16プロポーズ
婚約指輪を決めて、僕が予約したフレンチレストランにかおりを誘った。
初めてのデートではあったが、今までも二人で出かけたことはたくさんある。それは全て演奏会かピアノの行事だった。ブランドのジュエリーショップや、このようなホテルのレストランは雰囲気が落ち着いていて、かおりと無言でいても心地よかった。
かおりは物静かで姿勢が綺麗だ。事前に連絡しなくても、このような高級レストランで全く物怖じしない品の良さもある。それに、今日は特別可愛く見える。僕は、そんなかおりをエスコートして幸せだった。
かおりにメニューを見せたら、フランス語は読めるけれど、料理の内容がわからないという。僕は、かおりが食べられそうな女性向けの軽めのコースとアラカルトをウェイターに伝えた。
かおりは終始微笑んでいて、僕が話す他愛ない話に笑ってくれた。かおりも何か話してくれるのだが、如何せん声が小さくて聞こえない。いつもだったら、ここぞとばかりに「何?」と言って肩を寄せて、かおりの口許に耳を近づけるのだが、ここはフルコースが出てくるレストランだ。向かいあって座っているテーブルを小さくしたかった。カウンターにすればよかったか。
食後のデザートを待つ間、僕はかおりに、
「ちょっと外すけど、心配しないで待ってて。何かあったら彼に」
と言って、支配人に合図した。
支配人は微笑みながら、かおりの近くに来てくれた。
僕は席を立った。
このレストランは実は何度も一人で来たことがある。食事にではない。BGMのピアノ演奏、サプライズの生演奏などのアルバイトだ。
でも、今日は違う。かおりのために弾くつもりで、支配人にそうお願いしてある。
かおりの席からは、すぐにピアノがあるようには見えない位置だった。僕はピアノの前に座ると、こちらに気づかず姿勢を崩さないかおりの姿が見えた。距離も角度も、予定通り。
かおりに初めてキスした時の『献呈』を弾いた。
最初の一音だけで、かおりが反応したのがわかった。
すぐにこちらに気づき、目があった。
かおり、愛してる。
僕はもう、音と目でそれを伝えられる自信があった。
後はかおりを見ずに、今の思いの丈を込めて最後のアヴェ・マリアのフレーズまで演奏した。
思いがけず拍手をたくさんいただき、レストラン中が沸いた。高額なチップをはずんでくれたお客様も複数いて、『愛の夢』、『愛の挨拶』、『ロマンス』、『愛の喜び』、『メリーウィドーワルツ』、『トロイメライ』、『眠りの森の美女』、『君を愛す』、『カノン』……いつもバイトで弾いているように次々に弾いてしまった。レストラン以外から来て、覗いてくださるお客様もいっぱいになり、かおりの姿は見えなくなってしまった。支配人にお願いしたから大丈夫だろう。
アルバイトの時以上のチップをもらった。やっぱり、真剣に弾いたからかな。かおり以外にも伝わったのだろうか。愛の力ってすごいな。
チップの御礼を言ったり、握手を求められたりして、やっとのことで席に戻ったら、支配人に抱えられるようにしてかおりが泣いていた。
「かおり、ごめん。止まらなくなっちゃって」
「……せん、せい……」
「お部屋を御用意いたしましょうか」
支配人がそう言ってくれた。
「……あぁ、頼む。デザートも部屋へ」
「畏まりました。こちらへどうぞ」
「ほら、かおり、立てる?」
婚約指輪を渡して、愛してるって言うはずだったが、こんなに泣かせてしまうなんて、予定と違う。
ホテルの中のレストランでよかった。まだ午後の早い時間だったから、空いていたスウィートルームを、一時間だけ貸してもらった。
泣き止ませるのは大変だった。
かおりが産まれた時、この子の泣き顔を見たくないと思ったのに、僕の胸で泣いているのはいいかもと思った。
むしろ、ずっと泣いていてくれてもいいとさえ思ってしまった。
もっと僕を意識してほしい。
そんな想いが日に日に強くなっていた。




