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2. Andante - 彼女からの誘い

『悠人さん、今度の土曜の夜ってお時間あります?』

 涼風から電話で誘いがあったのは、前回食事に出かけてから二週間が過ぎたころだった。

 その時点で、悠人は彼女の誘いをどうするべきかまだ決めかねていた。いくら考えても堂々巡りになるばかりで結論を出せず、しかし音沙汰がなかったので社交辞令ではないかと思い始め、もう気にするのをやめようと決めた矢先の連絡だったのだ。

 そんな不意打ち同然の状況でうまく対処できるはずもなく、結局、彼女に流されるように会う約束をしてしまった。話し終えた携帯電話の通話を切って片手で畳み、溜息を落とす。

 まあ、一回くらいはいいだろう——。

 一回であればそれほど期待させることもないはずだ。今後どうするのかという問題を先送りにしたまま、自分自身にそう言い訳する。心の片隅でかすかに浮き立つ気持ちから目をそむけながら。


 今回は、駅で待ち合わせをすることになった。

 悠人は待ち合わせのときはいつも十分前までに着くよう行動している。今日も十分前に着いたが、そのときにはすでに彼女が改札を見つめながら立っていた。仕事帰りなのか、スタイリッシュな黒いスーツを身につけ、肩からは大きな黒い鞄をさげている。そういえば彼女の画廊はここから歩いて行けるところだ。

 悠人が近づくと、彼女は気配を感じたように振り向いた。すぐに小走りで駆けつけてきて微笑む。

「来てくださってありがとうございます」

「約束は守りますよ。ずいぶん早く来ていたんですね」

「悠人さんをお待たせするわけにはいきませんから」

 彼女はいたずらっぽく目をくりっとさせて肩をすくめた。これまでも二人きりのときに何度か目にした顔だ。いかにも仕事のできる女性といった格好とは裏腹に、こういう表情をしているとまるで少女のように見える。

「行きましょうか」

 無言の悠人にそう声をかけ、彼女は肩よりすこし短い黒髪をなびかせて軽やかに歩き出した。


 彼女が予約していたのは、駅近くのビルに入っているダイニングバーだった。

 前回のレストランと比べるとかなりカジュアルではあるが、雰囲気はわりと落ち着いていた。あちらこちらから楽しげな話し声は聞こえるものの、宴会のように臆面もなく騒いでいる輩はいない。男女二人組、あるいは女性数人のグループが多いようだ。

 店員に案内されたのはいちばん奥の窓際にある席だった。ガラス窓に面したカウンターテーブルに向かい、二人掛けの長椅子に並んで座るようになっている。隣席とはこころもち離れているため窮屈さはなく、話が筒抜けになる心配もなさそうだ。正面は一面ガラス窓になっており、その向こうにはきらびやかな都会の夜景が広がっていた。

 もはや完全にカップルのための席といった感じで、そこはかとない気恥ずかしさを覚えたものの、店員に促されるまま素知らぬ顔をして席に着いた。彼女も隣に座る。すぐに別の店員がおしぼりと水とメニューを持ってきた。

「悠人さんは何を飲みます?」

「……生ビールで」

 彼女がドリンクメニューをテーブルに開きながら尋ねてきたが、何ページにもわたるメニューを吟味して選ぶのは面倒で、ほとんど見ることなく答えた。彼女の方は「どうしようかな」と楽しそうに独りごちながら、カクテルメニューを軽く眺めたあと、ワインリストをじっと食い入るように見つめる。そして店員を呼び、舌を噛みそうな銘柄の白ワインと生ビールを注文した。

「食べたいものはあります?」

 今度はそう尋ねながら料理のメニューを広げた。

 カルパッチョ、カプレーゼ、バーニャカウダ、パスタ、ピザ、リゾットなどイタリアンなものが多いようだ。そういえば、さきほどこの席まで案内されるときに、石窯でピザを焼いているのが見えた。それなりに本格的な店なのだろう。

「日比野さんにおまかせします」

「じゃあ、いくつか適当に頼みますね」

 彼女はそう言って真剣にメニューを見つめて考え始めた。おなかが空いているか、好き嫌いはあるかなど、ときどき悠人に尋ねながら選んでいく。やがて男性店員がドリンクを運んでくると、彼を引きとめて三品ほど注文した。

「それじゃあ……乾杯」

 彼女の音頭で、隣り合った二人は軽くグラスを合わせる。

 悠人は冷たいビールを渇いた喉に流し込むと、グラスを置いてあらためてまわりを眺めた。テーブル席の方には女性だけのグループも少なくはないが、夜景の見える窓際の席は目につく限りすべて男女二人組である。そのほとんどがおそらく恋人どうしだろう。

