62コンチェルトオーディション
5月最終日の2日間。
平山が出場するソリストコンチェルトのオーディションの日がやってきた。
ソリストコンチェルトのオーディションは大学1年から大学院生までの自由参加で、今年の参加者は20人。全ての楽章を演奏するから朝から1日がかりで10人、2日目に10人。平山の出番は20番、2日目の最後だった。
僕は新人講師なので、昨日も朝からずっとステージ袖にいて、タイムキーパーと進行を担当していた。オケパートの譜めくりをすることもあった。率先してやっているが、演奏にまつわる仕事はどれも楽しい。
平山は相当テンポを上げても弾けるようになっており、当初予定していた速度であれば余裕といったところだ。かおりもどんなテンポでもついていくことができるし、それを一緒に楽しむこともできるレベルに仕上げてある。
もし、かおりの具合が悪くなってもオーディションに支障がないよう、僕が代奏することができる。幸い、これまでに具合が悪くなるとか、今まで好きだったものが食べられないといったことはないみたいだ。特別眠くなるとかならないとかもない……ように見える。かおりは今までずっと演奏してきたし、毎日変わらずに練習している。
まだ僕は誰にも話していないが、かおりがマヤちゃんだけには話したというので、平山は知っているのだろう。しかし、平山と二人になった時でも、特に話題にしたことはなかった。
かおりの体調は心配だったが、妊娠が判ってから今までに特に何もなかったし、直前までレッスン室で平山と確認練習をしてから来ると言っていた。
19番の演奏が始まってしばらくしてから、平山とかおりが静かにステージ袖に現れた。二人ともほどよい緊張感で落ち着いた表情をしていた。
平山はグレーに近い明るい色のスーツだった。
かおりは墨染めに近い、腕を動かしやすそうな柔らかい素材の黒いワンピースを着ていた。少しだけ襟ぐりが開いていて、胸のすぐ下を軽く絞り、腹部を締め付けないタイプの綺麗なワンピースだった。ハイヒールではなく、踵の低い、プレーンなバレエシューズだった。やせているかおりは、まだお腹も目立たないし、見た目は妊娠しているなんてわからない。だからこそ、尚更注意して、おとなしくしていてもらわなければ、と父親のような気持ちになった。かおりがママとして意識した生活を送っていることが伝わってきて、愛しかった。
背の高い平山と並んで立つと、ビジュアル的にもなかなか綺麗なデュオだった。
「大丈夫?座って。具合は悪くない?」
かおりにそっと声をかけて椅子を勧めた。
「ありがとう。大丈夫です」
そう、かおりはいつも本番前はステージ袖で集中している。僕は黙って見守るだけでいい。今日は例え何かあっても、ずっと側にいられる。
平山が小さい声で僕に言った。
「ご心配でしょうに、申し訳ありません。1月とか……」
「あぁ、こちらこそプライベートで気を使ってもらって申し訳ない。まだマヤちゃんにしか言ってない」
「わかりました。こちらは2月の予定です」
「……えっ?」
「マヤにねだられまして。かおりさんと一緒に子育てしたいそうです」
「本当に?」
「はい。同じ学年にしたいからって急かされました」
「それはそれは、はははっ」
「流石、余裕ですね」
「僕の父親も23才で父親になった。母親の方が年上だけど」
「道理でお若いお父様だとお見受けしました」
「そうだな。今……まだ45才か?子供は早く大きくなるし、まだまだ好きな仕事ができるからって飛び回ってるさ。僕とはタイプが違うと思っていたけど、今なら父親といろいろ話をしてみたいかも。母親は仕事柄近すぎるし。今もその辺にいるかもな。まだこのこと言ってないんだ。どんな反応するか読めないな」
「意外でした。こちらは先に許可を取りました」
「優等生だな」
「僕は自分が悪者になりたくないですから。マヤに庇ってもらうのも僕の美学に反しますしね……」
「優しいんだな。最初に会った時は勉強もピアノも完璧な冷たいヤツかと思ってたけど、演奏を聴けば音楽性豊かで魅力的なのが判るよ。今日は、いいリストを聴かせてくれ」
「ありがとうございます」
平山は礼をしてかおりのところに行った。
「藤原さん、よろしくお願いします」
平山のコンチェルトは、どの出場者よりもレベルの高い演奏だった。難易度の高い技巧的な場所でも余裕を感じる程安定感のある仕上がりで、オーケストラパートのかおりが弾く、華やかで豊かな伴奏も、文句なしの共演だった。
かおりも、いい表情で僕のところに戻ってきた。
平山は、秋のコンクールにも安心してこのコンチェルトを持っていけるだろう。
かおりが去年グランプリだったコンクール。
僕が一昨年グランプリだったコンクールに。




