46マヤの部屋
かおりの卒業式の前日、僕たちは久しぶりにそれぞれの実家に戻った。何だか変な感じだった。ずっとここに住んでいたのに、部屋もベッドも狭く感じ、たった一晩かおりといられないことが、物足りなかった。
今日は高等部の卒業式だ。僕は保護者として出席する。時計を見た。かおりは今頃スカーフを結んでいるだろうか。僕はスーツを着てかおりを迎えに行った。
いつものように勝手に入った。かおりはリビングの広いテーブルに鏡を置き、スカーフを広げて折り、結ぼうとして失敗し、また広げては折り、ということを繰り返していた。やっぱりな。いつもと変わらないかおりの様子に、何だか安心しそうだ。
「おはよう、かおり」
真剣にスカーフと戦っている。僕が来たことは解ったようだが、手と顔とスカーフがついてきていない様子だった。僕は、かおりがテーブルの上で折ったスカーフの中央を掬い上げた。かおりの後ろから頬にキスをして、そのまま顎をつついて上を向かせた。制服のブラウスの襟にスカーフをはさみ、リボンのように結んだ。ふわっと、というよりすっきりした感じだが、形は綺麗にできた。
「どう?」
鏡を見たかおりはびっくりしていた。
「きれい。はやい。信じられない」
「よかった。他のお支度をどうぞ」
「あとは靴を履いて鞄を持つだけです」
「あと30分はあるな。うちに行って弾いてからいこう」
「はい、あ、まって」
かおりは、リビングを出て少ししてから戻ってきた。
「……まだしたえだった」
……何だ?僕は特に気にしなかった。
久しぶりに僕の実家で練習した。
ショパンのエチュード作品10を12曲、最初から弾かせた。11番があまり上手くいかなかった。ある1小節の応用練習をさせて、12番は省略した。そして一緒に家を出た。
外はあたたかかった。
コートを持たずに外出したのは久しぶりだ。かおりの制服姿も今日で最後か。幼稚部から高等部卒業まで同じ、赤いリボンに明るいグレーの制服を、どれだけ身近に感じてきただろう。全体的な人数は多くない。それだけに街や駅でその制服を見かけると、気になって目で追ってしまうくらいだった。どの子も品が良く、お嬢様学校と言われるのがわかった。同窓生の愛校心が育つのもわかる。
かおりは、卒業生代表として文章を読み上げていた。僕は講堂の3階席からかおりの声を聞いていた。最後にこちらを向いて、礼をして、自分の席に戻っていった。その時、違和感があった。何だ?……ベルトがいつもより長い?ボレロに隠れているけど、確かにいつもと違う。かおりのベルトは短くて端がギザギザだったのに、今はちょっと横に出て丸くカットされていた。朝もそうだっただろうか?
卒業式の帰りに、僕はかおりと一緒にマヤちゃんの家に遊びに行くことになっていた。かおりは幼稚部から高等部まで徒歩10分だが、マヤちゃんのお宅は電車で10分だった。初等部から一人で電車通学をしていたようだ。おしゃべりするマヤちゃんと、にこにこするかおりを見ながら、僕は後ろから着いていった。かおりだったら心配だっただろうな、と父親のような気持ちになった。
かおりのボレロの中のベルトをちらりと見ると、やはり端は短くてギザギザだった。僕はかおりに聞いてみた。
「かおり、今日はそのベルト、朝からつけたまま?」
かおりはびっくりして鞄を落とした。……おいおい、僕は鞄を拾いながら笑った。マヤちゃんも笑った。
「槇さん、よく気がつきましたね」
「かおりを観察するのが趣味だから」
マヤちゃんはかおりに聞いた。
「かおり、説明できるの?」
「……長くなりそう……それでもいい?」
「どちらかというと、説明していい?って私が聞くところじゃない?」
「お願いします」
というわけで、マヤちゃんが説明してくれた。
スカートのベルトは立っているだけならボレロであまり見えないが、動くと見える。一応人前に立つことだし、式の時だけマヤちゃんがベルトを交換してくれたそうだ。
「ありがとう。よくわかった。で、どうしてギザギザなのかも教えてくれるの?」
僕は誰に、という訳でもなく聞いてみた。
「かおり、話していいの?」
「マヤちゃんも知ってるの?知りたいな」
僕は答えた。かおりはちょっと下を向きながら渋々口を開いた。
「マヤちゃん、ええっと、もう話してもいいよね?」
「いいと思うよ?」
マヤちゃんが答えてくれた。
こういうことらしかった。
僕が大学3年でコンクールに出た時、3回ある予選のうちのいつかが平日の午後で、当然だがかおりは学校だった。かおりは僕の演奏をどうしても聴きたくて、学校を抜け出す計画を立てた。お昼休みはいいとして、午後の授業をどうするか、何時に学校に戻ってこられるか、計算したメモをマヤちゃんに見せて相談した。マヤちゃんは、真面目なかおりが皆勤賞なのにそんなことを考えるなんて、と驚いた。
マヤちゃんは、電車の移動は慣れているし、コンクール会場は学校の近くだった。演奏が時間通りに進む前提で、乗り換えの所要時間、タクシーだったら時間が短縮できるかどうか、計画を細かく精査した。ホールに行く時は電車で確実に。学校に戻る時はタクシーで行くことにして、4時間目が終わったらすぐに出発、6時間目が始まるギリギリに戻れる。5時間目は保健体育だったので、かおりとマヤちゃんは保健の先生のところに相談に行った。普通は言わないと思うが、正直に言うところが彼女たちらしい。保健の先生からは、保健体育の授業中に音楽を勉強するのなら許可する。しかし、かおり一人ではNGで、マヤちゃんが一緒に行くならばOKという、不思議かつ的確な返事がきた。
