吉乃2
雑用を済ませ、今日も美しい回廊を歩く。下校の時間だからか、回廊は多くの生徒が行き交っていた。
騒がしいけれど心地よく感じ始めたのはいつからだろうか。
(あ、あの子背が伸びたわね。あら、あの子はこの間悩んでいたのに、今は元気そうだわ)
子どもの成長は早い。昨日起こったことが、今日になれば収まっている。目覚ましい成長の中、大人の私の時間は彼らに比べたらゆっくりだが、少しずつ重なっていく毎日はかけがえのないものだと考える。
(いつかの別れは考えないようにしましょ)
だって、それはとても寂しいことだ。
「おい」
「ひゃ!」
背後からかけられた声に飛び退く。
ドッドッドッと飛び出しそうな心臓を抑えて振り向けば、やはり相手は想像していた人だった。
「ウールドリッジ先生」
「悪いな。今少し時間を取れるか?」
「え、えぇ……大丈夫ですが……」
この後の用事には、まだ時間がある。
私は承諾して彼についていこうとした時――。
「――吉乃さん!!」
回廊を行き交う生徒の波をかき分けて、私に向かってきたのは真帆だ。その表情は喜びに満ちている。
「真帆ちゃん? どうしたの?」
「あ、あのね」
激しく息を切らしているのに、それでも私になにか伝えたいのか、彼女は首を反らして顔を私に向けた。
「あたし、瘴気を祓えたよ!」
「えぇ?! 本当!?」
「本当! すっごく小さいやつだけど……」
「凄いわ真帆ちゃん! おめでとう!!」
「えへへへ」
走ったことで赤らんでいた頬が褒めたことでもっと赤くなる。満足げで得意げで初めての達成感に、真帆は私に飛びついた。
「もっと褒めて〜!」
「うふふ、よく頑張ったわね。本当に凄いわ。今夜お祝いしましょ」
「やったー!」
満面の笑みを浮かべてはしゃぐ真帆。
彼女の言葉を聞いたその場の生徒たちは驚きと尊敬に満ちている。
「すごいわ、マホ様」
「あれだけ努力していたんだ」
「寮母さんのサポートもあったしな」
「そうね、いつも寮母さんのお話をされていたものね」
耳に届く話し声。真帆称賛する中で、私の名前まで届いてきたのはなんだか居た堪れない。
(私は真帆ちゃんを支えていただけなのに……)
当初の真帆から大きい成長に、私は胸が打ち震えた。内側からキュウウと喜びを最後の一滴まで出し切るように絞られる。
「真帆ちゃん、本当におめでとう」
彼女の包容に応えて抱きしめ返す。汗で冷えて少し冷たいのに、その奥の体は熱くて。
「まだ雑用が残ってるから、先に帰っててね」
「はーい!」
「それじゃあね」と大きく手を振って去っていく真帆を見送って、私は小さく笑う。
(でも……)
ズキリ――。
「っ、」
突然こめかみに痛みが走って思わず目を閉じる。
「おい、」
「あ、ウールドリッジ先生も教員室に戻りますよね? もまだ用事が残っているので、失礼しますね」
痛む頭を無理に抑えて、私はそそくさとその場を後にして回廊を曲がった。
(痛みが、ひどく……)
痛みがやってきて重い体を引きずるように歩きながら、生徒が下校してしまった寂しい回廊を進むけれど、出口は果てしないように感じた。
(っあ、また……)
痛みにおもわず壁に手をつける。ズキズキとする頭を抑えて唇を噛み締めた。
(痛い……)
最近は、頭痛の頻度が上がっていることに気付いていた。自分ではどうしようもない不調に、焦燥は高まるばかりで。
(こんなことに……)
始めはただの疲労だと思っていた。異世界召喚なんて超常現象に、新たに始まった慣れない生活。それだけだと。
(でも、それだけじゃない……)
慣れ始めているのに、最初の頃より上手く行かないことが多くなった。悩みを持てる余裕が出来たのだろうけど、それは勘違いで。
(わたし、なんで……)
日々時間の流れが遅くなっていく。手足が上手く動かず、ベッドに倒れ込んで眠る日も多くなった。
日常に小さなキズが増えていっている。
(あぁ、ダメよ。こんなことじゃ。真帆ちゃんのお祝いもあるのに……)
力の入らない足を奮い立たせて「ふう、ふう」と息を吐きながらゆっくりと進む。立ち止まることはしない。だって寮には私の帰りを待っている真帆がいる。
(――本当に、私こと待ってるの?)
