表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君が奏でる部屋  作者: 槇 慎一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/148

26僕の部屋



 学校帰りのかおりを待ってどのくらいになるだろうか。


 高等部の通用門がある道路は広くて、風がある。近くだからと軽装のままで来てしまったが、防寒してこなかったことを後悔した。


 マヤちゃんは一時間くらいって言ってたけど、既にそれ以上経過している。


 そこへ、髪の長い女の子が一人で下を向いたまま出てきた。冷たい風が吹いて、髪が靡いて顔が見えた。かおりだった。見たことのない表情だった。黙っているとはいえ、気配が静かすぎる。声をかけずに、かおりが近づいてくるのを待った。


 危うく通りすぎてくれるところで、声をかけた。この距離で男が……僕がいることに気づかないなんて、ショックと同時に別の心配もした。


「かおり!」

「……先生、……どうして……」


 下を向いていたかおりが顔を上げると、明らかにさっきまで泣いていた形跡があった。僕は距離を詰めて頬に触れた。間違いない。泣いた目をしている。


「……かおり、泣いた? 何があった」


 僕を見て笑顔にならないかおりは、変だった。次の瞬間、僕を振り切って走ろうとした。僕は思わず腕を掴んだ。


「迎えに来た。一緒に帰ろう」


 何も言わない。まるで、僕に会いたくなかったみたいだ。おかしい。いつものかおりじゃない。


 かおりの家も僕の家も同じ社宅で徒歩10分だからすぐに着いた。


 オートロックを解除したかおりは、自分の家である2階に階段で上がろうとした。


「今日はこっち」

 僕はかおりの手を引いて、強引に1階の僕の家に入れた。そして、ピアノのあるリビングでもなく、母親のレッスン室でもなく、僕の部屋に入れた。



 僕の部屋に入れたのは初めてだ。

 今日は母親は大学でレッスンしているから遅くなる。教授のことも何か進展があればわかるだろう。


 リビングには、僕たちが代わる代わる弾いているコンサートサイズの大きなグランドピアノがある。奥の防音室にはグランドピアノが2台並べてあり、母親が生徒のレッスンに使う。だから、他の部屋は狭い。本当に狭い。僕の部屋は寝るだけだから、ベッドとテレビしかない。テレビなんて、殆ど見ないが。


 ベッドは流石にまずいから、ベッドとテレビの間の床にクッションを置いてかおりを座らせた。僕はキッチンからコーヒーと、頂き物のデザートを持ってきて、横に置いた。ドアを閉めた音が、やけに大きくなってしまった。納得できるまで、帰すつもりはない。


 わざと、ちょっと怒って言ってみた。

「かおり、あんな顔で外を歩くなんて。何があった?」







 かおりは答えなかった。

 想定内。作戦のうちだ。


 ガラッと甘い声に変えて、別の方法を試みた。

「じゃあ、先におやつにしよう。ちょうど頂き物のデザートがあったから、これ好きでしょ? 先に選んで」

「先生が好きです」



 また、……妙なところで直球で来るんだから。真剣に僕を見ている。何があったんだ。


「僕も好きだよ」

 声のトーンを落として、真面目に答えた。一応、理性はある。本当は僕が死ぬほど我慢しているはずなのに、自覚のないかおりに誘われるなんて、気に入らない。でも、かおりの意識は全然違うところにあるみたいで、黙っていた。



 僕は、出来上がったDVDを見せる準備をした。卒業試験のライブ録音のサンプルが上がったばかりだった。


「このDVD、恥ずかしいけど一緒に見てくれる?」


 サンプルだから、まだ僕の写真のジャケットはついていない。何のDVDかはわからないはずだ。ん?かおりが真っ赤になった。


「かおり、熱がある? コーヒー熱かった?」

「ううん!」

「アイスコーヒーにすればよかった? 寒いのに、そんなわけないよね」


 僕は構わずDVDをセットした。


「……あの、……予習、でしょうか……見るだけ?」

「予習? うん、そうだね。勿論、見るだけだよ。かおりの練習にもなるかなって」


「……予習、私の練習……」

 かおりは僕の背中の方にじりじりと後退りしている。


 テレビとベッドの間にそんなスペースがないから横に並んでいるってのに。猫みたいだ。


 DVDは静かに始まった。画面に大学のホールが映された。カメラマンがホールの入り口から中に入ると、ホールスタッフが客席への扉を開け、まるでお客様になった気分で客席に入っていく。ステージ中央には、コンサートグランドピアノがある。まだ演奏者はいない。なかなかいい構図だ。


「シンイチ マキ」


 卒業試験のアナウンスがあり、名前が呼ばれた後、燕尾服姿の僕がステージ袖から出てきた。


 かおりの動きが止まった。僕の背中から、前に身を乗り出している。まるで背後から抱きしめられているようだ。胸は当たっているし、耳には僅かに吐息を感じる。かおりの長い髪が前に落ちてくる。これからショパンの『エチュード』が27曲、80分あるんだけど、これでは試験じゃなくて試練か?


