守る決意
爆音を聞き目を覚ました俺は、すぐさま広場に直行した。
あの音は恐らく城門が破られた音だろう、ならば敵が市街地まで浸透してくる可能性がある。無力な人々が、また何の意味もなく殺される。
それだけは絶対に避けなければならない!
クロードさんたちの安否を内心で気遣いつつも、俺は走り出した。
背負ったフォトンシューターと腰に差したフォトンレイバーがやけに重く感じられる。こんなことならこういうものを持つ訓練もしておくんだった、と後悔する。
銃声と悲鳴が市街で止めどなく響く。
あの中に飛び込んで、解決することが出来たならば!
そう考えるが、難しいだろう。万全の状態だって、この街の中に浸透してきた兵士と《ナイトメアの軍勢》すべてを相手にすることなんて出来はしない。
ならば、いま守れる人々だけでも確実に守らなければ! そんなことを考える俺の前に、人影が現れた。路地裏から飛び出して来たその人は、銃弾で頭を撃ち抜かれすぐに絶命した。
それを追いかけてきた人影を見て、俺は絶句した。『共和国』の騎士。荒い息を吐きながら出て来たその人は、俺の姿を見て驚いたが、すぐに銃口をこちらに向けて来た。
身を屈め銃撃をかわし、足を絡め取るようにしてタックルを仕掛ける。片腕しかないのでうまく行かない。まとわりついた俺を引き剥がそうと、騎士が叩き込んだ膝蹴りが俺の臓腑を抉った。怯んだところを押し倒される。俺の頭に銃口が向く。
発砲音、金属音。一瞬早く展開を終えた俺の力が、銃弾から頭を守った。倒れ込んだ姿勢のまま残った左腕に炎を収束させ、投げつける。こけおどし程度の威力だったが、効果はあったようだ。悲鳴を上げて騎士は怯む。
素早く立ち上がり、横っ面をぶん殴る。騎士の体が壁に激突し、衝撃で銃を取り落す。その襟首を掴んで、引き上げた。
「――どうして!」
いろいろな感情が複雑に絡み合った『どうして』だった。一言では言い表せないが、しかし俺の意図は騎士に伝わったようだった。泣き笑うような表情を作った。
「しょうがねえだろ? 逆らったら……俺の家族は殺されちまうんだから」
ふざけんな、そう叫びたくなった。だが、言えなかった。
自分の家族が人質に取られ、明日をも知れぬ身となったのならば、俺はそれを跳ね除けることが出来るだろうか? 騎士は目を閉じ、そしてガクリと倒れ込んだ。俺はその手をゆっくり放す。
『傷つくのならば自分よりも他人の方がいい。
他者は自分よりも貧しい方がいい。
自分よりも幸せそうな人間は我慢できない』
あの男の言葉が俺の中に蘇る。
「行かなきゃ……行かなきゃいけないんだ、俺が……」
負けられない。こんなところで。認めちゃいけない、こんなことを。誰かの悪意が、誰かを不幸にすることなどあってはならない。それに抗うために戦っている。
――ならば、誰かの善意が誰かを不幸にするのは、どうなんだ?
「ッ、考えるな! 考えちゃいけない、俺は、俺はッ!」
迷うな。迷えばまた誰かが死ぬ。生き残りたいと思うのは人間の本能だ、誰かを不幸にしてでも生き残りたいと考える人もいるだろう。だが、それは絶対にあってはならないことだ。なぜ? そんなことを考えている暇はない、少なくとも今は!
倒れた騎士を放置して、俺は走り出した。後ろめたさを感じないでもない、だが今は彼に構っていられるだけの時間はなかった。幸い、妨害に遭うことなく広場に到達する。
「し、シドウくん!
これはいったいどうなっているんだ……き、騎士たちは?」
「すみません、質問に答えている時間はないんです。こういうことになった時どうするかとかは、騎士団とは話し合いをしていたんですか?」
「あ、ああ。緊急時は北門に集合することになっておる。だが、そんな急に……」
一団のリーダーである大商人タークスは弱気なことを言うが、身の毛もよだつ咆哮を聞いてすくみ上った。ゴブリンの咆哮だ、それもかなり近い。思わず舌打ちする。
「みんなですぐここを離れてくれ!
