少年の追憶:前編
降りしきる氷雨が俺の頬を打った。
いつの間にか雨が降っていた。雹が降っていないだけマシだと思うが、身をかわせないこの状況では鬱陶しいとしか言いようがない。
「……っていうか、何で俺生きてんだよ……そろそろ死んでもいいだろ、俺」
恐る恐る視線を足下に移し、想像していた通りの光景があったことに落胆する。
現在、俺の腹には重く、大きな瓦礫がのしかかっている。のしかかっている、という表現は的確ではないだろう。俺の体を完全に押し潰している。瓦礫は地面とほとんど完全に密着し、俺の腹があったはずの部分には赤黒い染みがあるだけだ。
両足の感覚がない。
残った左腕を伸ばし、瓦礫に手をかける。ビクともしない。
(ああ、チクショウ。ってことはなんだ、今度はあの時とは真逆になったのか……?)
俺はあの時のことを一人思い出した。この世界に来る原因になったあの出来事を。
自分が死ぬ音を聞いた、あの日のことを。
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その日が訪れるまで、俺の一生はごくごくつまらないものだったように思える。
父は中小インフラ系企業に勤め、海外を飛び回っていたが一月に一階は必ず帰ってきて、土産話と現地土産に花を咲かせた。母とは職場恋愛で知り合い、結婚と同時に寿退社。子供は俺一人、なぜと聞いたらいまの経済規模で育てられるのが一人だけだ、と笑われた。程よく手がかからなくなったぐらいから、母はパートに出て家計を支えるために働いた。
どこにでもある――というと怒られるかもしれないが――普通の家庭だった。取り立てて不幸なことがあったわけでも、幸運なことがあったわけではない。どちらの祖父も土地は持っていないが矍鑠としており、他人の手が必要がない程度には元気だった。だから俺たちに累が及ぶこともなく、ごくごく友好的な関係を築けていた。
「善一、今日私職場の飲み会があるから遅くなるわ。夕ご飯、適当に済ませておいてね」
「分かった、母さん。なんか残り物とかあったっけ?」
「ないから言ってんのよ。今月からお小遣い増やすけど、無駄遣いしないのよ」
俺が通う優嶺高校は原則としてアルバイトを禁止しているし、その原則から逸れるためにはかなりの手間と運を必要とすると聞いていた。拘束を破った人間には容赦のない制裁が下されるとも。そのため、財布の調子を左右するのは両親の機嫌一つだった。
「じゃあ、行ってらっしゃい善一。高校生活、きちんと楽しんでくるのよ」
「おうよ。つっても、あんまり変わり映えのしない新生活なんだけどな」
朝飯に使った食事を片付けながら、俺は苦笑する。
何の因果か知らないが、それなりのランクに位置するはずの優嶺高校には見知った人間が集まっている。そこから漏れるはずだった人間としてはビックリだ。
特に、向かいの幼馴染がいることには。
園崎美咲。それが向かいで暮らしている幼馴染の名前だ。
かつては信さんこと五つ上の兄と一緒に野を駆け山を駆けていた腕白女だ。中学に上がって化粧を覚え、兄が大学進学のために一人暮らしをはじめ、高校に上がって少しは落ち着くかと思ったがまったくそうはならなかった。
飛んで跳ねて動き回るのが好き、という俺が女になったような奴だ。
実際にはそれよりも厄介な女だったが。
呼び鈴を鳴らす。反応がない。彼女の母親は朝早くからパートに出ており、彼女を起こしてから出発するのが日課になっているという。
あの人は知っているのだろうか? あいつが起こしてもまったく起きず、暖かい布団の中で眠りこけているということに。
ため息を吐きながら、ノブを回した。何の抵抗もなく扉が開く。あいつは不用心に過ぎる、もし俺が包丁を持って侵入してきた強盗だったらどうするつもりなのだろうか?
