女の子を助けても惚れられるとは限らない
さて、啖呵を切って出て来たはいいがどうしたらいいんだろう。ウルフェンシュタインの中央にある噴水広場の真ん中で、俺はすっかり立ち尽くしていた。
恨めしいくらいに綺麗な青空が俺を見下ろしている気がした。空は広く、風は清廉。なのに俺の心はちっとも晴れてくれない。ため息を吐き俺はベンチに腰掛けた。
「いったい何をどうすりゃいいんだよ……誰か俺に教えてくれよ……」
俺がやっていることは間違っていないって、誰かに言ってほしかった。あるいは、俺のやっていることは間違っていることで、どこか別のところに正解があると教えて欲しかった。分かっている、誰もそんなことを言えやしないってことを。
この世界に来た、最初の頃はよかった。
エリンとリンドを助けるという目的があった。
二人の命を弄ぶ、憎むべき敵がいた。
そしてそいつが呼び起こした絶対的な悪がいた。
だから何の迷いもなく戦うことが出来た。でも二人を助けて、『真天十字会』なんてのを追いかけるようになって、いろいろ分からなくなった。複雑さが俺を包み込んだ。
あの時リチュエを殺したりしなければ、迷うこともなかったのだろう。
「……ん? 何だ、あいつら。何してんだ、あれは……」
表通りに面したカフェテラス、その横合いにあった路地裏で、数人の男性が言い争っているのが見えた。いや、そうではない。中にもう一人いる。体型のいい女性だ。大方あの男たちがナンパか何かを引っ掛けているのだろう。そして女性は乗り気じゃない。
「……いいよ、構うな。あんなのに構ったって、何のメリットねえだろ……」
人を助けていいことがあったわけじゃない。むしろ、そのためにジレンマに悩むことになった。ならば、最初から何もしない方がいいじゃないか。
そんなこともを考えながらも、俺の足はそっちの方に向かっているのだった。
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ひたすらに面倒なことになったな。そう私は思った。
三石明良から伝えられた『共和国』観光、改め内偵調査。まだ『共和国』側に顔の割れていない私が内部に潜入し、黒い結晶体『不和の芽』を設置したり、内部調査を行うことになっていた。
「ねーねー、彼女。どこから来たの? マジでマブい、どーなってんのその白さ?」
「一緒にお茶して、もっと楽しいことしようぜ。何するって? 言わせんなよ!」
しかし、まさか路地から出てきて一発目でナンパされるとは思ってもいなかった。他人の目を引かないように苦労して衣装を考えて来たはずなのに、これである。人生というのはままならないものだな、と思って目の前に現れた生命体を見た。
田舎者感丸出しの服装はいいとしよう。グラフェンやその周辺から流れて来たのだろう。だが異臭のする口をそのままにしているのはいただけない。歯列も悪い。見ているだけで嫌悪感を想起するような顔が現実にあるのだな、と私は思った。
「ねーねー、何で黙ってんの? コワイ? 俺たちコワイ? ゴメンネ」
あんたたちなんて怖くもなんともない、さっさと失せろ。そう言いたかったが出来なかった。そんなことをすればさすがに目立つ。
私は『真天十字会』のヒエラルキーからは少し離れた位置にいるが、それでも失態があったとなれば遠慮なく処断されるだろう。ガイウスにとっては『女王』というのも、使い捨てに出来るコマの一つなのだから。
それにしても、無視していればどこかに行ってくれると思っていたが、想像以上に彼らはしぶとかった。いい加減うんざりとしてきた私の脳裏に、衝動が浮かび上がって来た。
――殺しちまえ、こんな連中。やったってバレはしないさ――
確かに、私の《エクスグラスパー》能力ならばこの程度の連中を処理するのに一秒もかからないだろう。ちょっと触れて、願って、それで終わりだ。
そう思うと、これまでどうして悩んでいたのかがバカらしく思えてくる。さっさとあしらってやろう、あの世まで。
「いいよ、それじゃあ、どこでやろうか? あんたたち……」
そう言おうとした。いや、正確には言った。
だが、それはもっと大きな声に遮られた。
「おい、やめろよお前ら。その人嫌がってるの、見て分からねえのかよ?」
田舎者たちは一斉に振り返った。そして、そこにいる男を見た。
彼らと同じくらい野暮ったい格好をした、眼鏡をかけた男がいた。