 かおりはそのまま動かずに、ずっと黙って観ていた。僕は動けるはずもなく、ずっと堪えていた。







 ショパン作曲『エチュード』は作品10が12曲、『新しい練習曲』が3曲、それから作品25が12曲。その中で、かおりは『エオリアンハープ』が好きだ。コンクールでも弾いたから、今度リサイタルでも弾く。楽しみだな。楽しみといえば。


 16曲めの『エオリアンハープ』が終わった後、僕は反撃に出た。半分以上僕が我慢したからもういいだろう?


「かおり、狭い。足が痺れた、ちょっとごめん」


 そう言って、かおりを抱いてベッドの上に押し倒した。やってみたかったんだ。遊びで。


 かおりは想像以上に軽くて、簡単に組み伏せることができた。かおりがいやがったら、自分で外せる程度の力で、両手をシーツに押さえつけた。


 さっきまで猫みたいに狭いところにいたかおりの表情が、少女のようなそれではなく、大人になりかけの女の子の、蕩けるような表情をしていた。その表情は、僕が煽られるには充分だったけれど、かおりは誘惑しているわけではない。いけない。僕が負けちゃいけない。僕は本当は怒っている。僕の知らないところで、かおりを泣かせた何かに。



「……かおり。さっきまで、何故泣いていた?」


 答えなかった。



「……もう、大丈夫?」

 僕が重ねて聞くと、かおりは黙って頷いた。



「なら、いい。不問にする。次」


 かおりは黙ったまま僕を見ていたが、明らかに困っていた。答えられない訳じゃなく、答えたくない類だろう。でも、僕の手は自分では外せないと思っているみたいで、逃げる気もなさそうだ。もちろん、この状況で僕から逃げられる訳がない。膝下丈の制服のスカートが、ちょっとはだけているが……。そっちを見るわけにはいかない。



「今日は、何の居残りだった?」

「……っ!……」


 かおりが真っ赤になって顔を背けた。


「……ど、どうして知ってるの?」

「通用門でかおりを待っていたらマヤちゃんに会った。礼儀正しくていい子だ。何の居残りかは教えてくれなかった。かおり、答えて?」


 かおりの表情から、緊迫感が伝わってきた。




「……それも、もう大丈夫」 

 考えたな。かおりは学習能力が高い。演技が下手で笑いそうになる。まだ言わないつもりか。珍しく、かおりに反抗された気分だ。


「そうか、ならそれも不問にしよう。次」

 わざと、何でもない風に答えた。


 僕は、今まで軽く組み伏せていただけの体を密着させた。これでもう、かおりが逃げたくても絶対に逃がさない。



 誘うように訊いた。

「これ、何のDVDだと思ったの?」


 かおりは、一生懸命横を向いて返事を拒否した。

「ん?答えて?」


 かおりは視線を泳がせたまま口を結んでいる。


「答えてほしいけど、答えないなら……僕に隠し事をするなんて、いい度胸だ」


 いつの間にかDVDは『木枯らし』が終わり、最後の曲になるところだった。ちょっと強めにキスをすると同時に最終曲である『大洋』が流れ始めた。


 かおりは、恥ずかしがりながらも僕の深いキスを受けていた。かおりは息が吸えていなくて、僕は手加減するように唇を離してやったのに、その瞬間の吐息は僕を更に興奮させた。足が動いて、はだけていたスカートがもっと上がってしまった。見えないけど、かおりの長い足は、きっと綺麗だろう。触れてみたいが、まだだめだ。


 『献呈』でプロポーズした日の、ホテルのスウィートでのキスも良かったけど、僕の部屋の狭い空間でかおりを組み伏せることが、こんなにも煽られるなんて知らなかった。もう自分が止められないかもしれない。


 『大洋』がもうすぐ終わる。この曲はピアニストによってテンポは様々だが、せいぜい3分の曲だ。僕は得意だからかなり速く、それより数十秒短い。たった2分半でこんなに止め難い衝動に駆られるなんて……。



 これ以上はダメだ!


 曲の終わりと同時に、僕は唇を離した。







 静寂の後。

「ハラショー!!」

 教授の声が、高らかにホールに響き渡った。


 そうだ、卒業試験で大勢の先生方がいらっしゃる中、「ハラショー!!」と言って真っ先に立ち上がって称賛の拍手をしてくれたのは、確かに教授だった。



 コンクールの時もそうだった。


 僕は体を起こして画面を見た。画面の中には、先生方からのたくさんの拍手の中、こんなことになるとは知らない、あの時の僕が写し出されていた。





 教授は、映っていなかった。



 そう。もう、教授はいなかった。
















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