だって、もう真帆には沢山の友人がいる。私が世話を焼くことも少なくなって、毎朝梳かしていたブラシも私の部屋に片づけてしまった。
真帆に、もう私は必要ない――。
(良かったじゃない)
元々は、街で働くつもりだったのだし。
(そうよ、ここから出ても働けるのに――)
そう思うと同時に、今までで一番の痛みに襲われる。
「ぅう」
更にやってき苦しさで胸が喘ぐ。
(苦しい)
呼吸の感覚が早くなってドクドクと脈打つ胸を掴んだ。
バサバサと手から落ちていく書類に視線をやる余裕もない。
(……大丈夫よ。これくらい堪えられる)
冷や汗がこめかみに浮かび、グッと眉間に力を入れて揺らぐ足を立たせた。
その時――。
「あ、」
グラリと力の入らない足がもつれた。
(倒れる)
一秒先の未来が分かったのに、どうしようもない。
(怪我、しないといいな……)
そんな間抜けなことが頭を過ったのに、体に衝撃はなかった。
「おい、しっかりしろ!」
(え……?)
寸でのところで支えられた体には、まだ力が入らない。
(誰…………?)
肩を抱く黒い革の手袋が目に入って、回る視界に映った紫色の瞳に、私はギクリとした。
(ウールドリッジ先生)
「顔色が悪い医務室へ――」
「いえ、大丈夫です……」
私は力の入らない手で、彼の胸を押す。
(早く逃げないと)
「そんな体調でどこへ行く? 寮に帰るなら送る」
彼の申し出に、私は首を振った。これ以上長く一緒にいたら聡い彼に気付かれてしまう。
「っ、ホントに、大丈夫……あっ」
鉛で殴られたような痛みに目を瞑る。
「ごめんなさい、平気です」
「どこがだ」
「平気なんです」
「誰が見ても平気ではない」
彼の手は、私を逃さんばかり強くなっていって、痛みでもう思考が追いつかない。
「う、へい、き……なのに……」
堪えていた涙がポロリとこぼれる。
それが、きっかけとなって雨のように止まない涙がエプロンにシミを作っていく。
「ごめんなさ……泣く、つもりは……」
戸惑っているだろう彼の顔を見る余裕なんてどこにもなくて。
私は必死に涙を止めようとするけれど、堰き止められていた感情は濁流に寄って決壊していた。
真帆が思い浮かぶ。
『吉乃さん』
寝坊した彼女の髪を毎朝梳かした。
『痛くない?』
『だいじょうぶ! 吉乃さん上手だから』
屈託なく笑う顔。
それが、今は思い出になりつつある。
「ふ、うぅ……! せんせ、」
「なんだ?」
「真帆ちゃんには、言わないで」
「……こんな時でもシライシか」
きっと、真帆が知ったら私を心配する。そうしたら、きっと彼女は自分のせいだと責めて私を自由にする。
けれど、涙の理由は違うのだ。
それは、とても自分勝手で、身の程をしらない理由。
(私が不必要になったら)
「真帆ちゃんと、一緒に、いたい。学園から、出ていきたくない……!」
最初は仕方なくだった。でも今は違う。
真帆、寮生、先生、学園で生活する人たち。私はその全てを丸ごと好きになってしまった。
「何を言っている?」
「だって、わたし、わたし……!」
漏れ出る嗚咽を抑えきれない。
この学園を去ると思うだけで、胸が圧迫されるほど苦しい。
「真帆ちゃんの、付き添いだから……!」
「支えが必要なかったら、私は、いらないから……!」
真帆の成長が嬉しい反面、不安は大きくなっていった。
私はただの付き添いだ。彼女を支えてこそ意味がある存在。けれど、その役目がなくなったら、私はどうなるのだろう。
「っち、もっと早く手を打っとけば良かった」
手の平が抑えていた息で熱くなっている。新しい空気を吸いたいのに上手く出来ない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
子供みたいに泣いて。
こんな不安を抱いて。
真帆の成長が嬉しいのに、怖くて。
頭がズキズキする。もう目も開けていられない。
「いい。後のことは気にするな」
「っ、ごめんなさい」
謝ると同時に、私の意識は遠のく。
ただ、抱きしめられる温もりと、香水の香りが子守唄のように感じた。
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