あいつらの足は遅い、何とか足止めしてみせる!」
「そんな、シドウくん無茶だ! そ、それにキミ、片腕を失ったんだろう!?」
誰が見たって一目瞭然だ。俺の頼りない姿を見て、みんなどんなことを思っている? もちろん、そんなことを気にしている暇はない。俺は笑い、タークスさんに言った。
「安心しろよ、アリの子一匹だって通しゃしねえよ。
俺がここにいるのは、みんなを守るためだ。
あいつらの悪意をぶっ潰して、みんなで幸せになれる明日を探すためだ!」
踵を返し、慌ただしく足音が鳴り響く大通りと対峙した。まだ敵の姿はない。
「安心してくれよ、タークスさん。なんたって俺は《エクスグラスパー》なんだぜ?」
歩きながら呼吸を整える。目を閉じ、心を落ち着ける。こんな姿になって、考えることが一つだけある。あんな無茶な真似をしなければ、どうなっていただろうかと。
少なくとも右腕を失うことはなかった。戦力外として戦うことさえ出来なくなる、ということもなかっただろう。俺が手を伸ばそうが、伸ばすまいが、彼らが死ぬことに変わりはなかった。何も変えられないのならば、何もしない方がマシだったのではないか、と。
そんなことはない。
何もしなかったなら、俺はもう二度と前を向いて歩くことなんて出来ない。
二度と負けない、その意志を折った俺に、立ち上がって戦う資格などない。
誰に認められるわけでも、誰に貶められるわけでもない。ただ、己の意志が死ぬ。
「何が正しくて、何が間違っているかなんて、俺にはまだ分からない……」
世界は二色で塗り潰せるほど単純ではない。善意と悪意だけで切り分けられない、玉虫色の現象がある。誰かの善意が、誰かにとって悪意になることなど日常茶飯事だ。
「だけど、俺はもう二度と立ち止まらない。絶対に、守り抜いてみせる!」
立ち止まる理由なんていらない。善も悪も俺にはまだ分からない。
だがそれは立ち止まる理由にはならない!
いま目の前で奪われそうになっている命を、俺は全力で守る!
俺の体に力が染みわたる。
俺の体を漆黒のラバーめいた装甲が、俺の意志が鎧う。
残った左手を握り締める。
「掛かって来やがれ、クソ野郎ども! ここから先には、一歩だって通さねえぞ!」
俺の叫びに呼応したように、闇の中かがゴブリンが現れる! その数は十体、それほど多くはないが片腕を失った俺にとっては強敵だ。フォトンシューターを掴み、トリガーガード付近についたボタンを押す。だが、憂鬱な『ERROR……』の声が聞こえてくる。
「チッ、さすがにこの状態じゃ変身することは出来ねえってか……!?」
片腕を失い、力のバランスが崩れたせいか強化変身を行うことは出来ないようだ。恐らくはレイバーフォームにもなれないだろう。だが、それでもやれることはある。膝立ちになり、膝の上にフォトンシューターを乗せる。出力と弾速を調整し、片腕で銃を持つ。
二十キロにも達する重量が、片腕にのしかかってくる。重心が先端に集中しているせいか、持っているだけでもかなりキツい。銃口がぶれるのを感じながら、俺はトリガーを引いた。最低出力の弾丸が吐き出される。
重い反動を伴って。放たれた弾丸はほとんどが外れるが、そのうち一発が走るゴブリンに命中、脆弱な頭部をふっ飛ばした。
見様見真似の指切りバーストを行い、三、四発ごとに弾道を修正しながら射撃を続ける。遠距離にいたゴブリンをかなりの数減らすことが出来たが、問題は次々と湧き出て来る。横合いからオークが現れたのだ、それも盾を持っている。
盾を掲げながら突撃してくるオークに向かって、俺は銃撃を行う。フォトンシューターの威力は盾を問題にしなかったが、巧みに急所を隠しているため思ったほどのダメージを与えられない。
片目を失いながら、あるいは片腕を失いながら、ゴブリンを守りオークは突撃してくる。俺は舌打ちし、尚もそこに留まる人々に向かって叫んだ。
「みんな、早く逃げろ! ここは俺が止める、手遅れにならないうちに早く!」
目の前に脅威が接近してきたため、ようやく人々も避難する気になってくれたようだ。だが間に合わない、《ナイトメアの軍勢》との距離が少し近すぎる。
「さあて、それじゃあ一発! ちょいとぶっ放してみますかねぇ!」
俺は再び膝立ちとなり、出力調整を行った。連射速度『MIN』、威力『MAX』。
初日に撃ってぶっ飛んだあれだ。膝立ちのまま連中の中心に向かって照準を合わせ、トリガーを引いた。直後、凄まじい反動が俺を襲った。
思わずグリップから手を放してしまう。反動に引かれ、フォトンシューターが俺の体から離れていく。俺の体も背中から地面に叩きつけられてしまった。
「ハァーッ、ハァーッ、どうだってんだよ。これで参ったかよ、ああ!」
立ち上がり、俺が作り出した惨状を見た。《ナイトメアの軍勢》を吹っ飛ばすために放った一撃は、俺の予想以上の成果を上げたようだった。
恐らくは先頭にいたオークに命中したのだろう、そこから球形に被害は広がり、地面にはクレーターが広がり、左右にあった集合住宅は削り取られたようにして破壊されている。これですべてが……
いや、そうではない。もうもうと立ち上る煙の中から三つの影が現れた。特に大柄で、特に醜悪な外見をした化け物、オーク。仲間を盾にして進んできたのだ。
最初に出会った時を思い出す。俺のパンチはあいつには効かなかった。炎が発現しなければ、叩き潰されていたかもしれない。あの時から俺はどれだけ強くなった? そして、片腕を失いどれだけ弱くなった?
