転移と戦闘
白の世界から一転して、アナタは草原の中で立っていた。
無色だった世界から穏やかな陽射の照らす緑の絨毯と蒼の天井の広がる世界へと映り替わったことにアナタは茫然とした。
風に草が揺らめき、遠くには兎が見える長閑な風景。
息を吸うたびに取り込まれる空気はとても新鮮で、空気が旨いとはこのことを言うのかと知った。
ひょっとしたらさっきまで会話していた神やエンジェといった存在は夢だったのではないか。うん、そうだ。そうだったに違いない。きっと疲れて夢でも見ていたんだろう。
だが、そんなアナタの淡い期待いは眼前に浮かんできたエンジェの姿に儚く砕け散った。
「ようこそ、箱庭世界へ。アナタ様の来訪を神に代わって歓迎致します。……顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」
幸いにしてアナタが今落胆していたことは気づかれていないようだ。
異世界に行くという選択肢を選んだことは後悔していない。だが、元の世界に未練が無かったわけでもないのだ。
大丈夫。なんでもないとエンジェに無事を伝え、アナタは改めて辺りを見渡す。
草原は遠くまで続いているが、果てには山と森らしきモノが見える。だがおよそ人の痕跡は見当たらなかった。
「ここは……街道からおよそ五キロほど外れた場所のようですね。周辺四キロ圏に目視、幻視にて確認できる魔物の姿はなし、では如何なさいますかアナタ様? 私としては街道に出て集落へと向かうことを提案いたしますが」
どうやって確認したのかは知らないが、情報を得たエンジェがアナタに提案した。
アナタは頷き肯定する。そもそもアナタはここが何処かも分からないのだ。提案も対案も出しようがない。
「畏まりました」とエンジェは一礼すると、ふわふわと蒲公英の綿毛のように宙に漂い流れてゆく。とはいってもその方向は一方で、一定なことから風に流されたという訳ではないようだ。アナタはエンジェの後を遅れないように速足でついていく。
そうして歩くこと十分。距離にしてみれば一キロ歩いたかどうかという所だろうにエンジェが止まった。
如何に都会っ子のアナタといえども、僅か十分ほど歩いただけで音を上げるわけがなく、エンジェにどうかしたのかと尋ねる。
エンジェは進行方向の右前方を指し言った。
「申し訳ありません。先程は問題などないと言いましたが問題が発生しました。森の中から十頭からなる魔物の群れによる追撃を受けている馬車が出現。およそ二十分で此方と接触すると推定されます。御指示を」
そう告げられ、エンジェの指し示す方を見れば小さくとだが、土煙を上げ此方に近づく一団が遠目に見えた。
だが、指示しろと言われたところでアナタは戦闘の指揮など取ったことはない。ましてや数的にも、地の利も武器も何もない極めて不利な状況ともなれば猶更だった。
これが御伽噺の勇者だったり、自己犠牲心に満ちた人ならば戦う、助けるといった選択肢を選ぶのであろうが、生憎とアナタにそんな意思は毛頭なく、如何にして生き延びられるかを考えていた。
逃げる……駄目だ。馬車に迫るような化け物の群れ相手に徒歩で逃げ切れるわけがない。
戦う……論外。戦力外のアナタと、エンジェの二人で戦うなど正気ではない。いや、守護天使であるエンジェが戦えるかどうか分からないが、こんな小さな体ではアナタを守る盾としても使えないだろう。
「……何やら不愉快な視線を感じたので一言言っておきますが、あの程度の魔物を殲滅するなど私の実力からすれば朝飯前です」
じとっと睨みながら言うエンジェを無視し、アナタは最悪の事態は避けられるとそっと安堵に息をつく。そして、エンジェにどうやって馬車に追いつくような魔物の群れを撃滅するのかを尋ねた。
「待ち受けて、魔法による先制攻撃で殲滅します」
魔法。なるほどそれがあったか。
神は確かにこの世界には魔法があると言っていた。だが、パニックに陥っていたアナタの脳からはその事がすっかり抜け落ちていたのだ。
「馬車を誤射する危険性から火力重視の火系術式ではなく、応用性に長けた風系術式を使用し蹂躙します」
それは一体どんな魔法なのだろうか。
風という事は吹き飛ばすのだろうか。それとも嵐のように巻き上げるのだろうか。 いや、想像の枠に当てはめることがそもそも間違いかもしれない。
アナタはこの非常時だというのに心が浮つくのを抑えられなかった。だって男のだもの、仕方ないじゃないか。
「魔法の存在しない世界出身のアナタ様に口で説明して、理解しろというのは、人に空を飛べというような難題を押し付けるようなものです。ちょうど良く的も来てくれたことですし、実演して御覧にいれましょう」
エンジェは振り返り手を持ち上げ人差し指を土煙の方へと指す。
土煙は既に馬車に乗る行者と、それを囲む魔物を数えられる所まで迫っていた。馬車からは時折鋭い棒状のモノが――恐らくは矢が射出され、魔物たちを牽制している。
「————。——・——————。」
エンジェは鈴の鳴るような軽やかな声で、アナタの知らない言語で謡い始めた。
「——。————・——。」
その調べは紡がれていくとともに、旋風がエンジェの周りに巻き起こる。
帽子がふわりと浮かんだアナタは右手で押さえつけ、一瞬一秒を見逃しはしまいとエンジェを見つめる。
「————。——」
取り巻いていた旋風は手の先へと収束する。その数は四つ。旋風は形を変え、空を翔ける燕のような形を成す。
「では御照覧ください、これが魔法、この世界の常識にして非常識の極みです」
エンジェの人差し指以外の握りしめられていた指が開かれるとともに、鳥が馬車へと向かって飛翔した。俊敏に翔ける燕は、僅か数秒ほどの間に馬車へと迫り、囲んでいた魔物たちへと突っ込んでいく。
魔物と燕がぶつかる。だが、燕は拮抗することもなく突き抜け、魔物はミキサーにかけられたが如く千々に引き裂かれる。そうして四体を瞬く間に殺したが、魔物たちは自分が狙われていることに気づき、馬車から燕へと注意を切り替える。
だが、空を飛ぶ燕と地を這う魔物では機動性に天と地ほどの差があり――エンジェの言う通り蹂躙され終わる。
「如何でしたかアナタ様。これこそが魔法、アナタ様の世界にはなかった科学とは異なる新たな力です」
確かに、あれは科学で説明できる代物ではなかった。
詠唱といい、旋風といい、その演出も実に素晴らしくアナタの琴線を揺さぶるものであった。だが――と、アナタは喉元を摩りながらエンジェに優しく言った。
あれは確かに良かった、それは認めたアナタだったが、少しばかりスプラッター過ぎた。遠めでも吹き飛んだ四肢やら肉片やら血煙やらが見えたのだ。もしあれが間近で起こったら到底耐えられなかっただろう。
その事を遠回しにエンジェへと伝えたアナタだったが、
「問題ありません。魔物は死してその肉体を残すことはありませんから、見た目残っているようにも見えますが、すぐに霧散するでしょう」
そういう事じゃないんだよなぁ。とアナタは親指と中指で眉間を揉みながらどう言ったものかと考えていると、ガラガラと車輪が石を踏む音が近くに迫っている事に気づき、考えることを一旦止め、音の方へと向く。
音の主は魔物たちに襲われていた馬車だった。
誤字・脱字等ありましたら、よろしくお願い致します。
後、評価いただければ作者の今後の執筆の励みになります。
なお、私用のため2月3日の更新はありません。