僕は知らなかった。コンクールの予選は無料で公開されていたが、かおりに学校を休んで聴きに来させるなんて考えもしなかったし、かおりが学校を抜け出そうとするなんて尚更。かおりは来ていないと思っていたし、暗い曲ばかりだったから、大切な人に聴いてもらえない残念さが加わり、リアルに表現されてよかったことにした。こっそり聴きに来てくれていたなんて、嬉しかった。
その時に、ホールに向かう電車に乗ったら、駆け込み乗車をしたため、かおりのベルトがドアに挟まってしまった。かおりはベルトを一番細く締めていたから、端が長かった。秋だったからボレロは着ていなくて、ジャンパースカートだった。ベルトは太くて芯があったので、しっかり挟まれていて、引っ張っても動かなかった。降りる駅が反対側のドアだったので、かおりはソーイングセットのハサミで必死で切ったと言う。
おかげで僕の出番ギリギリに間に合い、マヤちゃんは演奏を聴かずに外でタクシーを捕まえておき、演奏が終わってすぐに二人でタクシーに乗り込み、6時間目の開始時刻に授業に戻れたのだと言う。
マヤちゃんは、おとなしいかおりが学校を抜け出す計画を立てたこと、保健の先生にお願いしに行ったこと、泣いたりしないでベルトを切ってなんとかしようとしたことに、とても驚いたそうだ。そんなことがあったなんて、僕も驚いた。
そんな話をしていたら『平山』という立派な表札のある豪邸に着いた。マヤちゃんは、その敷地の離れというか、隣接した別宅に案内してくれた。
「マヤ、お帰り」
高橋が出迎えてくれた。え?何これ?僕は驚いた。
「槇先輩、藤原さん、どうぞ」
かおりは知っていたみたいだった。
高橋は、本当に平山になったみたいだった。
「彼女の名字になるの、流行ってるの?」
と言ったら高橋が、いや平山が笑った。高橋がこんなにさわやかに笑うなんて。
「どうそお入りください。槇先輩、結婚してキャラ変わったんですか?」
「それは高橋だろ?高橋でいいの?ひ、平山?」
「どちらでもいいです。ただ、僕はこだわらないので、通称でなく平山にしています。マンションも解約したので住所もここです。僕も指輪着けようかな?まだ買っていないんですけど」
「今までの高橋での入賞歴とか、いいのか?もちろん消える訳じゃないけれど、他の人にはわからないだろう?」
「平山の家が応援してくれるというので、今後一から作り直しても構いません。演奏が変わる訳ではないですし。それで」
僕たちをソファに座らせて、高橋は言った。
「お越し頂いてのお願いで申し訳ございません。僕が4年になった時の、学内のコンチェルトオーディション、オケパートを藤原さんにお願いしたいのですが」
「あぁ、……5月末だったか。かおりは学内の公式行事の出場資格があるからな。僕は講師だし、教員は出られない。今、弾けるよね?」
「聴いていただけますか?お願いします」
高橋は、かおりに楽譜を渡した。
広い部屋の奥に、スタインウェイのグランドピアノが斜めに置かれている。先程まで練習していた様子だ。譜面台の横にも無造作に楽譜が積まれている。
かおりは、
「……隣で聴かせていただいてもいいですか?2台だとこちらから見ますので。」
と、ピアノの向こう側に行った。
「どうぞ、椅子を用意します」
高橋は、リストのコンチェルト変ホ長調を暗譜で通して弾いた。かおりは、楽譜を見ながら真剣に聴いていた。
高橋の演奏に、僕は目を見張った。以前だって上手いと思っていたが、ものすごく上手くなっている。何だろう、結婚して自信がついたのだろうか?僕が結婚してピアノが捗るようになったのを『かおり効果』と密かに名づけていたが、それと同じ種類だろうか。いいな、うん。
演奏後、かおりが言った。
「……私も弾いてもいいですか?」
かおりは、今の曲のオケパートを初見で弾いた。まだ弾いたことはないし、音も全て弾いてはいないが、主要な和音は押さえて、高橋が弾いたテンポで、高橋のパートのみの場所は確かにそれを感じながら、まるで高橋と一緒に演奏しているように演奏をした。うん。
「大丈夫じゃないか?高橋、どう?」
「ありがとうございます。2台で合わせるのが楽しみです。藤原さん、よろしくお願いいたします」
先程から席を外していたマヤちゃんが、紅茶とサンドウィッチとガトーショコラを運んできた。
「かおりとコンチェルトするの、決まった?よかったね。かおり、慎二さんとよろしくね」
「うん。頑張って練習する」
マヤちゃんの部屋にいる高橋は、以前のちょっとクールな感じではなく、朗らかで生き生きしていた。
今度の学内のコンチェルトオーディションでは高橋が、いや平山慎二が合格して、コンクールにも挑むだろう。
去年、かおりがグランプリになったコンクール。
一昨年、僕がグランプリになったコンクール。
マヤちゃんも、とても幸せそうだった。
四人で食べたガトーショコラは洋酒が少し入って、ちょっと甘めで美味しかった。




