第一話 九十九 蓮の新生活
シジュウカラの鳴き声と共に蓮がまず目にしたのは裸電球だった。梁のある天井。白い壁。
体内の方位磁針が優柔不断に彷徨っている気分だ。実家と何処か似ているようでいて、何もかもがかけ離れている。
馴染みのない真新しいベッドの感触で、寝ぼけて混乱した脳みそにゆっくりと意識が戻る。
昨日の記憶が思考に追いついてきて、漠然とした宙ぶらりんな気持ちになる。
多分「新生活への期待と不安」ってやつだ。
そうだ。俺は丁度昨日、引っ越してきたのだ。
幼い頃に異国のホテルに泊まった日の朝を思い出す。
旅館、と表現するには少しモダンすぎる和室で蓮は大口を開けて欠伸をした。
九十九 蓮はおばあちゃん子であった。両親共におらず、祖母が世界中で集めてきたアンティーク家具に囲まれて育った身としては、この和室は古ぼけていると同時に新鮮だった。
寝た気がしないのは多分向かいの部屋がバタバタと煩かったからだ。唸り声みたいなのも聞こえたような気がする。シェアハウスは初めてだからこう言う部分は誤算だ。
神崎先輩が家具をくれるというから、あまり深く考えず入居することにしたのだ。
隣に派手なムキムキ女が居るとか、妖精みたいなヨーロッパ人がいるとか、色々言っていた気がするが正直よく覚えていない。
入れ替わりが激しいからマンションみたいなものと言われて真に受けたが、なんだかんだで彼らと付き合わないといけないのだろうか。
真面目に聞いておくべきだったな。
大体あの人の話はどうも軽快すぎて、何言われても沖縄の風みたいにふわっと通り過ぎるんですね。
とは言え、この部屋からの眺めは抜群だった。
所詮は二階建て、渋谷のすぐ隣のくせに、昨晩も大きな窓から満月が煌々とよく見えた。
でも南向きだから暑いかもしれない。
蓮はするりとベッドから抜け出すと、身支度を秒で済ませてから、外界へ足を踏み出した。
朝食を食べ終える頃には、この家の住人全員との挨拶、もとい、第一印象と言う名の品定めが済んでいた。
ピンポンダッシュ未遂みたいな挙動で部屋の表札を読んでいたおかげで、会話はスムーズだった、はずだ。自分以外年上の女性ばかりだからやたらと気を遣う。
「定期券買わないとな」萩原十和子は365日終わることのない勉強から逃げる口実のように呟いた。最近私はだれている。
ちーちゃんには怠けたくなったら森見登美彦の四畳半王国見聞録を読むといいよと言われたけど、それで救えるほど軽症じゃなかった。
図書館に行くことすら面倒なのだ。
あーあ、推しがいるからなんとか倒れてないけどきつきつだあ。
Moonbyul様、オラフ、ありがとう。あなたがいるから頑張れます。あと、いつも長女役の私を初めて世話してくれた104号室のチャンドラレーカーオンニ、女神です。10%くらい好きです。がんばります。
……訳のわからないことを唱えて現実逃避していると、昨日からこの家に越してきた後輩くんに挨拶された。
完全に忘れていた。神崎くんが部の後輩が来ますとか言っていたっけ。
大きな吊り目が凄く印象的で、話が入ってこない。水泳部にいそうな体型をしている。
怖いくらい透明感のある肌に、ウェットに整えた波打つ黒髪が映えて、名前に負けず耽美な雰囲気がある。
インスタでもあまり見ないような、なんだかミステリアスなタイプの、特徴的な顔立ち。
蛇顔ともまた違う気がする。
「蓮くん、唐突にごめんだけど化粧水何使ってるの?パックとかしてる?」
「え、俺そういうのはあんまり、」
「そっかごめんごめん、肌白くて陶器みたいだからすごいなと思って」
思わず問い詰めてしまった。たまに審美眼がエンジンを吹かしてとめられなくなる。ごめんなさい。
蓮はなんだかジャッジされている気がして居心地が悪かった。とにかく、話は合いそうにない。韓国アイドルが好きなハンサム系姉御肌だ。
ハーフかと聞かれて、一応父がアメリカ人とのハーフですとだけ言っておいた。
遺伝子的にはギリシャだし、行方不明だけど。
トワコさんはショルダーバッグを大胆に担ぐとショートヘアを靡かせ、颯爽と大股で出て行った。
彼女はあだ名の付け方が癖強い。
エマさんをフェアリーと呼んでいるし、チャンドラレーカーさんの事は女神とかオンニと呼んでいる。
やりとりの間、エマ・ミュラーは心底どうでもいいと言った様子で朝から刺身の甘エビを食していた。律儀な挨拶に「よろしく」と答えつつ、エマは九十九蓮から漂う怪しげな雰囲気を警戒していた。
妖精である自分と同じように、情緒的エネルギーから発生して生きる何かなら、一発で当てられる自信がある。
時折フロストブルーの目を細くして凝視していたが、外見がちょっと妖怪っぽい人、と結論づけた。
女神は今日は借りてきた犬のように大人しくしている。大概は昨日満月だったせいだろう。
やっぱり甘エビは美味しい。幼虫のような感触がとてもとても……
そしてテーブルの端に柄にもなく淑やかに座っているのが讃岐・チャンドラレーカーだった。
タンクトップからむき出しの筋骨隆々とした腕で内気に三つ編みを触っている。
蓮は昨日の騒音がこの人のせいだとは言い切れないような気がしていたが、トワコさん曰く普段はテンションも圧もすごいらしく、今日は心配されるほど静からしい。
確かに下見の日はもっと家全体が騒がしかった気がする。
派手なマゼンタパープルの髪に凛々しい眉、バチバチのまつ毛、キリッとした鼻筋。
このビジュでテンションも高かったら修造よりだいぶ威圧感あるな、と思いつつ凝視してしまう。
大きな目でまじまじと見つめられ、「罪人」は恥ずかしさと共に一抹の不安を覚えた。
この新しい住人は、その好奇心と観察眼で自分を見透かしてしまうのではないか。
モーニングコーヒーのマグに視線を落とすと傷ついた乙女の眼差しが見つめ返していた。
つづく




