21ショパンエチュード
かおりがオーケストラとコンチェルトを共演する日が近づいて来た。
毎日教授のレッスンに送り迎えをしていたが、僕はレッスンを聴いていないので、しばらくの間かおりのピアノを聴いていなかった。
僕は大学4年生で大切な卒業試験があり、自分の練習をしなければならなかった。
音楽大学の講師になるには、大学院に行ったり留学したりして演奏活動をしながら、というケースが多い。おそらく僕の母親も相応の準備をしていただろう。
僕の通う私立音大講師の応募資格のひとつに、大学院卒業か留学経験がない場合は『日本ピアノコンクールで一位もしくはグランプリを受賞していること』という項目があり、狙った通りに去年クリアすることができた。自立への最短コースを目指していた。
僕は仕事を得て経済的に自立して、かおりと結婚したかった。それは、かおりが産まれた時からの、ささやかな、しかし壮大な夢だったのだ。
また、僕は音楽大学在学中から先輩の紹介で、レストランのBGMや演奏の仕事をしていた。複数のピアニストでシフトが構成されていた為、僕はそれぞれのピアニストの人気の理由や得意なジャンルなどを分析して研究した。同時に自分のアピールポイントを特化させて磨き、オーダーのリピート率を上げ、チップの額にも、支配人の態度にも自惚れではない手応えを感じていた。
自分ではあまり気にしていなかったが、外見上得だったのもあるかもしれない。長身でそのルックスならクラシックでは無敵だといろいろな人物に言われたことがあった。演奏以外のことでそんなことを誉められても……、と深く考えたくなかった。しかし、それで自立できる収入、かおりを養える収入になるなら、若いうちに利用してみようと考え直した。
それは、教授の奥様の言葉がきっかけだった。
コンクールで異例の審査結果を出したことについて、
「今までの良いやり方はもちろん残して。新しいアイディアがあったらどんどん試しましょう。日本のピアノの発展の為に、私もできる限りのお手伝いをしたい」
そんな情熱のあるメッセージだった。
僕は自分にも挑戦した。レストランのBGMはクラシック以外のリクエストにも応えるが、本格的なクラシックを鑑賞していただけるよう、ピアニストとしての演奏力を維持、向上させていきたいと。
僕の大学の卒業試験は自由曲だ。最低時間はあるが、上限は特に設けられていない。大学院の入学試験プログラムを弾く人は多く、彼等は長くても60分程だ。
僕はショパンの『エチュード』全27曲、約80分を提出し、受理された。もう変更は利かない。そして、試験会場のホールで録音業者を入れてライブ録音をし、CDとDVDを作りたいと大学側に掛け合った。
早めに相談して許可をもらった。試験番号は初日の1番と決まった。録音のため、朝から一日がかりで録音機材を設置し、初日は夕方開始で僕だけ。翌日朝から2番以降、例年通りの卒業試験となった。
準備を含めたら丸一日かかるが、スタジオで何テイクもやり直したりする時間より、一発勝負を選んだ。
CDのジャケット写真は別の日も使い、学内のいたるところで撮影した。演奏ではない事、モデルみたいなものはそんなに得意ではなかったが、わからない分、こだわりもない。目線や心情の魅せ方は、カメラマンが細かく指示して誘うことに従った。写真の予算は音響と比較すると控えめだが、カメラマンは、採算度外視で仕事をすると張り切ってくれた。写真集にしたら売れると言ってくれた。誰が買うのだろうか……。
ショパンの『エチュード』作品番号10は大学2年の始めに全曲、作品番号25は大学3年の始めに全曲、母親が主催する発表会で演奏した。それは全て僕が自分に課した卒業試験のための練習だった。
卒業試験では、ショパンの『エチュード』作品番号10を12曲、『新しい練習曲』を3曲、作品番号25を12曲の順に27曲通すことにした。曲間も入れたら約80分。
本番は非常に疲れたが、曲間も含めて楽しかったし、これまで練習したこと、今の自分の集大成と言える程、全部出せて満足だった。それが録音されたのは、大きな自信になった。
かおりは今、150分ものソロリサイタルにコンチェルトも抱えている。かおりの方がすごい。ショパンのエチュードもそうだが、手を休ませるような曲がない。だが、母親から教わった確かな基礎のおかげか、腱鞘炎等、腕や手を痛めるような心配は全く無かったのは幸いだった。
練習もレッスンも大変だが、コンチェルトの本番はぐったりするほど疲れるだろう。かおりは女の子だし、体力も心配だ。ピアノを聴いていると忘れそうになるけれど、18才になる誕生日は3月末で、まだ17才の高校生の女の子だ。
かおりのコンチェルトの本番の日。
会場の駐車場に早めに到着した。ステージ袖まで何分、着替えに何分、何度も計算しながら確認した。大丈夫だ。仮眠を取る時間はある。かおりは眠った後が一番良い演奏ができる。
僕はかおりに、
「今から40分だけ寝られるから休みなさい」
と言うと、かおりは「はい」と言って目を閉じて、すっと眠りに落ちていった。
僕は、車のシートを倒した。
キスしたい気持ちを抑えた。
かおりの中の、良い緊張感を研ぎ澄ませておきたかった。




