女の姿は眩しかった。スカート丈こそ、膝より少し長くて落ち着いた印象だが、上は薄い生地のノースリーブで、涼しそうだった。
「ちょっと待ってて」
僕は、一旦家に戻って夏物の紺色のカーディガンを小さく畳んで鞄に入れた。
普段は制服でレッスンをしていたから、彼女の肩や腕を見たのは久しぶりだった。女の子の中で背も高く、長い腕も肩も白くて綺麗で、僕は触れたい気持ちを抑えるのが大変なくらいだった。
「音量と響きを聴きたいから、後ろに座ってもいいかな」
「はい」
会場の一番後ろの列の席に座った。客席は暗く、冷房が効いていて涼しかった。彼女は座った後で、自分の腕を擦った。彼女の腕にそっと触れてみると、冷たかった。僕は鞄からカーディガンを出して彼女に羽織らせた。
客席は暗かったけれど、この時の彼女は本当に可愛かった。びっくりしたような、下から僕を見上げる、少しだけ開いた無防備な唇……。
「顔も冷たくなってしまうな……」
暗かったから出来たことだ。僕は、左側に座った彼女の頬を、両手で優しく包んでみた。あたたかかった……ほんの、一秒か二秒のことだ。
演奏が始まったから、それだけだ。それだけなのに、僕の両手は特別なものに触れたような幸福感でいっぱいだった。
コンクールは、普通のクラシックの演奏会とは違って休憩がない。その分、昼の休憩時間が長かった。審査員の昼食時間でもあるし、ピアノを調律する時間でもある。
僕は彼女の体が冷えないよう、温かいものを食べさせたかった。それなのに、彼女ときたらアイスクリームやフルーツジュースを見つめていた。
「かおり、デザートも食べていいからまずはランチね。温かいものを食べてくれると、僕は安心だ」
「はい」
彼女は、視線を変えてパンケーキやフレンチトースト、ワッフルを見ていた。僕にはそれらもデザートに見えたが、温かいものならばと妥協した。ナイフとフォークを使う彼女の仕草は、美しくて綺麗だった。
「ピアノの演奏は、どう思った?」
「……はい。皆さん上手で、私が何か言うなんて……」
「何でもいいんだ。僕とここで話すだけのこと。自分ができていないことなんて、考えなくていい。この曲が好きだとか、弾いてみたいとかでもいい」
「……はい。ドビュッシーの『プレリュード』とベートーヴェンの『テレーゼ』、リストの『献呈』が弾きたいです」
「うん、いいね。向いている。バッハの『平均律』とショパンの『エチュード』も引き続きやっていこう。コンチェルトは何をやってみたい?」
「コンチェルト? そんな、私なんて……」
「既にいくつか弾かせているよ。知らなかった? 部分的にだけど」
「……そうなんですか?」
「そうだ。それに……僕が教えているんだ。今後、私なんてという言葉は例え謙遜でも慎んでもらいたい。場合によっては相手の立場がなくなる。わかる?」
僕は少し厳しい言葉を、しかし熱意をもって真剣に伝えた。僕はそういう男になれるよう、彼女以上に自分に厳しく課しているつもりだ。彼女を叱りたかった訳ではない。
彼女はしばらく黙っていた。
「……先生に失礼を申し上げたこと、ごめんなさい。でも……よく、わかりません」
「僕のことを、どう思っている? 僕の……ピアノのこと」
下を向いて少し小さくなっていた彼女は、まっすぐに顔を上げた。
「先生のピアノの音は、透明感があって素敵です。一番大好きなピアニストです。先生が弾いた曲は、弾いてみたいから……だから、だから上手になりたいです」
驚いた。おとなしくて口数の少ない彼女が、僕のピアノのことをそんな風に言ってくれるなんて。大好き、という言葉も。ピアノのことだとしても、嬉しかった。
「嬉しいよ。ありがとう。……その、かおりが好きだと言ったピアニストは、たった一人の生徒のことを、ピアノのことも、とても大切に想っている。卑下しないで、前に進んでほしい。わかる?」
「はい」
「じゃ、行こうか。化粧室で、クリームがついていないか確認しておいで」
彼女は驚いて、パタパタと僕から離れていった。僕は会計をして、彼女を連れてコンクール会場に戻った。
コンクール参加者の演奏は、全員が真剣勝負だ。午前中も濃密な時間だったが、不思議なもので、それにもいつしか慣れていく。僕は少し眠くなった。
彼女を見ると、頭が向こう側に傾いて眠っていた。向こう側は通路だから誰にも迷惑はかけないけれど、僕はそうっと自分の方に傾けて自分の肩に乗せた。普段、あまり気軽に触れないようにしていたから、彼女の重さや体温を感じて、密かな幸せを手にしたような気持ちだった。だらりと下げられていた彼女の左手を取って、膝の上に乗せた。少しだけ開いた唇は、艶々としていた。色がついている訳ではないが、午前中とは違う。リップを塗ったのか?
先輩の演奏を聴けたことよりも、彼女と過ごした時間が幸せすぎて、堪らなかった。彼女は感性がいい。昨日と同じ曲を弾かせたら、今日はどんな音色になっているだろうか。ずっとこのままでいたかったし、夜のレッスンも、待ち遠しかった。
そのコンクールの勝者となったかおり。眠ったかおりの唇を見ながら、そんなことを思い出していた。
かおり、何の夢を見ている?
