26僕の部屋
学校帰りのかおりを待ってどのくらいになるだろうか。
高等部の通用門がある道路は広くて、風がある。近くだからと軽装のままで来てしまったが、防寒してこなかったことを後悔した。
マヤちゃんは一時間くらいって言ってたけど、既にそれ以上経過している。
そこへ、髪の長い女の子が一人で下を向いたまま出てきた。冷たい風が吹いて、髪が靡いて顔が見えた。かおりだった。見たことのない表情だった。黙っているとはいえ、気配が静かすぎる。声をかけずに、かおりが近づいてくるのを待った。
危うく通りすぎてくれるところで、声をかけた。この距離で男が……僕がいることに気づかないなんて、ショックと同時に別の心配もした。
「かおり!」
「……先生、……どうして……」
下を向いていたかおりが顔を上げると、明らかにさっきまで泣いていた形跡があった。僕は距離を詰めて頬に触れた。間違いない。泣いた目をしている。
「……かおり、泣いた? 何があった」
僕を見て笑顔にならないかおりは、変だった。次の瞬間、僕を振り切って走ろうとした。僕は思わず腕を掴んだ。
「迎えに来た。一緒に帰ろう」
何も言わない。まるで、僕に会いたくなかったみたいだ。おかしい。いつものかおりじゃない。
かおりの家も僕の家も同じ社宅で徒歩10分だからすぐに着いた。
オートロックを解除したかおりは、自分の家である2階に階段で上がろうとした。
「今日はこっち」
僕はかおりの手を引いて、強引に1階の僕の家に入れた。そして、ピアノのあるリビングでもなく、母親のレッスン室でもなく、僕の部屋に入れた。
僕の部屋に入れたのは初めてだ。
今日は母親は大学でレッスンしているから遅くなる。教授のことも何か進展があればわかるだろう。
リビングには、僕たちが代わる代わる弾いているコンサートサイズの大きなグランドピアノがある。奥の防音室にはグランドピアノが2台並べてあり、母親が生徒のレッスンに使う。だから、他の部屋は狭い。本当に狭い。僕の部屋は寝るだけだから、ベッドとテレビしかない。テレビなんて、殆ど見ないが。
ベッドは流石にまずいから、ベッドとテレビの間の床にクッションを置いてかおりを座らせた。僕はキッチンからコーヒーと、頂き物のデザートを持ってきて、横に置いた。ドアを閉めた音が、やけに大きくなってしまった。納得できるまで、帰すつもりはない。
わざと、ちょっと怒って言ってみた。
「かおり、あんな顔で外を歩くなんて。何があった?」
かおりは答えなかった。
想定内。作戦のうちだ。
ガラッと甘い声に変えて、別の方法を試みた。
「じゃあ、先におやつにしよう。ちょうど頂き物のデザートがあったから、これ好きでしょ? 先に選んで」
「先生が好きです」
また、……妙なところで直球で来るんだから。真剣に僕を見ている。何があったんだ。
「僕も好きだよ」
声のトーンを落として、真面目に答えた。一応、理性はある。本当は僕が死ぬほど我慢しているはずなのに、自覚のないかおりに誘われるなんて、気に入らない。でも、かおりの意識は全然違うところにあるみたいで、黙っていた。
僕は、出来上がったDVDを見せる準備をした。卒業試験のライブ録音のサンプルが上がったばかりだった。
「このDVD、恥ずかしいけど一緒に見てくれる?」
サンプルだから、まだ僕の写真のジャケットはついていない。何のDVDかはわからないはずだ。ん?かおりが真っ赤になった。
「かおり、熱がある? コーヒー熱かった?」
「ううん!」
「アイスコーヒーにすればよかった? 寒いのに、そんなわけないよね」
僕は構わずDVDをセットした。
「……あの、……予習、でしょうか……見るだけ?」
「予習? うん、そうだね。勿論、見るだけだよ。かおりの練習にもなるかなって」
「……予習、私の練習……」
かおりは僕の背中の方にじりじりと後退りしている。
テレビとベッドの間にそんなスペースがないから横に並んでいるってのに。猫みたいだ。
DVDは静かに始まった。画面に大学のホールが映された。カメラマンがホールの入り口から中に入ると、ホールスタッフが客席への扉を開け、まるでお客様になった気分で客席に入っていく。ステージ中央には、コンサートグランドピアノがある。まだ演奏者はいない。なかなかいい構図だ。
「シンイチ マキ」
卒業試験のアナウンスがあり、名前が呼ばれた後、燕尾服姿の僕がステージ袖から出てきた。
かおりの動きが止まった。僕の背中から、前に身を乗り出している。まるで背後から抱きしめられているようだ。胸は当たっているし、耳には僅かに吐息を感じる。かおりの長い髪が前に落ちてくる。これからショパンの『エチュード』が27曲、80分あるんだけど、これでは試験じゃなくて試練か?