あの時と変わらないこともある、負けられないということが。俺は立ち上がり、オークたちを見据えフォトンレイバーを抜いた。
「行くぜ、お前ら。ここを通りたきゃ、まずは俺を倒してから行くんだな!」
フォトンレイバーを水平に構え、突撃。オークたちもそれを迎え撃つようにしてフォーメーションを組み、突撃してくる。横合いから一体ずつ、目の前から一体。
目の前にいたオークが剣を薙いだ。心臓だけを守るアーマーといい手慣れた剣捌きといい、グラディエーターとでも呼べばいいのだろうか。放たれた剣を俺はフォトンレイバーで受け止める。
甲高い金属同士の衝突音がした。グラディエーターの膂力は凄まじい。片腕では受け止めきれない、俺は咄嗟に体を半歩引き、正面から繰り出された斬撃を受け流した。
だが息を吐く間もなく右のオークが突撃してくる。それをいなし、側面を回ったかと思うと、今度は左のオークが剣を振り下ろして来た。今度は避けられない。
胸の装甲をオークの剣が切り裂いた。呻きながら剣を逆袈裟に振り上げる。だがオークは俺が放った斬撃をかわし、再び距離を取って来た。他の二体も同様だ、正面、そして左右に広く展開し、俺の視線を切ろうとしている。
(得物にこだわってはいけません。武器は戦闘の構成要素に過ぎないんですから)
クロードさんのレクチャーが俺の脳裏に過った。最終的に勝てばよかろうなのだ。
片腕では自然、選択肢は狭まってくるが、クロードさんが言いたいのはそういうことではないだろう。戦場のありとあらゆるものを利用し、戦えと言っているのだ。自分自身さえも。
構えを変える。フォトンレイバーを下げ、地面すれすれにして持つ。オークグラディエーターは訝しんだような視線を俺に向けて来るが、戦い方を変える様子はなかった。
正面のオークグラディエーターが剣を構え、突撃してくる。隙の少ない小振りな一撃で俺の足を止め、左右のオークに止めを任せようとしているのだ。単純だが効果的、だが残念ながらそれはさっき見た。
上体を落とす。地面に付いた剣を振り上げる。砂埃と小石が巻き上げられ、オークグラディエーターの視界を瞬間塞いだ。あいつらの目にもこんな小細工が通用するのか、と内心で驚いたが、まあそれはそれだ。
両足の裏に炎を発生させ、跳び上がる。右から突撃してきたオークが空振り、壁に激突する。左のオークの真上に、俺はいた。
左腕から炎を発生させ、その推進力を持って軌道を無理矢理変更。更に斬撃の速度を向上させ、左のオークに向かって斬撃を繰り出した。防御のために剣を掲げようとしたが、遅い。俺の斬撃は一瞬早くオークの頭を切り飛ばした。
膝立ちになりながら着地、すぐ脇にいた正面のオークの足を刈り取るような斬撃を繰り出す。しゃがんだ俺に追撃を繰り出そうとしたオークだが、それを中断し短いジャンプでそれを回避。俺はその隙を見逃さず、跳び上がりタックルを仕掛けた。空中にいたオークは踏ん張ることが出来ず、俺に押し倒された。
攻撃を加えながらも立ち上がった俺と、倒されたオーク。次の行動を起こすのはどちらが早いか、言うまでもないことだろう。立ち上がろうとしたオークに向かって、俺は炎を纏った肘を繰り出した。掲げられた剣をへし折り、胸を焼き溶かす一撃がオークの命を奪った。
壁に激突したオークグラディエーターが俺の方に向き直る。たった一匹になったが、油断ならぬ雰囲気を漂わせている。あの一合で、オークグラディエーターの方も俺に対する評価を改めたのだろう。両手で剣をホールドし、必殺の機会を伺っているようだった。
俺も剣を構え直しオークグラディエーターと向き合う。
一瞬の静寂が俺たちを包んだ。
街のどこかでまた爆発があった。
