第8話 ドッペルゲンガーと勇者エイブリオン1
「じゃあ、リリアナ、おやすみ」
「ええ、勇者様もおやすみなさい」
無事村に戻ってきたエイブリオンは、リリアナを宿の自分の部屋まで見送ってから、ようやく彼女から離れてくれた。
「……」
キーッ。
ドアが閉まり、ようやく一人になったリリアナは、眠る準備もせず、ドアの前で部屋の外の音を聞いていた。
コツコツコツ。キーッ。バタン。
勇者エイブリオンが自分の部屋に入る音。
それを聞いたリリアナは、その場でしばらく待ってから、誰にも気づかれないように宿をこっそり抜け出した。
宿を出て村の通りを歩き、まだ修復中の城壁の空いたところから村の外にこっそり出てきたリリアナは、人目のつかない場所に着くと同時に、森へと走り始めた。
「はあッ!はぁッ!ハッ!!」
今日だけで三度目になる走りに、肺も足も正直限界だった。
しかしそれでも、リリアナは走らずにはいられなかった。
あの子は無事だろうか。
もしかしてさっきのようにモンスターに襲われているのではないだろうか。
それともこの前のように溶けてしまって、もうすでに消えてしるのではないだろうか。
リリアナは自分の中にある不安がどんどん大きくなるのを感じた。
そしてその不安が限界を迎える直前、
「……リリアナ?」
リリアナはいつもと変わらない姿で湖畔に立っているもう一人の自分を見つけた。
彼女と全く同じ顔をしている分身は、リリアナが張っておいた盾の中で彼女を見つめていた。
本能が拒むのだろうか。
ドッペルゲンガーは自分を囲う聖なる盾には近づけず、汗だくになって駆けつけてきたリリアナに向かって、心配そうに話しかけてきた。
「リリアナ、大丈夫ですか?」
その姿はどこまでも優しくて、
やっぱり私が見間違えたんだ。
と、リリアナはここから去る直前見たあのガラス玉のような瞳は気のせいだったのだと自分の中で結論づけた。
そうやってようやく心を落ち着かせたリリアナが聖なる盾に閉じ込められた自分のドッペルゲンガーを解放しようとしたとき、
「はぁ、はぁッ。リリアナ、ちょっと待ってくださいね、今防御魔法を解いて…」
「……リリアナ!そいつから離れろ!!」
なぜか、聖女リリアナの後ろから、勇者エイブリオンの声が聞こえてきた。
後から聞こえてきた勇者の声に、リリアナは反射的にドッペルゲンガーを自分の背後に隠しながら言った。
「ど、どうして、勇者様がここに!?」
「君の様子がおかしいと思ってついてきたんだ。なのにまさかこんなことになっているとはな」
そう言いながら聖女リリアナの後ろを鋭い目で睨んだ勇者エイブリオンが、いつもより冷たい声で言った。
「リリアナ、君なら後ろにいるそれが何なのかわかるだろう」
「……」
「それは殺すべき魔物だ。リリアナ、どいてくれ」
「ゆ、勇者様!おやめください!この子はまだ罪を犯しておりません!」
聖女リリアナの言葉に、勇者エイブリオンは剣を握った手にさらに力を込めながら、神眼でリリアナの後ろにいるものを見た。
神が授けた真実を見抜く彼の神眼には、リリアナが後ろに隠しているものの正体がはっきりと見えていた。
ぐにゃぐにゃと形の定まらない、まるで黒いスライムのような物体。
まだ完全に形を成していない今がチャンスだった。
今処理しないと、後でどうなるか分からない。
『何よりもあいつはドッペルゲンガーだ。あいつが完全体になった時、その元になった聖女リリアナがどうなるか……!!』
エイブリオンは歯を喰いしばりながらリリアナに言った。
「リリアナ、二度は言わない。そこからどけ」
「……やめてください、勇者様!この子は生まれてから今まで、誰一人傷つけたことがないんです!なんの罪もない子を殺すなって、そんなことがあってはなりません……!!」
「……どけッ!!」
これ以上言っても無駄だと悟ったのか、エイブリオンはその言葉を最後にドッペルゲンガーに向かって突き進んだ。
目で追うのも難しい速さ。
しかしそれながらもエイブリオンはドッペルゲンガーを斬るのに失敗した。
リリアナがドッペルゲンガーを両手で抱きしめ、かばったからだ。
「……何をする!どけ!リリアナ!!」
「どきません!罪なき者を斬るつもりなら、この私から先に斬ってください!」
「聖女リリアナ!!!!」
エイブリオンが聖女の名前を大きい声で呼んだ。
しかしそれを聞きながらもリリアナは何も答えず、ただドッペルゲンガーを抱いた腕に力を入れた。
『ここで引いたらこの子は死んでしまう!』
神の力はあらゆるものから人を守ってくれるが、それは向けられるのが普通の力だった場合の話だ。
同じく神から授かった勇者の力を防ぐのはリリアナの力では無理だ。
今、彼女にできるのは仲間を思う勇者の心を信じ、自らの身を盾にすることくらいだった。
「……」
一歩も引かない対立の中で沈黙が生まれた。