「日比野さんはよくこの店へ来るのですか?」

「ええ、月に4、5回くらいは来てるかしら」

 彼女はワイングラスの脚に指先を掛けたまま、遠くを見つめて微笑む。

「仕事が遅くなって自炊するのも面倒なときは、よくここで食事をして帰るんです。いつもは向こうのカウンターでひとりよ。夜景の見える窓際の席なんて今日が初めて。少し憧れていたけど、一緒に行ってくれる彼氏はいなかったから」

「…………」

 悠人はどう反応すればいいかわからず、黙ったままビールに口をつけた。

 恋人とここへ来ているのではないかと思ったが、そうではなかったらしい。どのくらいのあいだ恋人がいないのだろうか。前回彼女から訊かれたことなので、彼女に訊いても構わないように思うが、興味を持っていると誤解されても困るのでやめておく。

「だから、今日は本当に嬉しくて嬉しくて仕方がないの。好きな人とここに座ることができたんだもの。でも悠人さんを慰めないといけないのに、自分が舞い上がってちゃダメよね」

「構いませんよ。そもそも慰めてもらうつもりはありませんから」

 慰めるという話自体、彼女が勝手に言い出したことで悠人が頼んだわけではない。

 しかし、彼女は不思議そうに目をぱちくりさせながら覗き込んできた。

「じゃあ、どうして誘いを受けてくださったの?」

「…………」

「断りづらかったから仕方なく?」

「その、まあ気晴らしにはなりますし」

 見事に図星を指され、若干の焦りを感じながらごまかすように答える。さすがに気を悪くしたのではないかと思ったが、少なくとも深く追及するつもりはないようだ。彼女はニコッと小さく笑い、気晴らしになるのでしたらよかったです、と穏やかに応じてワイングラスを手にとった。


 とりとめのない話をするうちに料理が運ばれてきた。まずはシーザーサラダである。かなり分量のあるそれを小皿に取り分けつつ食べていると、カルボナーラとマルゲリータも続けて運ばれてきた。やはりどちらも二人で分け合いながら食べていく。彼女が行きつけにしているだけあって、味はいずれも満足のいくものだった。

 意外にも、彼女はよく食べる。

 最初に注文したものが残り少なくなってくると、当然のように追加注文した。そういえば前回のコース料理も残さずきれいに食べていたことを思い出す。少食でもない男性の悠人が腹一杯になったくらいなので、女性にはいささか量が多かったのではないかと思うが、彼女は少しも苦しげな素振りを見せていなかった。

 華奢で小柄な体なのによくそんなに、と不思議に思いながら何気なく横目を流すと、意図せず豊かな胸が視界にとびこんできた。ジャケットの上からでもわかるくらいにボリュームがあり、シャツも窮屈そうである。その視線を感じたのか彼女が手を止めて振り向く。悠人は何事もなかったように大皿のピザに手を伸ばし、口に運んだ。


「そういえば、澪ちゃんから聞いたんだけど……」

 会話が途切れたあと、彼女は少し言いにくそうにしながら切り出した。悠人が飲みかけていた二杯目のビールを置いて横目を流すと、彼女の方もちらりと視線をよこして言葉を継ぐ。

「澪ちゃんの結婚式でエスコートするって」

「ああ……、澪が望んでくれるならですが」

 父親の大地にはドイツから帰ってこられない事情がある。そもそも澪の尊厳を踏みにじるようなむごいことをしたのだから、結婚式で父親面をする資格はない。それゆえ、悠人が保護者代わりにエスコート役を申し出たのである。

「そのことで、澪があなたに相談を?」

「ええ……本当に悠人さんにお願いしていいのか悩んでいました。澪ちゃんとしてはすごく嬉しい申し出なんだけど、その、悠人さんにつらい思いをさせてしまうんじゃないかって……」

 彼女は言葉を濁すが、澪に結婚を断られたことへの言及だとすぐにわかった。

「少しもつらくないといえば嘘になりますが、心配するほどのことではありません。私としてはできるならこの手で澪を送り出してやりたい。それが私自身のけじめでもありますし、矜持でもあります。澪にもそういう話はしたはずなんですけどね……わかりました。もう一度きちんと腰を据えて話し合ってみます」

 悠人はテーブルの上で両手を組み合わせながら、真面目に答えた。

「まだふっきれてはいないんですよね?」

「まあ、五年以上も想ってきたわけですから」

「悠人さんってやっぱり紳士だと思うわ」

 いったい何をもって紳士と評しているのかわからない。五年以上も一途に想い続けてきたことだろうか。それとも、五年以上も手を出さなかったことだろうか、彼女の過剰評価は今に始まったことではないが、さすがに言い過ぎではないかとむず痒くなる。