顔立ちはこいつらよりマシだった。
どこにもで空気を読まない勇者サマはいるんだな、と私は思った。
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制止に入ったはいいが、これからどうしよう。声をかけてから俺は少し悩んだ。
「ンダッテメッコラーッ! 気安く話しかけてんじゃねーぞ、オラッ!」
「おめー俺たちが誰だか知ってんのか? 泣く子も黙るブラザーズだぞッコラーッ!」
知らねえよんなこと。泣く子を黙らせたいんならこんなところにいないでくれ。
「んだよ、甘ちゃん。怖いんでちゅかー? ごめんなちゃいねー?」
どうやってこいつらを黙らせたものか、考えているのを自分たちを恐れているものと判断したのだろう。目の前のヤンキーどもはあからさまに調子に乗ってきている。ダメだこいつら、早くなんとかしないと。言おうとしたところで体格のいい男が踏み出して来た。
「回れ右だぞ、コラ。いまの顔とお別れしたくねーなら黙って消えやがれ」
「いやあんたら、その人困ってんだから消えるのはあんたたちの方――」
最後まで言い切る前に頬に衝撃があった。前の前にいた大柄な男が叩いたのだろう。いままでに比べれば軽すぎる衝撃に、思わず笑ってしまいそうになる。
「聞こえねーのかぁ? さっさと消えろっつってんだよ。お小遣いが欲しいのか?」
そう言って体格のいい男が金貨を取り出して来た。日雇い労働な報酬なんかは、ほとんど銀貨か銅貨によって払われる。なぜ? こいつが金貨を持てるようには見えなかった。
「拾いものだよ、お前も取っとけ。グラフェンから逃げてきてお前も入り用だろ?」
「……どうして俺がグラフェンから来たって分かるんだ?」
「そりゃそうよ、俺たちもグラフェンから来たんだ。これはそこで拾ったの」
……ああ、そうか。泣く子も黙る何とかって、そういう意味か。
「グラフェンじゃ腕を使わねえ仕事ばかりだったからな。滾ってしょうがねえわけよ。
ワカル? ワカルな。この女は俺たちのものだ。こいつを握ってさっさと消えな」
静音さんだって言っていたじゃないか。火事場泥棒が多いって。みんなが必死になって逃げ回って、みんなが必死になって守ろうとしている中、こいつらはよろしくやっていたわけだ。自分の欲望のために。唾棄すべき感情のために。
「いーんすか、親分。こんなガキに金貨なんてやっちまって?」
「いいんだよ、こんなもん。掃いて捨てるほどあるんだから……あん?」
そうかそうか、俺はこんな連中のために命をかけてきたわけか。
御神さんはこんな連中のために命を落としてきたわけか。
何だか笑えて来てしまう。
「おい、ガキ。何睨んでんだよ? こっち見んじゃねえよ」
生きている価値がこいつらにあるのか?
他人から奪うことしか出来ないこいつらに?
「何睨んでんだって聞いてんだよ、手前! 殺されてえのかアギッ!」
お望み通り殺してやる。
そんなささくれた意志が俺の体を支配しかけたのは確かだ。
だが、その時は訪れなかった。
その前に、堪忍袋の緒が切れた人がいたからだ。
「ちゅーか、私を無視して話を進めてんじゃねえよ。アホどもが」
すらりとした細い女性の足が、体格のいい男の股間から伸びていた。
つまり、そう。大変な激痛に男が呻いた。
「お、おめえなんちゅうことをしてくれてんだ!? お、落としまギャアッ!」
鮮やかな手並みで、横合いにいた小男の顔をその人は掴んだ。親指と小指が男の眼球を握るようにして伸びており、少し力を込めれば潰してしまいそうになっていた。
「人がうんざりしてるのが分からないってのは得なのか損なのか分からんな、ええ?」
「あっ、いっ、ぎっ……な、何を、しやが、ああっ……!」
「速やかにここから立ち去れば、これ以上は何もしないでおいてやる。
だがまだしつこく私に付きまとってくるって言うなら、ここで手前らの大事な玉全部潰してやる。安心しろよ、丸っこい部分一つもなくたって人間生きてけるらしいからな……!」
お姉さんはサメのように獰猛な笑みを作った。さすがに呆気に取られてしまう。
こいつらいったいどうなるだろうと思ったが、リーダーと思しき体格のいい男が手でみんなに撤退を促していた。アレを蹴られたせいで大分苦しげだ。そこだけは同情する。さすがにこんなイカれた女に付き合ってはいられないということなのだろう。すぐ全員いなくなった。
