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 いつだったか、今日はゆっくり歩いてみるか、と言って一条寺あやめ先輩は静かに歩きはじめた。僕はそのときはじめて、一条寺あやめ先輩と並んで歩いた。一条寺あやめ先輩の香りが、ふっと鼻に届く距離に、僕はひどくあわてた。


「どうした?」


「い、いえ」


 どきまぎを悟られないように、僕はできるだけ気を配った。


「たまにはこういうのもいいかと思ってな」


「はあ… でも、どうして…」


「いや、なに、隣町の高校に通ってる旧友から聞いた話なのだが、なんでもその高校には牛歩部というものがあるらしいのだ」


「牛歩部… ですか」


「われわれとはすっかり逆で、ゆっくり歩くらしいのだ」


「ゆっくり、ですか」


「ああ、ゆっくり、ひたすらゆっくり、だそうだ」


「でも、それって…」


 意味なんてあるのか、と言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。


「ゆっくり歩くことで、見えてくることもあるようだ。あの速度では見落としてしまうようなことも、この速度ならば見落とすこともあるまい。ほら、これみたいに」


 と言って一条寺あやめ先輩は、道端の小さな草を指さした。


「キミ、この草の名前を知っているか?」


「え。い、いえ… 知りません」


「そうか、まあ、そうであろうな」


 言って一条寺あやめ先輩は、ふたたび歩き出した。ゆっくりと。


 追いかけて、僕は問うてみる。


「あの、それで、なんという名前なんですか?」


「ん。あの草のことか?」


「はい」


「知らないが」


「はい?」


「名前が何かということが問題なのではない。そこにあるということ、そして、いつも見落としてしまうようなことを―」


 一条寺あやめ先輩はとうとうと語りはじめた。僕は一条寺あやめ先輩のとなりに並びながら、やっぱりいい匂いだなあ、とそのことばかりを考えていた。


「聞いているのか?」


「は、はい」


「まあ、真剣に向き合うことばかりがいいことと決めつけなくてもいいんだ。キミはそれでいい。それでいいのかもしれんな」


「どういうことですか?」


「私の匂いはそんなにいいものかね?」


「え、え、え」


「私が気がつかないでいたとでも思っていたのかね」


「え、え、え」


「ははははは」


「なんでですか、なんでですか、なんでですか」


「いいかね。世のなか、答えのあることばかりじゃあないんだ。答えのないことに出会うことだってあるのだよ。そういった物事に出会って、そのたびごと真剣に向き合っていたら疲れてしまうぞ。ちがうか?」


 そうやって一条寺あやめ先輩は仙人みたいなことを言う。仙人みたいな人なので、それでもいいのだけど、遠くにいるみたいな気になってしまって、ときどき悲しくもなってしまう。


「まあ、あまり考えすぎないことだ」


「意味はない、ですね」


「そういうことだ」


 今日はもう、あれこれ探すのをやめて、沈んでいく夕陽でも眺めてるだけにしませんか。僕の提案を、一条寺あやめ先輩は受け入れてくれた。大きくて真っ赤な夕陽を見ながらちょっぴり思う。僕は一条寺あやめ先輩のこと好きなんだろう。でも一条寺あやめ先輩は、僕のこと…


 それを考えることに、けれどやっぱり、意味はないのだろう。一条寺あやめ先輩が、僕のことを好きでも嫌いでも、いまこのときを一緒にすごせている。それだけでいいと思える。





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