……あっさりと強盗が吹き飛ばされ、組み敷かれている様子が見えたような気がした。
「みーさーきぃー。朝だぞー、さっさと起きねえと遅刻するぞー」
勝手に上がり、二階に昇って行く。螺旋階段を登り切ってすぐの扉が美咲の部屋だ。彼女の部屋にはファンシーなクマの絵が描かれたプレートがかけられているが、残念ながら彼女の部屋にはファンシーさの欠片もなかった。まったく飾り気のない勉強机に彩りの欠片もない蔵書の数々、そしてトレーニンググッズ。
ため息を吐きながら、俺は彼女が眠るベッドに近付いて行った。柔らかく軽い布団は丸みを帯びて、そこから可愛らしい寝息が聞こえてくる。俺は彼女の体を揺さぶった。
だが、彼女の名を呼ぶ前に、布団の中からぬっと腕が出て来た。その腕は俺の指を握り、そして折り曲げようとしてきた。激痛が走り、俺の体が崩れ落ちそうになる。
「痛だだだだだだ! 手前、美咲! 無意識に関節を極める癖さっさと治しやがれ!」
布団が半分ほど剥がれ、そこからボーっとした顔が現れた。寝癖でボサボサになった長い茶髪は彼女の地毛だ。焦点の合っていなかった目が、徐々に覚醒していく。
「あっ、おはよー善一。ふわぁぁっ……気持ちのいい朝だねぇ……」
「俺はお前に指をへし折られそうになってて、まったく気持ちよくはねえんだよ!」
決められたルールの中で人をボコボコにするのが大好き、ルールがなければもっといい、という超ド級のサイコ女、園崎美咲と知り合ったのは幼稚園の頃だった。
あの頃からガキ大将的なさっぱりした性格と何事も暴力で解決しようという性向があり、悪ガキとしてならしていた俺はしょっちゅう美咲と対決していた。どちらの白星が多いのかは察していただきたい。
まあ、女の子相手に暴力を振るうわけにもいかないから多少はね?
そんなこんなで一緒にいることが多かった。彼女の父親はバリバリのキャリアであり、家に帰ってこないことも多かった。母親も家計を支えるために長時間労働を行うことをいとわなかったという。
そんなこんなで、一人っきりになることが多かった彼女と一緒にいる時間が多くなったのは、必然的に多くの時間を過ごすことになる隣人だった。
家が近い、というだけでこんな暴力女の世話をしなければいけないのか、と悲観に暮れることもあったが、決して悪いことばかりではなかった。
可愛いところがないわけではないのだ、ただそれをあまり見せてくれないだけで。可愛くない時の方が長いだけで。これ以上は精神に悪いので止めておく。
彼女の孤独を紛らわせるために、親は多くのものを彼女に与えた。いまも続けている習い事は、その最たるものだろう。何せ、習い事をさせている時間は彼女の相手をしなくたって済むのだから。
彼女はいろいろな格闘技、特に合気道にのめり込んでいった。孤独を埋めるため、というのが最初だろうが、彼女の性にもあっているようだった。
俺たちは偏差値的に優嶺高校に入れるかどうかのボーダーラインにいた。
俺が『優嶺を受ける』と言ったら、あいつが『じゃあ私も受ける』、と言ったのが始まりだった。もしかしたら十年来続いて来た腐れ縁を断ついい機会になるのではないか、と思ったが、残念ながら二人とも合格してしまった。
合気道部に入ると息巻いていたが、優嶺に合気道部がないと分かると相当落胆していた。次の格闘技部を探しているようでもあったが。
「ったく、さっさと食ってさっさと出るぞ。初日に遅刻なんて洒落にならねえだろ」
痛む指を押さえながら、俺は美咲に朝食を食べるよう促した。もちろん、ほとんどは俺が用意したものではない。お湯を沸かしてお茶を淹れ、トーストを焼いてやる程度のことはするが、ほとんどは彼女の母親が出がけに用意してくれたものだ。母親が出掛けるのは朝の七時前であるため、最近は朝にほとんど話すことはないという。
「オッケー、それじゃ行こう。着替えて来るからちょっと待っててねー」
「とっとと終わらせろよ。身支度は最低限、髪とかすくらいで終わらせとけ」
「えー、ちょっとー、それじゃ可愛くならないじゃないのよー」
かわいいだのかわいくないだのはまともに学校につくことが出来てからの話だ。初日から遅刻しているようではまったく可愛くないだろう。ぶーたれる美咲をなだめすかし、俺たちは何とか校門が締まる前に高校の中に入ることが出来たのだ。
入学式なんてのはありふれたもので、どこでもほとんど同じことが起こる。
やたらと大仰な行進、ブラスバンド部の演奏、校長先生のクソ長くて中身のない演説、祝辞という名のこれまた眠くなる演説。それらを潜り抜けて、俺たちは教室まで辿り着いた。
