47新しい生活
かおりは高等部の卒業式も終わり、いよいよ春休みらしくなった。
暖かくなり、コートも必要なくなったが、これからは制服もない。大学生は私服が必要だからと、かおりはマヤちゃんと買い物に行くと言って出かけた。
僕は、4月に開始する音楽教室生徒のうち、希望者だけ夕方までの臨時レッスンがあった。レッスン後、夕方から合流してお茶を飲むか夕食を食べようということになった。
かおりが新居から一人で電車で出かけるのは初めてだ。デパートのあるターミナル駅まではほんのいくつかだから、大丈夫かな。僕は、レッスンが終わってから電車でそのデパートに出かけた。
待ち合わせした場所に行くと、かおりとマヤちゃんがいた。二人とも可愛くて、遠くからでも目立っていた。どう見てもマヤちゃんの方がたくさん買い物をしていた。
「こんにちは!槇さん、レッスンお疲れ様です!私はたくさん買っちゃったけど、かおりは迷っちゃってあまり揃えられなかったみたいだから、後はお二人でどうぞ~!かおり、またね!」
「マヤちゃんありがとう、またね」
僕も笑顔で見送った。
「さて、疲れた?ちょっとお茶でも飲む?迷った買い物の続きにする?……持つよ。貸して。何を買ったの?」
「ありがとう。あの、……マヤちゃんと一緒に買ったのは……下着とか」
「そうか」
小さい声だったけれど聞こえた。ショップの紙袋を見ても、僕には洋服なのか下着なのかはわからなかった。母親の買い物に、荷物持ちに付き合わされることはあったが、僕だってそんなに慣れているわけではないから、下着の買い物が済んでいて助かった。
「迷ったお店とか、もう一度行きたいお店とか、まだ行っていないお店とか、どこに行きたい?」
かおりに聞いてみた。
「ありがとう。ここに行きたい」
かおりは、館内の地図を僕に見せて、数ヶ所のお店を指差した。僕は効率良く回れるよう、お店の場所とエスカレーターの場所とかおりが好きそうなティールームの場所を覚えた。
かおりが洋服を買うのに迷ったというお店に行くと、店員がぱあっとした笑顔で直ぐに出てきた。
「あ、来てくれたのね!うれしい!まだありますよ?あっ!もしかして彼氏さん?やだ、本当に格好いい!彼氏さん!これとこれ、迷われてたんですけど、どっちがいいですか?サイズもぴったりだし、両方お似合いです!彼氏さんの好みはいかがですか?」
ここにもマヤちゃんがいた……と僕は笑ってしまった。
「かおりは、この2つで迷っていたの?」
「うん。他にもあったけど、一番気に入ったのがこの2つなの。パパからカードを預かっているから、お金も大丈夫。……慎一さんは、……こういうの……好きかな?」
「両方好みだし、かおりに似合いそう。試着してぴったりだったなら、両方買ったら?僕には家でゆっくり見せてくれればいいよ。……すみません、両方お願いします」
僕は包んでもらうよう、店員に声をかけた。
「ありがとうございます!優しい彼氏さん!最高ですね!彼女さんも可愛いし、素敵なカップルですね!……カードお預かりしますね」
どの店に行ってもこんな感じで、数ヶ所回ったがあっという間に終わった。きっと、試着に時間がかかるんだな。
女の子向けルームウェアのディスプレイが目に留まった。かおりが着たところを見てみたい。シャーベット色で、前に並んだ大きなボタンがキャンディみたいでかわいい。もこもこした素材の上着の裾からはショートパンツがちらっと見えていた。かおりは足が長いから、似合いそうだ。もともと体温は低めだから、冷える心配はないだろう。
「かおり、これ……僕が気に入ったんだけど」
と言って店員に声をかけた。
「すみません、これ、彼女に合うサイズ見せてください」
店員が出してくれたので、かおりにあててみた。
「かわいい。どう?」
「着る」
かおりは下を向いて、にこっと笑った。
店員に、僕のカードを渡した。僕の手に、ショッピングバッグが一つ増えた。かおりは嬉しそうだった。
夕食の時間になった。かおりに、ティールームとレストランのどちらにするかと聞いたら、ティールームと答えた。
夕食の時間帯のティールームは空いていた。
僕のコンクールの結果待ちに行ったティールームと似たような雰囲気だった。僕はかおりを見つめながら、いろいろ思い出していた。
僕は、小さい頃からかおりを連れて演奏会に出かけた。そういう時に、値段が安くて頼んだものが直ぐに出てくるお店には、かおりを連れていかないようにと母親に言われていた。僕は、子供には適切ではないような額のお金を常に持たされ、外出時は襟のついたシャツやジャケットに革靴など、きちんとした洋服を着せられていた。女の子にはソファに座らせるとか、お会計のお願いの仕方や、化粧室を勧めてあげるとか、化粧室は緊急でなければ必ずホールかデパートでとか、かおりと一緒に行ったらどうするかを、教えられていた。
