その78 もういないんだ
彼女に促されたような気がして、ケイは再び月を見上げた。確かに綺麗だった。彼がいた世界でも時折そうなることがあったが、その月は紅く色付いていて、まるで秋の紅葉のようだった。
と、その時、サキは見上げていた視線を落としてケイへと向く。その顔つきはしんみりと感傷的なものから真面目な雰囲気に変わっていた。
「……ケイさん、聞きたいことがあります……」
「何、サキさん?」
彼女に向いたケイは僅かに戸惑ってしまう。日常的なほんの些細な質問をされると思っていたが、意外にも彼女の顔が真面目だったから。
一目見て、大事な話なのだと察しがついた。
「ケイさん……ケイさんは帰りたいと思っているのですか? 元の世界に」
「…………」
ケイは一瞬黙り込む。彼女が自分を元の世界に帰したいということは分かっている。本気でそう思っていることも。
だからこそ。この問いには真面目に答えるべきだと思った。
「……前も言った気がするけど、俺は別に元の世界に帰りたいとは思ってないんだ……」
「……やっぱり、ですか……」
彼女もまた感じ取っていたらしい。
「俺にとって前の世界は灰色の世界だった」
「灰色……?」
サキには一瞬何のことだか分からない。
「うん。灰色。朝起きて、学校行って、夕方に帰ってきて、夜に眠る。ただ同じことを繰り返すだけの毎日、変わり映えのしない日々。……そんな世界に戻ったとしても、俺には何もすることもないし、目標もないから」
「……でも……家族や友人の方達が心配している筈ですよ」
「……どうだろ? あの人達は心配しているかな?」
「……え……?」
いつの間にかケイの視線は落ち込んでいた。暗い床を見つめる。
「もしかしたら、俺がいなくなったことにも気付いてないかもしれない。気付いたとしても、家出で片付けるだけかもしれない」
「……そんな……そんなことは……」
「ない筈だって、サキさんは思うよね。以前話してくれたサキさんのお母さんは、本当に良い人だったんだと思う。でも……俺の周りの知っている人達は、俺には関心がないんだ」
「……っ」
サキの家族はもう死んでしまった。だからかもしれない、彼女は『家族』というものに淡い幻想や希望を抱いていたのだ。
『家族』というのは互いに互いを思い遣って助け合うものだと……そう思っていた。だからこそ、彼のつぶやきに困惑してしまう。
「父さんも母さんも、学校のクラスメイトも先生も知り合いも、全員俺には関心がないんだよ。家族は同じ家に住んでいるだけ、クラスメイトや先生達は同じ学校に通っているだけ、知り合いはその場にいるだけ……ただそれだけの他人なんだ」
「そんな……そんなこと……例えそうだとしても、一人くらいは……」
少年の脳裏に過去の記憶が一瞬よぎる。確かに一人だけ、大切だと思える人がいた。
「……うん……一人だけいたよ……こんな俺にも……」
「なら、その人の為にも……」
「でも、もう死んだ……」
「……っ⁉」
不意にもたらされた言葉に、少女は息を飲み、続く声が出せなくなってしまう。そんな彼女に彼は続けた。
「死んだんだ……もういないんだよ、その人は……彼女は、レイはもういないんだ……」
レイ……それが少年の大切な人の名前なのだろう。彼自身気付いていないうちに、彼の頬を一筋の涙が伝っていた。
「……ケイさん……」
心配そうに声を掛けるサキに、ケイは自分の涙に気付いて腕でごしごしと拭うと、この話を打ち切るように。
「ごめん、眠くなってきたから、俺はもう部屋に戻るよ」
そうして立ち上がりながら。
「サキさんももう寝た方がいいよ。明日も朝早いだろうし。寝坊したらハオさんやアスさんに怒られるだろうから」
そう言って、彼女へと背を向けて自分の部屋へと戻っていく。そんな彼の背中を。
「…………」
サキは追いかけることも呼び止めることも出来ずに、ただ見つめていることしか出来なかった。