「えー、それでは皆さん。卒業まで欠けることなく頑張っていきましょう」
それほど特徴のない教師が、それほど特徴のないセリフであいさつを行う。美咲なんかは朝の疲れがあってか早速寝ている。俺も机に突っ伏して眠れればどれだけいいだろう。
「えーっと、それじゃ出席番号順に自己紹介をしましょうか。それでは相田――」
県外から受験している生徒も多く、教室の中には見も知らない顔がいくつもあった。もちろん、知っている顔もいくつもあった。
出席番号一番、相田青志という出席番号一番を取ることに能力のすべてを費やしたような男も俺の幼馴染の一人だ。地元の中学では野球部に所属しており、それなりにいい成績を誇っていた。
「相田青志です! 中学では野球部にいたっす、夢はでっかく甲子園!」
ちょっとおどけた様子で相田は言った。野球部に所属しているだけあって明朗ではっきりした声だ。デカくてうるさいとも言うが。そんなちょっとしたことで笑いを取って、相田は早速クラスに打ち解けようとしているようだった。拍手が鳴り響く。
俺と美咲の自己紹介も終わり、ほっと息を吐いていた。クラスメイトはそれなりに面白い連中が揃っているようだった。運動部所属も多いが文化部所属も多く、見た目からその手のオタクと分かるような連中もいる。少なくとも悪い奴らではなさそうだった。
そんな中にあってあいつの自己紹介は、取り立てて特徴のあるものではなかった。
「初めまして、三石明良といいます。千葉の田舎の方から来ました。どうぞよろしく」
にこやかな笑みを浮かべるそいつの姿は、透き通るような銀髪と合わさって儚げな文学少年に見えなくもなかった。ただ、体格ががっしりしているわけではないが弱々しさは感じさせない。むしろ、押しても引いても動かないような強固さを連想させた。
音もなくイスを引き、優雅に着席する姿を見て、俺は特に感想を抱かなかった。俺が奴のことを始めて認識したのは、その瞬間だったように思える。
一部のノリがいい、というよりやかましい生徒の提案で俺たちは放課後ささやかな祝宴を開くことになった。祝宴と言っても大したものではない、ただ駅前にある潰れかかった小さなレストランを借り切ってパーティーのようなものを開こう、というのだ。ちなみに主催者の親はこのレストランで勤務しているそうだ。ちゃっかりしてやがる。
特にやることもなかったし、運動部志望の連中も練習に参加できるようになるのはしばらく後のことだったので、意外にも集まりはよかった。それほど狭くない店内だったが、その中で学生がひしめき合い、騒ぎ合っているのだからはた目には異様な光景だ。
そんな中で俺は、それなりに楽しんだ。学生生活を楽しく過ごすコツっていうのはいい人でいることじゃなく、それなりにハメを外して楽しむことだ、と親父が行っていたのを思い出した。いい人ってのは距離を置かれる可能性だってあるのだ、と。
もっとも、元からこうした集まりというのはあまり好きではなかったし、バカ騒ぎに付き合っていると自然に体力を削られてくる。同級生たちがダーツに興じる中、俺はそこから抜け出し、人気のないボックス席についてぼんやりとその光景を見ていた。
「おや、キミは確か……紫藤善一くんだったっけ? どうも、はじめまして」
「ああ、そう言うお前は三石明良……だったっけ? ああ、まあ、よろしく」
入ってくるときには気付かなかったが、ボックス席には先客がいた。
学校指定のものではない学ランを着た少年、三石明良だ。その服装についてツッコミをいれた時、『おばあちゃんが張り切って買ってきたから』と笑いながら言っていたのを覚えている。あまりにも目立つ姿、おばあちゃんの贈り物でも断れよ、と思ったのを覚えている。
「聞いたことのない名前だから、するりと頭に入って来たんだ。キミの名前は」
「俺の田舎でも、紫藤って姓の奴は一人もいなかったからな。ま、人に覚えてもらいやすくて助かってるよ。ちょっと書いて説明するのが面倒臭いんだけどな」
俺の対して面白くもない話に三石は頷き、ケラケラと笑って反応して見せた。俺もそれを見ているうちに楽しくなったのか、自然と口も軽くなって来た。それから、俺たちはいろいろなことを話した。これからのことを、勉強はどうなるのだろうかとか、部活をどうしようかとか、そんなとりとめもない話だ。特筆すべき点はないように思えた。
「そう言えば、千葉から来たって言ってたけどどのあたりから来たんだ?」
