50卒業式
既に3月から音楽大学附属音楽教室の講師として稼働している僕は、今日が大学の卒業式だ。
母親はこの音大の講師なので講師席がある為、父親とかおりを保護者席に招待した。父親とかおりは大学のロビーで待ち合わせたようだ。僕は式の最後に卒業生代表演奏をするため、もっと早い時間から打ち合わせがある。待ち合わせには行けないかもしれないが、父親にはこれまでの御礼の言葉を、会って伝えたいと思った。この学内で。この空気の中で。
打ち合わせ前に、平山が僕のところに来た。
「槇先輩、御卒業おめでとうございます」
「ありがとう。在校生の出席は任意なのに、ありがとう」
「槇先輩が演奏されるのに、行かない選択肢はありません」
「知っていたのか。平山も来年弾けるように」
「そのつもりで頑張ります。……藤原さんと一緒に聴いてもいいですか?」
「あぁ、こちらからも頼むよ。面倒かけたら申し訳ない。ロビーに僕の父親もいるはずだ。僕も時間があったら後で顔出すよ、じゃ」
僕は、打ち合わせに行った。
槇先輩と別れた俺は、槇先輩のお父様と藤原さんを探しにロビーに向かった。
ロビーの向こうに、長身の男性がたくさんの女子学生に囲まれている。
「あれ?え?槇君?」
「えぇ、槇です。何で僕を知っているの?」
「もしかして槇君のお父さんですか?」
「判る?」
「似てますね!きゃ~格好いい!」
似たような光景。あれが槇先輩のお父様か。背格好が同じだが雰囲気はまるで違う。色気が……。やはり190センチはある。今日、槇先輩が着ていたスーツのテイストと同じだ。華やかな、とびきり仕立ての良いスーツで似合っていた。雰囲気も若々しい、というより本当に若い。50には行っていない……40半ば位か?一体何歳なんだ?そして何歳の時の子供なんだ?
そこへ藤原さんがロビーにやってきて、女子に囲まれたお父様に声をかけるタイミングを計っていた。俺は走っていって、先に藤原さんに声をかけた。
「藤原さん、おはようございます。本日はおめでとうございます」
「あ、……平山さん。おはようございます」
「あの方は、槇先輩のお父様?」
「はい、そうです。……一緒に行くことになっていて、待ち合わせしていたんです」
「やっぱり似ていますね。先程、槇先輩にお会いしました。藤原さんと一緒に出席していいか聞いたら頼むって言われました。ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
彼女はにこっとした。礼儀正しい子だな。マヤとは全然違っておとなしいけど。
お父様の方が藤原さんに声をかけて、こちらにやってきた。
「かおり!こっちこっち!君たち、またね」
「お父さん、おはようございます。……こちらは平山さんです。慎一さんの後輩でいらっしゃいます」
「そうか!初めまして、慎一の父です」
「平山です。本日はおめでとうございます」
「ありがとう」
「女性にモテるところも似ていらっしゃいますね」
「そうなの?慎一はかおり以外には冷たいんじゃない?」
「えぇ、それはそれは冷たいです」
「やっぱりね。笑顔振り撒いておけばいいのにね。あ、かおりがいやがるからか?」
「そのあたりは似ていないみたいですね」
「はははっ!慎一は、共学だったのに、女の子が苦手みたいなんだよね。中学に入ってからかな……雰囲気が変わってね。もしかして、君にも冷たい?」
「いえ、門下の先輩として、僕には大変気さくに接してくださいます。一度、高校時代にお宅に泊めていただいたことがあります。交通事情で関西の自宅に帰れなくて。その節はありがとうございました」
「そうだったんだ?会場の方に行こうか」
「はい」
俺たちは三人で、作曲家の名前がついた学内のホールに向かった。
向こうから槇先輩がやってきた。
「かおり、お父さん!」
「あぁ、慎一。おはよう。今日は演奏するんだって?何を弾くんだ?」
「おはようございます。慌ただしくてすみません。今日はありがとうございます。今日まで……勉強させてくれて、本当に……」
「そんなの!いいからいいから、ほら、かおり、行こう?」
お父様は、藤原さんの肩をさっと抱いてホールの入り口に向かった。
瞬間、槇先輩が怒りでカッとしたのがわかった。