それが合図になったように、俺とオークグラディエーターは同時に駆け出した。互いに二歩進み、そしてほとんど同時に剣を繰り出した。横薙ぎに放たれた一撃を、身を低く沈め回避。その真下を這うようにした繰り出した斬撃が、オークグラディエーターの脇腹から胴に入り、心臓に当たる部分を切断した。
二歩、三歩、オークグラディエーターは歩き、そして崩れ折れた。
「ハァーッ、ハァーッ……! どうだ、俺だって少しは成長してんだよ……!」
腕を失った俺にだって出来ることがある。守ることが出来るものがある。一つだって可能性があるうちは、決して諦めてなるものか。もう二度と、好き勝手にはさせない。
「なぁんだ、あいつらやられちゃったの? 根性ない奴らね……」
場違いなほど軽い声が俺の耳に飛び込んできた。声のした方向を見た瞬間、腹部に凄まじい衝撃を受けた。目に見えない砲弾が俺にぶち当たったかのようだった。ヘルメットの吸気口からどす黒い血反吐が零れ落ちたのが見えた。また、這いつくばっている。
「手前……! 確か、グランベルク城にいた《エクスグラスパー》か……!」
あいつの顔を、俺は見たことがある。
あの時いた四人の《エクスグラスパー》のうち一人だ。クロードさんに倒されたと思ったが、こうして五体満足に歩いているとは。だが、無傷ではないのだろう。顔半分を覆い尽くすローブを被っているのだから。
「……ああ、あんたか。あんた、まだ生きてたんだ。そっちの方が驚きだよ」
俺のことなどまるで覚えていませんでした、とでも言うような口ぶりで女は答えた。確か、リチュエとか呼ばれていたか? あの時とほとんど同じゴシックドレスを着ているが、唯一違うのが手に持っている銀色の杖だ。怪しげな力がそこから漂ってくる。
「まあいいわ。これから死ぬ人間には変わりない。誰だって一緒よ、そうなればね」
「ッ……! どうして、どうしてそんな簡単に人の命を奪うことが出来る!?
あんただって俺たちと同じ世界から召喚されてきたんだろ!
なのに、どうして!」
「人を傷つけるな、人の嫌がることをするな。そう言われて育ってきたわ。でもね……」
リチュエは杖を振り上げた。直後、俺の顎にアッパーカットめいた衝撃が走った。かつてこれと同じ攻撃を受けたことがある。デーモンの魔術師、グラーディの使っていた魔法石の杖による風圧攻撃だ。
だが、その威力は比較にならない。俺の体は一気に二十メートルほど吹き飛ばされ、広場の芝生の上を滑って行った。
「世界で上手くやってんのは、人を傷つけることに躊躇いのない連中よ。
そして、それを取り繕うのが病的に上手い連中なの。
人畜無害な顔をしてグループを作って、グループの中でルールを作るの。
そして、その中で気に入らない奴を排斥する。合法的な理由を作ってね?
不思議でしょう、やってることは同じなのに誰もそれを非難しない」
頭上にかざした杖を、リチュエはグルグルと振り回した。すると、これまで晴天だった空にいきなり暗雲が立ち込めた。グラフェンの街を覆い尽くすほどのものだ。だがそれに驚いている暇もなく、空から何かが落ちて来た。雹だ。拳大の塊が俺の体に降り注ぐ。
「立ち上がらないで耐えているのが正しい在り方だと思っていた。
罵倒されても傷つけられても、正しいことをしている方がいいって思っていた。
でも現実は違ったわね。正しいことの尺度なんてグループの中で変わって行くもの。
排斥される方が悪いものなのよ」
大地を抉る雹の雨の中において、リチュエは悠然と歩いた。あの女が作り出している現象なのは明白、だがこの前の戦闘であれほどのパワーを発揮していたか?
(あの杖があいつに力を与えているのか? なら、あれさえ破壊すりゃあ……!)