「南総、って言って分かるかな? 高速も通ってない田舎町だよ」
「南総って言うと、あの里見八犬伝とかで有名なあの辺り?」
ああいう古典は好きなので、暇さえあれば図書館で読みふけっていたのだ。とは言っても、障りの部分くらいだが。それを聞いて三石は嬉しそうな反応を返した。
「そうそう、そこ。それにしても、里見八犬伝っていうのは不思議な物語だよね」
三石は困ったような笑顔を浮かべながら言った。
確か、里見八犬伝は敵に城を囲まれ万事休した殿様が、姫様との婚姻を条件に、もちろん戯れに犬に敵将の暗殺を依頼する。すると、見事犬、ヤツフサは敵将の首を取って来た。殿様はそれを見てびっくり仰天、姫との婚姻を許すが、二人の末路はそれほど幸せなものにはならなかった。その後生まれた子供たちが見事御家の再興を果たす、というのが乱暴な解説だったはずだ。
「生まれて来た神犬の子供というのは、いったい何なのだろうね?」
「物語だからな、何でもアリだろ。でも神様の子なんじゃないのか、それって?」
「だとするなら、カミサマっていうのは人間に似た姿をしていったことになるね」
「犬と人間の子供だろ? カミサマって言うよりは化け物って感じが合ってるだろ」
三石は俺が行ったどうでもいい人ことにうんうんと頷いて見せた。
「面白いね。人間なのか化け物なのか。化け物だとすれば……何なんだろうね、それは」
何がおかしいのか、三石は笑ってそう言った。何だかよく分からない奴、それが三石明良という男に対する、俺の第一印象だった。
入学から数カ月。俺は気だるい日々を送り、相田や美咲は忙しく部活に勤しんでいた。特にやりたいことがあるわけでもないが、しかし部活に時間を取られるのも気に入らない。そんな宙ぶらりんなポジションを維持し、時たま部活動を冷やかしに行き、助っ人として活動したり、オフの日にゲーセンなんかでバカ騒ぎする、それが俺の日常だった。
だから、俺は最初に訪れた決定的な変化に気付けなかった。いや、それが直接的な原因ではない。単なる観察力不足、だがそれをいま言うべきではないので話を進める。
教室に忘れ物をして取りに帰った時のことだ。提出期限が明日に迫った宿題があるのを、俺はその時までさっぱり忘れていた。部活に所属していれば同年代と話し合う機会もあるわけで、それがあったなら忘れなかっただろうな、と俺は少し後悔した。
夕焼け差し込む眩い教室、誰もいないだろうなと思って無遠慮に踏み込んでいった俺は、その中に人がいたことに気付いた。相田が窓際で佇んでいた。
「? どうしたんだ、相田。こんなところで。もう練習始まってんじゃないのか?」
俺は頭の中に浮かんだ疑問を払拭することが出来ないまま、相田に声をかけた。彼は弾かれたように振り返って来た。何となく、尋常ならざるものを感じた。階下で繰り広げられている練習の音とかけ声が、やけに遠くに感じられたと覚えている。
「紫藤……お前、こんなところで何してんだよ? 何でこんな時間に……」
「いや、それこそこっちのセリフだろ。俺は忘れ物取りに来ただけ。お前もか?」
「あ、ああ。そうなんだ。俺も、忘れ物……明日までの宿題確か、あったからな」
相田は俺と同じく宿題を取りに来ただけだ、と言っていた。だが何となく妙だなと思った。善良で無害な野球少年が宿題を忘れたことなどいままでなかったのに。
「どうしたんだ、相田。何か疲れてんじゃねえのか? ちゃんと休んでんのか?」
「あ、ああ。大丈夫だよ。心配すんな、調子はいいんだよ。調子は……」
どことなく、相田の声に張りがないように思えた。どうしようか、そんなことを考えていると、相田は自分の机から乱暴に教科書なんかを取り出し、出て行こうとした。
「相田、今度の休みはどうする? 先輩たちとまたゲーセンにでも行くか?」
去って行こうとするあいつの背中を、俺は何とか押し止めようとしたのかもしれない。とりあえず、口から突いて出た言葉を吐き出した。相田の返事はつれなかった。
「……今度も、その今度も……俺には、もうないんだよ……」
相田は寂しげに言った。その言葉を聞いて、俺はもうあいつを引き留めることは出来ないな、と思った。その言葉があまりに苦しげだったからだ。相田は力なく扉を開き、そして開きっぱなしにしたまま出て行った。出て行ったあいつが持っていた教科書やプリントの中に、宿題として出されているものはなかったように思えた。
それから数日のことだ。相田がグラウンドで自殺していたのが見つかったのは。