「僕の真似をしないでください!」
「真似なんてしてないよ?これが地だよ?慎一と同じだも~ん!」
槇先輩が怒っている。珍しいな。面白いお父様だ。藤原さんの方が困っている。お父様の、藤原さんを抱きしめる力が強くなっていき、藤原さんの不安そうな表情に、槇先輩の静かな怒りが拡大していった。本気だ。
「慎一、演奏するんでしょ?もう行けば?集中しなきゃ。俺達はかおりと一緒に聴いてるから。行こう?かおり」
「来てもらって有り難いけど。先に席に着いてもらえる?かおり、来て。平山、後で第三控え室に来てくれる?」
「わかりました」
槇先輩は、藤原さんの腕を握って自分の胸元に寄せて、お父様から引き剥がした。
「じゃあ聴いてるね。しっかりね。平常心平常心~!」
槇先輩は藤原さんを連れて控え室に行ったようだ。俺は、ひとまずお父様と藤原さんと自分の座席を確保しに、卒業式会場ホールの受付に行った。
僕は、ステージ袖の裏手にある控え室にかおりを連れて行った。第三控え室にはピアノがある。今日、演奏する僕だけが使える控え室だった。誰も来ない。集中しろだって?平常心だって?こんな気持ちで本番を迎えるなんて……。静かな気持ちで弾きたい曲なのに、よりによって怒りが大きいなんて、どうしたらいい……。
自分が落ち着くだけなら、かおりを抱きしめれば……。いや、だめだ。それに、かおりは顔が赤くなったり、表情に出てしまう。隠そうとしても勘のいい男たちにはわかるだろうし、かおりは隠せないだろう。どうする……。
僕は、かおりに静かに伝えた。
「かおり、僕は今からここで集中するから、そこにいて。僕に触れないで、動かないでいてくれる?」
「…… はい」
控え室の中央にかおりを立たせた。僕はかおりに背を向けて真っ直ぐに立ち、扉の内側に両手をつけた。
かおりが僕と来てくれた。この部屋にかおりがいてくれる。それだけで落ち着くことができる。穏やかな気持ちになれる。しかし、この曲を弾くには、もっともっと静かな気持ちでいたい。かおりに好きだと伝えたくても伝えられなかった時の抑圧された気持ち。ただただ、かおりを想い、切ない気持ちでいっぱいだった毎日……。美しい音色を奏でる僕の心の彼女。音楽家としてのかおりへの憧れ……。
かおりも、母親もするように、僕は敬虔な気持ちで胸の前で十字を切った。
モニターから学長の式辞が聞こえ、卒業式の答辞が聞こえる。あと『ほたるの光』の合唱、記念品贈呈の後で僕の演奏だ。そろそろステージ袖に行こう。もう大丈夫だ。
「かおり、ありがとう」
「……いいえ、私は何も……」
「ありがとう」
扉をノックする音が聞こえる。
「槇先輩、平山です」
僕はドアを開けて、かおりに外に出るよう促した。
「ありがとう、平山」
「いえ。藤原さん、客席にご案内します」
平山さんと一緒に、お父さんが待つ客席に着くと、記念品贈呈が終わるところで、拍手が起こっていた。
慎一さんの卒業生代表演奏は、ショパン作曲の『幻想曲』だった。
慎一さんの演奏は静謐の中、厳かに始まり、美しくて素敵だった。中間部の音使いは情熱が溢れてくるようで、とても引きこまれた。普段の練習も聴かせてもらっているけれど、本番の演奏が一番素敵。私の先生……。幸せ。
お父さんが、私に言った。
「いい演奏だったね。精神を立て直すことも出来るようになったんだな。人間らしい、あたたかみのある、いい音楽だった。慎一がこんなにいい男になったのはかおりのおかげだ。ありがとう。父親として礼を言うよ」
「……でも、私は何もしていないんです。……お父さん、あの……私、慎一さんのお誕生日に、何かプレゼントしたくて……」
「そうか。かおりがいてくれるだけで、他に何もいらないと思うよ?俺もそうだったから。慎一は、優しくしてくれる?」
「はい、とっても」
「それならよかった」
お父さんは、スーツの内側のポケットから白い封筒を出して、私にくれた。
「今日はかおりにこれをこっそり渡したかったんだ。慎一の誕生日、発表会の日のホテルのスウィートのチケットだ。いつも会の運営を手伝ってくれてありがとう。ゆっくりしてくれ」
閉式の辞が終わると同時に、お父さんは席を立って、出口の向こうに消えていった。