かおりは子供の頃から、二人で外出して僕を困らせたことは一度もなかった。通常、クラシックの演奏会には小学生になるまで入れない。かおりは一年生になる前でも背が高かったし、おとなしかった。長い時間、ずっと座って前を見ていられた。僕はステージを見ているふりをして、かおりの横顔を見つめていたりした。
なので、こんな夕食の時間帯のティールームも、僕たちは慣れていた。子供の頃は、二人でサンドウィッチを頼んだり、フルーツカレーを頼んだりした。かおりがこういうところでデザートに何を頼むかも、だいたい想像がついた。かおりが好きな組み合わせは、紅茶とカスタードプリンで、次にフルーツのタルトか、フルーツの乗ったショートケーキのどちらかだった。僕はいつもコーヒーだった。昔は砂糖もミルクも入れたけれど、だんだん必要なくなった。
今日は、運ばれてきてから気づいた。
かおりはガトーショコラを頼んでいた。
「慎一さん、一緒に食べよう?」
僕はあまり甘いものはあまり食べないが、ガトーショコラは少し好きだった。僕が小さい頃、母親がよくつくってくれた。それでも、一切れでも多すぎる。一口でよかった。店内に、人はあまりいなかった。かおりは僕にフォークを差し出した。
僕は、
「食べさせて?」
と言ってみた。
かおりは驚いていたが、一口ぶんをフォークで切って、ゆっくり僕の口許に持ってきた。
僕はそれを口に入れて、かおりを見た。
かおりは僕に見つめられてほんの少し恥じらっていた。
「ありがとう。僕は一口でいいから。後はかおりが食べていいよ?あ、今度は僕がしようか?」
と言ったら、
「いえ、いいです」
と、下を向いて自分の方にケーキを寄せた。
「結構照れる。かおりがこんなことをしてくれたなんて、感激だな」
「……そう、なんですか」
僕たちは電車で新居に帰った。電車内はそんなに混んでいなかったが、座る場所はなかった。いくつかで降りるし、ドアの近くに二人で立っていた。
「やっぱり、慎一さんが一緒だと安心する。だれも近くに来ないし」
かおりが小さな声で言った。
「え?何?」
僕はかおりの口許に耳を近づけた。
「行くときの電車はすごく空いていて、座るところもあったのに、私がこういうドアのところに立っていると、男の人が近くに来て、すごく近くに。何もされてないけど怖くて、二人とかに挟まれたら逃げられないし」
「かおり……それは、今日?今までにもあったの?」
「うん、今日。今までも……でも何もされていない」
僕は何とも言えない気持ちで、胸が締め付けられる思いだった。大学には、かおりの実家からだったら電車通学だった。新居からなら徒歩だ。よかった。でも、何もされていないと感じさせるほど巧妙な手口に、怒りと悔しさと、どうしようもない過去……。僕が一緒だと安心すると言ってくれたのは嬉しいが、やるせなかった。
おそらくかおりは、触れられていても気付かずに、その程度のことなら逃げることもなく、誰かに助けを求めることもなく、そもそも誰かに助けてもらうことを考えつかなかったかもしれない。今後そうなったらどうなるか……。僕は考えただけでおそろしかった。遅まきながら、今わかってよかったとしか言えない。
帰宅してから、僕はリビングのソファにかおりを座らせた。
「かおり、こっちに来て。今から補習。いい?」
「はい」
「電車でのことだけど、その男たちがしたことは犯罪です」
「ええっ?そうなんですか?……って私が言うのもおかしいですね?」
「そう。そういう男は、彼女に対してすることと同じようには触らない。触れないんだ。女の子が、自分が触られているとわからないように触るはず」
「……さわりかたがちがうの?」
「そう。目的が違うから。彼氏や僕だったら、彼女のことを大切に触る。かおりは、知らない男の人に体を触られたら嫌でしょ?」
「絶対にいや。気持ち悪い」
「だから、気持ち悪いと思われないよう、触られていることがわからないように触る。それは痴漢で、痴漢は犯罪です」
かおりは暗い表情で黙った。
「これから気をつけて。座席が空いていたら座るとか、女性の近くにいて?何か変だと気づいたら勇気を出してすぐに降りるとか、車両を変えて」
「はい」
「よかった。……じゃ、僕が選んだあのお洋服着て?」
「……はい。……あれね、私もかわいいなって思ってたの。マヤちゃんたちがプレゼントしてくれたネグリジェがあったから、マヤちゃんの前ではあのお店に行かなかったの。……シャワー浴びて、着替えてきます」
シャワーも浴びてくるなんて。いつも僕が先なのに、かおりに先手を打たれたみたいだ。そうだ。僕も一緒にシャワーを浴びればいいか。恥ずかしがられても、いやがられはしないだろうと思った。いやがったら、バスルームでキスして、いやがれなくしてやる。
僕は、立ち上がって自分のバスタオルを取りに行った。