エイブリオンの殺気に虫さえ息を潜める中、先に口を開いたのは聖女の胸に抱かれていたドッペルゲンガーだった。
「私を殺してください」
「……ぐッ!リリアナ!!」
ドッペルゲンガーの言葉にリリアナが驚いて叫んだ。
しかしドッペルゲンガーはただ穏やかに、聖女リリアナとそっくりの顔で呟いた。
「お二人が争う必要はありません。聖女とは世の平和のために存在するもの。もし私が争いの種になるというなら、どうかその剣で私の首を切ってください」
「……くッ!!」
淡々としたその言葉に、今にもドッペルゲンガーの首を貫きそうだったエイブリオンの剣が一瞬止まった。
しかしそんな勇者には目もくれず、ドッペルゲンガーはただ静かに目をつぶるだけだった。
いつでも、望む時にこの命を取っても構いません、そう言っているような姿。
その迷いなき姿を見ていた勇者エイブリオンが目を大きく開いた。
ほんの一瞬、目の前にいる化け物の姿がうっすらとリリアナの姿を形づくったように見えたからだ。
それに気づいた瞬間、エイブリオンは手の内側から冷や汗が流れるのを感じた。
まもなくこの化け物は完璧にリリアナになるかもしれない。
そんな確信が頭をよぎった。
しかしそんな中でも勇者が動けずにいるのは、この化け物がリリアナを攻撃するどころか、自ら進んで自分の首を差し出そうとしているからだ。
ドッペルゲンガーとは他人に変わり人を化かすもの。
その本能は存在の略奪。
今この瞬間もオリジナルであるリリアナへの略奪欲求を抱いているはずで、その欲求を押し殺すという行為は本能だけで動くモンスターにはありえないことなのだ。
『……それなのに今、俺の目の前にいるこの化け物は、そんな当たり前の摂理すら無視して、自らの命を差し出そうとしている』
その姿が、勇者であるエイブリオンの心に、大きな混乱をもたらした。
一体何が起きているんだ。
聖女リリアナの姿を模したから、あんな態度を見せるのか?
それとも、聖女の姿を模したことで、何か謎の変異でも起きたのか?
もしそうだとしたら、俺は本当に無実の命を奪おうとしているのではないだろうか。
無実の命を奪う。
それは女神の使徒である勇者がして、許されることだろうか。
だがしかし……。
いくつもの考えが頭を乱したが、それでも結論は出なかった。
勇者の神眼が聖女の姿をしたドッペルゲンガーと、それを庇うリリアナの間を彷徨した。
そして、ほんのわずかな沈黙ののち――
シャキン。
勇者エイブリオンの剣が鞘に戻った。
その音を聞いたリリアナは、ゆっくりとした動きでエイブリオンの方へ視線を動かした。
その目に入った勇者エイブリオンの顔は、何かを深く悩んでいるかのように歪んでいた。
その悩む顔から微かな希望を見つけたリリアナは、不安そうな声でエイブリオンを呼んだ。
「勇者様…?」
「……少し考えてみるだけだ」
「……勇者様!!」
「……勘違いをするな。殺さないというわけではない。……ただ、しばらくそばに置いて見極めるだけだ。だからお前もついて来い。化け物」
エイブリオンが疲れ切った顔で眉間を揉みながらそう言った。
その言葉を理解できず、しばらく呆然としていたリリアナは、遅れてその言葉を理解した。
そして、
「はい!機会をくれてありがとうございます、勇者様!」
リリアナは勇者に会って初めて、満面の笑みでそう言った。
勇者様が何を考えているのかリリアナには、まだ分からない。
ただその気になればいつでもこの子を殺せるはずの勇者様が、今この場でこの子を殺さないということ。
それだけがリリアナには大事なことだった。
「……」
初めて見るその愛らしい微笑みに勇者が見とれているとき、
リリアナは勇者から背を向けてドッペルゲンガーの手を握りながら言った。
「ねえ、リリアナ! 私と一緒に行かない? その、絶対に安全だとは言えないけれど、私が必ずあなたを守ってあげるから!」
「……」
「ああ、もちろん無理強いをする気はないわ!でも、でも私は……」
後ろにいくほど、なぜか震えが強くなっていくリリアナの声。
彼女に握られた手から、かすかに感じられる汗の感触。
それと、拒絶されるかもしれないという恐怖。
それでも自分なら、自分そっくりのリリアナならこの底の知らない欲を受け入れてくれるかもしれないという自己中心的な心。
それを体で、魂で感じながら、ドッペルゲンガーはリリアナと瓜二つの顔でにっこりと笑いながら、彼女の手を握り返した。
「……ええ、いいですよ。一緒に行きましょう、リリアナ!」
「あ、ありがとう、リリアナ……!!」
待ち望んでいた答えに、リリアナがぱっと花が咲くように笑った。
互いの手を握りしめ、まるで双子のように似たような顔でにっこりと微笑む二人。
一人離れてその姿を見つめていたエイブリオンは、何とも言えない表情で深くため息をついた。