降り注ぐ雹の雨に耐えた。ゆっくりと上体を起こし、リチュエの接近を待つ。あの女は油断し切って歩行スピードを緩めることすらしていない。
ならば、チャンスはある。
リチュエの体が、あと十歩程度のところまで接近した。
いまだ! 俺は立ち上がり、フォトンレイバーを振り上げた。紫色の炎によって斬撃のスピードを加速、フォトンレイバーの峰を、あの女の体に叩きつけようとした。だが、それは見えない障壁によって阻まれた。彼女が生み出した風の障壁によって。これさえも、通用しないのか?
「弱いわね、あんた。そんなんで吠えてるなんて……恥ずかしくないのかしら」
嘲りの表情を作り、リチュエは杖の先端を俺の腹に当てた。凄まじい風を感じた。防御姿勢を取る暇さえなく、俺の体はまるで紙のように吹き飛ばされた。地面を何度もバウンドし、時計台に叩きつけられてようやく止まった。
「素晴らしいわね、聖遺物の力。これがあれば、私はすべてを手に入れることが出来る」
「クソッタレ、手前……それでいったい、何をしようって言うんだ……!?」
「そうねえ、手始めに……あんたみたいに邪魔してくる奴を殺すことからかしらね」
立ち上がろうとした俺に目掛けて、再び風のハンマーが叩きつけられた。
「私は二度と負けない。もう二度と、被虐者の立場に戻るのはごめんだわ。
髪を丸ごと剃られて、アクリル絵の具で化粧をされて、服を切り裂かれて、ご飯を床にぶちまけられる……そんな立場には二度と戻らない!
私はこの力で勝利者になってみせる!」
「あんたがされてきたことを……あんたがされてきたよりも酷いことを、他の人にするってのかよ! それが罪深いことだって、誰よりもあんたが分かってんだろ!」
「だからどうしたの? 世界には勝者と敗者の二つしかないし、すべての人間が勝者になれるほど世界は大きくない。だから私は他者を踏み潰してだって勝者になってみせる」
ぞっとするほど冷たい視線を、リチュエは俺に向けて来た。敗者に向ける視線を。彼女は誰よりも分かっている、敗者になるということがどれほど過酷で、残酷なことなのかを。彼女は仕返しをしようとしている。自分を敗者にした世界への仕返しを。
「そんな、そんな奴当たりみたいな理由! 認められるかよ、絶対に!」
「知ってる、あなた? 誰かを認めることが出来るのは、勝利者だけだってことを」
繰り返し、繰り返し、俺の体が時計台に叩きつけられる。凄まじい力を前にして、俺は抗うことさえも出来ない。奴の語る世界の理屈とやらを、否定することが出来ない。
「誰かに勝つっていうのは気持ちがいいことね。例えそれが、取るに足らない、自分よりも劣った存在であったとしても。分かったわ、私。どんな場所にだってヒエラルキーが存在して、その中に絶対的勝者と敗者が存在する理由が。手放せるわけないわね?」
どこか恍惚とした表情を浮かべながら、リチュエは語った。ふざけるな、否定してやりたい。けれども俺の言葉は何の力も持たず、俺の体は一歩だって前には進まない。
不意に、俺を叩きつける風の圧力がなくなった。立ち上がろうとしたが、ダメだった。全身に力が入らない。立ち上がろうとする意志さえも瞬時に萎えて来る。俺の体を覆っていた力が風化し、消えて行く。膝を折り、俺は地面に再び這いつくばった。
「終わりね、あんた。《エクスグラスパー》一体、景気づけにはちょうどいいかしら?」
まだ死んでねえ。そう叫ぼうとしたが、出来なかった。理由がすぐに分かった。
背後にあった時計台が、軋みを上げている。何度も何度も、あの力で叩きつけられたため、時計台本体にもダメージを与えていたのだ。初めは砂埃程度のものが、そして徐々に大きな欠片が落ち始めて来た。グラグラと時計台が揺れ、振動が俺にも伝わってくる。
「いいわね、それ。記念碑よ。私が生まれ変わったことを記念する記念碑。
永久にそこに奉って、あなたがそこにいたってことを覚えていてあげるわ」
狂気の笑みをリチュエは浮かべた。逃げなければ、俺は地面を掴んだ。掻いたと言った方が正しいかもしれない。必死に這いずり、立ち上がろうとした。やらなければよかったと思う。失敗して、俺の体はその場で一回転した。そして俺は見た。
俺に向かって降ってくる、人の体よりも大きな巨大な瓦礫を。
激突、衝撃。不思議なことに痛みはなかった。
体が感じることを否定しているようだった。
俺の目の前で、現実感さえ伴わず俺の体が損壊していく。
取り返しのつかない事態が目の前で起こっていた。