「ケッ、気分悪い連中だぜ。付きまとうんなら最後まで根性出せっての」
お姉さんは吐き捨て、そこから立ち去ろうとした。その背中に、俺は声をかけた。
「あ、あのお姉さん。大丈夫ですか? どこか、怪我とかしてないですか?」
「は? 私が? してるわけないだろ。あいつらに掴みかかられたわけじゃない……」
そう言ったお姉さんだったが、すぐに顔をしかめた。
よく見てみると、右手にうっすらと赤い筋が刻まれている。さっきもみ合いになった時に傷つけてしまったのだろうか? 俺はポーチに入れておいた応急手当用品を取り出し、お姉さんに見せた。
「ちゃんと消毒しとかないといけないっすね。化膿しちまうと厄介です」
「いらねえよ、こんなの。唾でもつけておけば治る、構うんじゃねえよ」
「小さい傷を甘く見ないで下さい! ちょっと見せてください、すぐに終わります!」
このご時世、傷が悪化しても医者にかかれないことだってあるかもしれない。偶然の出会いだが、会った人をそんな目に遭わせたくはない。お姉さんを無視して治療の体勢を整える。お姉さんは観念したように頭を掻き、俺の手を取って来た。
「分かったよ、大人しく治療を受けてやる。だから場所変えんぞ、場所を」
お姉さんは俺の耳元に口を寄せ、小声で言ってきた。髪が鼻を撫でる感触と、ふわっと漂ってきた匂いとにどぎまぎしてしまうが、すぐに周りの状況を理解した。さっきのやり取りのせいでかなり人目を引いてしまったようだ。俺たちはそそくさとそこから離れた。
少し離れた場所にあった喫茶店に俺たちは入った。お姉さんの腕を消毒し、軽く包帯を巻く。傷口は湿らせておいた方が治癒が早くなるそうなのだが、生憎そんなことも言っていられない。この世界の水で傷口を濡らしておくには少し不安があったからだ。
俺たちの前に紅茶のようなものが振る舞われる。心地よい香りといい、味といい、紅茶だとしか思えないが厳密には紅茶ではないのだろう。いいと言ったのに、お姉さんは俺に一杯のお茶とケーキを奢ってくれた。何とも義理堅いことだ。
「ま、一応礼を言っておくぜ。あんたのおかげで面倒事にならずに済んだ」
「すいません、下手なことしちゃって。これじゃあどっちが助けられたのか分からん」
「こう考えろよ、お前はあいつらの命を助けてやったんだ。私一人じゃ、あいつらをこれ以上痛めつけたかもしれんからな。そういうことにしておけよ」
お姉さんは悪戯っぽい笑みでそう言ったが、俺にとっては複雑な気分だ。あいつらに生きる価値があるのか、そこまで考えてしまった。あの瞬間俺はあいつらを殺そうとした。
「……そうですね、そう思っておくことにします。えーっと、あー……お姉さん」
この人の名前が分からないので、当然そういう呼び方になる。
不思議な雰囲気の女性だ、と思った。三白眼に近い小さな瞳と鋭く切れ長の目、長いローブのような服を着崩した姿はどこかヤンキーめいていた。これで金色のチェーンだとか、ゴテゴテした指輪でもつけていればヤクザの姐御と言われても納得してしまう。
だが、その雰囲気はどことなく優しげだ。瞬きする度に長いまつげが躍る。もっとも、それはこの人の機嫌を損ねていない、ということもあるのだろう。
もし彼女の気分を害していたら、俺のボールがブレイクされている可能性すらあるのだ。コワイ。あの時感じた雰囲気は、正しくヤクザだとかそう言う類のものだったように思える。
「私は楠羽山。あんたの名は?」
「あー、俺は紫藤善一です。もしかして、あなたは《エクスグラスパー》?」
あからさまな日本人名を聞いて俺は反応するが、彼女は笑いながら答えた。
「何代も前に遡れば、そう言う人がいるのかもしれないね。でも私はこっちの人間さ」
「あー、そういうことですか。すいません、変なこと聞いちゃって」
「《エクスグラスパー》なんて何百年も現れてないんだ。当たり前だろう?」
目の前にいる僕が何百年も現れなかった《エクスグラスパー》です、と答えたくなったがやめておくことにした。そんなことを言っても信じてはもらえないだろうから。
しかし、見た目にもあまり変わりはないものだな、と俺は改めて思った。確認しなければどっちの人間だか分かったものではない。だからこそ人波に紛れられるのだが。
「羽山さんも、今回の件でウルフェンシュタインに来たんですか?」