かおりはそのまま動かずに、ずっと黙って観ていた。僕は動けるはずもなく、ずっと堪えていた。
ショパン作曲『エチュード』は作品10が12曲、『新しい練習曲』が3曲、それから作品25が12曲。その中で、かおりは『エオリアンハープ』が好きだ。コンクールでも弾いたから、今度リサイタルでも弾く。楽しみだな。楽しみといえば。
16曲めの『エオリアンハープ』が終わった後、僕は反撃に出た。半分以上僕が我慢したからもういいだろう?
「かおり、狭い。足が痺れた、ちょっとごめん」
そう言って、かおりを抱いてベッドの上に押し倒した。やってみたかったんだ。遊びで。
かおりは想像以上に軽くて、簡単に組み伏せることができた。かおりがいやがったら、自分で外せる程度の力で、両手をシーツに押さえつけた。
さっきまで猫みたいに狭いところにいたかおりの表情が、少女のようなそれではなく、大人になりかけの女の子の、蕩けるような表情をしていた。その表情は、僕が煽られるには充分だったけれど、かおりは誘惑しているわけではない。いけない。僕が負けちゃいけない。僕は本当は怒っている。僕の知らないところで、かおりを泣かせた何かに。
「……かおり。さっきまで、何故泣いていた?」
答えなかった。
「……もう、大丈夫?」
僕が重ねて聞くと、かおりは黙って頷いた。
「なら、いい。不問にする。次」
かおりは黙ったまま僕を見ていたが、明らかに困っていた。答えられない訳じゃなく、答えたくない類だろう。でも、僕の手は自分では外せないと思っているみたいで、逃げる気もなさそうだ。もちろん、この状況で僕から逃げられる訳がない。膝下丈の制服のスカートが、ちょっとはだけているが……。そっちを見るわけにはいかない。
「今日は、何の居残りだった?」
「……っ!……」
かおりが真っ赤になって顔を背けた。
「……ど、どうして知ってるの?」
「通用門でかおりを待っていたらマヤちゃんに会った。礼儀正しくていい子だ。何の居残りかは教えてくれなかった。かおり、答えて?」
かおりの表情から、緊迫感が伝わってきた。
「……それも、もう大丈夫」
考えたな。かおりは学習能力が高い。演技が下手で笑いそうになる。まだ言わないつもりか。珍しく、かおりに反抗された気分だ。
「そうか、ならそれも不問にしよう。次」
わざと、何でもない風に答えた。
僕は、今まで軽く組み伏せていただけの体を密着させた。これでもう、かおりが逃げたくても絶対に逃がさない。
誘うように訊いた。
「これ、何のDVDだと思ったの?」
かおりは、一生懸命横を向いて返事を拒否した。
「ん?答えて?」
かおりは視線を泳がせたまま口を結んでいる。
「答えてほしいけど、答えないなら……僕に隠し事をするなんて、いい度胸だ」
いつの間にかDVDは『木枯らし』が終わり、最後の曲になるところだった。ちょっと強めにキスをすると同時に最終曲である『大洋』が流れ始めた。
かおりは、恥ずかしがりながらも僕の深いキスを受けていた。かおりは息が吸えていなくて、僕は手加減するように唇を離してやったのに、その瞬間の吐息は僕を更に興奮させた。足が動いて、はだけていたスカートがもっと上がってしまった。見えないけど、かおりの長い足は、きっと綺麗だろう。触れてみたいが、まだだめだ。
『献呈』でプロポーズした日の、ホテルのスウィートでのキスも良かったけど、僕の部屋の狭い空間でかおりを組み伏せることが、こんなにも煽られるなんて知らなかった。もう自分が止められないかもしれない。
『大洋』がもうすぐ終わる。この曲はピアニストによってテンポは様々だが、せいぜい3分の曲だ。僕は得意だからかなり速く、それより数十秒短い。たった2分半でこんなに止め難い衝動に駆られるなんて……。
これ以上はダメだ!
曲の終わりと同時に、僕は唇を離した。
静寂の後。
「ハラショー!!」
教授の声が、高らかにホールに響き渡った。
そうだ、卒業試験で大勢の先生方がいらっしゃる中、「ハラショー!!」と言って真っ先に立ち上がって称賛の拍手をしてくれたのは、確かに教授だった。
コンクールの時もそうだった。
僕は体を起こして画面を見た。画面の中には、先生方からのたくさんの拍手の中、こんなことになるとは知らない、あの時の僕が写し出されていた。
教授は、映っていなかった。
そう。もう、教授はいなかった。