「あなたにあんなことを頼んだ私を紳士だなんて、ありえないでしょう」

 思わず反抗的に言い返したが、彼女はフォークを持つ手を止めてきょとんとした。

「あんなこと?」

「……忘れているのならいいです」

「あ、もしかして一晩だけって話?」

「すみません、あのときはどうかしていました」

 どうしてこんなことを蒸し返してしまったのだろう。悠人は思いきり後悔しながら、いたたまれなさにうつむいて言い訳を口にする。けれど実際にどうかしていたとしか考えられない。澪のことをふっきるために一晩だけ付き合ってほしいと頼むなんて。断ってくれた彼女には言いようもないくらい感謝している。そんな理由で抱かれるのは嫌だと一蹴されて目が覚めたのだ。

「本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、悠人さんが弱い一面をさらしてくれたみたいで、私はちょっと嬉しかったの。だからお気になさらないでくださいね。それに、一晩だけってあらかじめ正直に言っておくのは、十分に紳士的だと思うわ」

 彼女は冗談めかしてクスッと笑った。しかし、ふいに顔を曇らせて覗き込んでくる。

「もしかして、ほかの人にもお願いしました?」

「日比野さんにしか頼んでいませんよ」

 誰にでもそういうことを頼む人間だと思われたのなら心外だが、それだけのことを彼女にしたのだから仕方がない。しかし、実際には女性の知人からしてほとんどいないのだ。澪の世話を頼むときも、彼女だけしか思い浮かばなかったくらいである。

「ね、もしね……」

 消え入りそうな儚げな声が聞こえて振り向くと、彼女はワイングラスの脚に手をかけてうつむいていた。その横顔はひどく張りつめているように見える。無言で続きを待っていると、彼女は意を決したように小さく息を吸いこんで口を開く。

「もしどうしてもってときは、私を頼ってほしいの」

「そんなことには二度となりませんから」

「未来のことなんて誰にもわからないじゃない」

「……まあ、そうですが」

 もう澪のことは冷静に受け止めているし、万が一にもないことだと思っているが、そういう答えでは納得してくれないようだ。もしこうだったらという仮定の話をしているのだから、その前提を否定するのは、ごまかしと捉えられても仕方がないかもしれない。それならば——。

「ないとは思いますが、もしそのときは日比野さんにお願いします」

「よかった」

 彼女はワインに目を落としたまま、ほっと安堵の息をついた。

 その姿を横目で見ながら、悠人は絶対にそんなことがないようにしなければと、今さらながらあらためて気を引きしめなおした。過ちは二度と繰り返さない。自分さえ気持ちをしっかり持っていれば大丈夫なのだから。


「今日は私にごちそうさせてください」

 支払いの段になって彼女はそう言い出した。

 悠人としては一回りも年下の女性におごらせるわけにはいかないと思ったが、彼女はどうしても譲らなかった。せめて割り勘でと言っても首を縦に振らない。自分のわがままで来てもらったのだから、自分に出させてほしい——それが彼女の言い分だった。

「じゃあ、次は悠人さんがごちそうしてください。それならいいでしょう?」

「……わかりました」

 いつまでも押し問答をしていても仕方がない。悠人は渋々ながらその提案を受け入れ、この場の支払いを彼女に任せることにした。


「何か、うまくはめられた気がするな」

「何のこと?」

 店を出たところで悠人がつぶやくと、彼女はとぼけるようにそう言って満面の笑みを浮かべる。

 結局、またしても彼女と食事をしなければならなくなった。計画的な罠なのか思いつきなのかはわからないが、結果的に彼女の望む状況になっていることは間違いない。案外策士なのかもしれないな、と隣でニコニコと嬉しそうにしている彼女を見下ろし、軽く溜息をつく。

 エレベータで一階まで降りてビルを出る。まだ終電までかなりの時間があるため、駅前通りはうるさいくらいに賑わっている。土曜ということもあり、スーツを着ている会社員らしき人間より、カジュアルな装いの若者が多いようだ。合コン後と思われる男女のグループも目についた。

「悠人さんはタクシー?」

「ええ」

「私は電車なので、今日はここでお別れですね」

 彼女は待ち合わせをした駅の方を指さし、にこっと笑う。

 しかしながら悠人としては今日もタクシーで送るつもりでいた。前回ほどは飲んでいないのでひとりで帰れるかもしれないが、まだ混雑する時間帯ということを考えると、酔って警戒心の薄れた彼女を電車に乗せる気にはなれない。

「ついでなのでタクシーに乗っていってください。マンションまで送ります」

「え、でもだいぶ遠回りになりますよね?」

「たいしたことはありません。せめてこのくらいはさせてください」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 彼女は暫し逡巡したあと、はにかむような笑顔を見せてそう言った。

 駅前のタクシー乗り場まで彼女を促しつつ並んで歩く。互いの腕がときどき触れるくらいの近さで。それは彼女のせいなのか自分のせいなのか——一瞬、悠人の頭にそんな疑問がよぎったものの、すぐに思考を閉じて考えないようにした。


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