今、私は眠っている。
今がいつで、いつから眠っていたのかわからない。
暗いから、まだ起きなくてもいいんだよね。お布団があったかい。夢の中で、ハッピーバースデーの歌が聴こえた。低い声。先生だ。先生のことが好き。大好き。唇に、キスしてくれたの? 唇のキスは、好きな人にするんでしょう? また、してほしいけど……。
先生は、私のことを好き? ……聞けない。
私は、……先生が大好き。……言えない。
「かおり、帰ってる? 慎一くんもいる?」
「はい。お父さん、お帰りなさい。お邪魔しています」
「慎一くん、送ってくれたのかい? ありがとうね。かおりは寝てるの?」
部屋のドアが閉まって、それから声は聞こえなくなった。
僕は彼女の部屋のドアを静かに閉めて、リビングに戻った。
お父さんが「かおりは寝てるの?」と聞いた。
僕は、車の中から寝ていたと答えた。
「最近、ちょっと眠そうにしていたね」
「すみません」
「いやいや、二人とも頑張っているのはわかるよ。ピアノのことは全然わからないけど、青春だね」
「お父さん、今日はかおりのコンクールだったんですけど」
「あっそうか、今日か! お疲れ様。行けなくてすまなかったね」
「いえ、それで結果は気になりませんか?」
「結果。うん、気になるね。かおりは笑顔だった? 楽しかったのかな?」
「お父さん、かおりは一位でした」
「えっ?」
「年齢制限のない大人の部門で一位でした」
「それは……すごいの?」
「お父さん……去年、僕が同じコンクールの同じ部門で一位だったんですけど、確かお父さん僕のことすごいすごいって誉め称えてくれましたよね。しかも、かおりは史上最年少での一位で、本当はもう一回審査があるはずだったのを、これまでの成績が断トツでトップだからこれ以上審査する必要がないからってフランス人の素晴らしいピアニストもかおりのこと誉めてくれて、それで」
「待って待って」
「はい」
「慎一くんは何が言いたいの?」
言っていいかな。
僕の夢を。
「お父さん」
「はい」
「かおりと結婚させてほしいんです」
「うん」
「いいですか?」
「もちろん。かおりは慎一くんのことが大好きだからね」
「まだかおりには言ったことも言われたこともないんです」
「そうなの? 大丈夫。かおりは慎一くんのことが大好きだから安心して。連れてくるから、言ってあげてくれる?」
「今ですか? 寝てますよ?」
「いいのいいの、大丈夫。待ってて!」
お父さん、昔から変わらないなぁ。
この展開、僕の計画が動き出した。
「かおり、かおり!おはよう!」
「……パパ……おはよう……」
「まだ夜なんだけどね?」
「じゃあ……こんばんは……」
「慎一くんが来てるからおいで!」
「先生? ……うん。行く」
「慎一くんが、かおりとお話したいって」
「……起きる」
「……先生」
「かおり、今日はごめん」
彼女は黙っていた。
「僕が悪かった」
彼女は下を向いてしまって何も言わない。
「それで。僕は、かおりのこと……」
彼女は顔を上げて僕を見た。僕は一気に勇気が出て、心のままの気持ちを伝えた。
「かおりのこと、大好きだから結婚して」
「はい」
かおりはすぐに答えてくれた。
「本当に?」
「はい」
かおりがこんな返事をしてくれるなんて……。聞き慣れた、肯定の意味を持つ単語が、僕の心にじわりと広がっていった。信じられない。僕は、一応確認する為に聞いた。
「かおりも、僕のこと好き?」
かおりは、真っ直ぐに僕を見て言った。
「大好き」
嘘だろう?
「ほらね?」
えっ……お父さん、そこにいたんだ。普通、気を利かせて二人きりにしないの? いいけど。僕は、お父さんに向き直って言った。
「僕は今年大学を卒業したら音大の講師になることが決まっています。大学の教員住宅……教授と同じマンションですが、安く住めることになっています。かおりの大学にも近いですし、かおりが高校卒業した後、春休みに結婚してもいいですか?」
「わかった」
「かおりは名前が変わらない方が安心すると思うので、僕が『藤原』になってもいいですか?」
「わかった」
今度はかおりの方を向いて言った。
「かおり、わかった?」
「はい」
「じゃ、もう僕のことを先生って呼ぶのはおしまいにして、名前で呼んで」
「……えっ?……」
「僕はもう、かおりの先生じゃないから、これからは僕のこと、名前で呼んで。はい、言ってみて」
「えっと……ふじ、わら、さん……」
「違います」
「え……しん、いち、さん……」
「はい。よくできました」
「……やっと笑ってくれた」
「こわかった? ごめんね」
「……うん。でも」
「でも?」
「……大好きって言ってくれた」
「大好きだよ」
僕は、初めて男として笑顔になれた気分だった。
かおりも、僕にこんなに可愛らしい表情を見せてくれるなんて。
幸せだった。
もう、お父さんはいなかった。
二人きりの広いリビングで、僕はかおりの唇にキスをした。