「まあ、そんなところ。まあ迷惑な話だよね。いままで平和に暮らしてたってのに、ワケの分からん戦争でいままでいたところを離れなきゃいけないってのはね」
楠さんは吐き捨てるようにして言った。心が痛む。
あの連中がやったことではあるが、責任の一端は俺にだってあるのだ。
正確に言うならば、《エクスグラスパー》全員に。
「さて、私はそろそろ戻ることにするよ。やることがあるからね」
「あっはい。楠さん、お茶ありがとうございました。美味しかったです」
「お茶が美味しかった、って礼を言うんなら店主さんに言いな。私じゃなくてな」
楠さんは悪戯っぽく笑い、会計をしてここから去ろうとした。だが、ポーチの中を探ってみて顔色を変えた。楽しげな表情が無表情に変わり、憤怒に変わった。
なんだこりゃ、いったいどうなっているのだ? 楠さんはいきなりキレた。
「クソッタレ、あのクソ野郎ども! やっぱりあそこで殺しておくべきだった……!」
物騒な物言いだが、何となく彼女が何で起こっているのか分かった。要するに、さっきの連中はナンパするふりをして窃盗も行っていたのだ。ふりかは知らない、女の人を浚ってもっといろいろなものを取ろうとしていたのかもしれない。だが下種な行為だ。
(やっぱりあいつらに生きている価値なんてありゃしねえな……)
彼女のように戦火から逃れてきて、必死にいまを生きようとしている人から奪うなど、人間のすることではない。次会ったら、俺は本当にあいつらを殺すかもしれない。
ともかく、楠さんが会計で困っているのは確かだ。俺はポーチから財布を取り出し、会計をしようとした。だが、楠さんは俺のことを押し止めようとした。
「おい、やめろ。私が持つって言ってんだろ。ゆっくりしてろよ」
「いや、さっきの様子から見て楠さん、財布スられてんじゃないんすか?」
「大丈夫だよ、どうってことはねえ。どうってことはねえから、お前先に店出てろ」
「それって会計しないで出てくるパターンですよね?」
意地を張っているのがよく分かった。会ってすぐの人のことがすべて分かるほど観察眼に優れているわけではないが、何となく面白い人だな、と思った。
「持たせてくださいよ、楠さん。返してくれるってんなら、今度でいいですから」
「くっ……この借りは絶対に返すからな。覚えてろよ、シドウ」
お礼参りでもされるんじゃないかと思うほど激しい瞳で見つめられた。面白い人だ。それほど安くないお茶代を支払い、俺たちは並んで店から出た。
「それじゃあ、私はもう行く。金返す時はどうすりゃいい、どこに行けばいいんだ?」
「そうですね、この時間帯ならここにいることにします」
「そうか。なるべくすぐに金を返せるように努力する。だから待っててくれよ」
そこまで力入れて返済を迫ってませんよ、と言おうとしたが聞いてなさそうだった。まあ、こんな美女とお知り合いになれたんだからいいか。鼻の穴が膨らむのを感じる。
「それじゃあ、またなシドウ。お前も早く――」
彼女が振り向き、俺に何かを言った。長いツインテールがはためき、光を反射してキラキラと輝いた。だが、彼女の声が俺に届くことはなかった。
背後で凄まじい爆音がした。振り返ると、飲食店の内側から朦々とした黒煙が立ち上っていた。火災か、一瞬俺はそう思ったが、違った。火種は別にあったのだ。
「キャァーッ! ば、化け物よォーッ!」
誰が言ったのか、悲鳴が辺りに鳴り響いた。
そして彼女の言葉通り、路地裏から化け物が出て来た。
トカゲめいた姿をした、直立する怪物だ。外側の皮膚は硬質そうなスクウェア状の鱗が敷き詰められており、内側の蛇腹になった部分はしなやかなベージュの革で出来ていた。その手には鋭い爪と人間のような五指があった。
そして、その左手は男性の首根っこを掴んでいた。彼はじたばたと暴れるが、少し直立するドラゴンが力を込めると動かなくなった。永遠に。四肢がだらりと垂れ下がる。
殺された。いま、この瞬間まで送られていた日常が、一瞬にして破壊された。こいつもそうだ。何の前触れもなく現れ、死を振りまく理不尽の化身!
「逃げろ、楠さん! こいつは、俺が止めるからッ!」
俺は走り出した。直立するドラゴン、ランドドラゴンに向かって。数歩走り、踏み切り、飛びかかった。俺の体を力が鎧う。
勢いを殺さず、拳を振り上げる。ランドドラゴンは煩わし気にこちらに視線を向ける。その横っ面に向けて、俺は拳を振り下ろした!